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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 FacataからBungoへ 1


キリシタンにハマった者にとっては、九州は憧れの地。いつも何度でも行ってみたいというのが本音です。今回は古い友人に会いに行くために飛行機に乗りましたが、せっかくなので史跡めぐりも。もちろんテーマはキ・リ・シ・タ・ン♪(うん、そのままだね) 行ってきまーす!



カトリック大名町教会


知人の妹Yちゃんと待ち合わせてカトリック大名町教会へ。今日はここからスタートです。

カトリックの福岡宣教は、1887年パリ外国宣教会によって橋口町(現在の福岡中央郵便局付近)の民家を教会にして始まりました。

このとき司牧にあたっていたのは、「ラゲ訳新約聖書」で知られるラゲ神父。1896年に現敷地に赤レンガ聖堂献堂しましたが、戦時中は接収されていたそうです。

聖堂(おみどう)は2階のようですね。1階のキリスト教書店に並ぶ、踏み絵型置物がビミョーだなと思いながら階段を上ります。



尖塔

カトリック大名町教会

キリスト教書店

踏み絵型置物

大聖堂


2階には大聖堂と小聖堂。日曜など多くの人が集まるときは大聖堂を使い、その他のミサは小聖堂で行われるのだとか。

土曜なのでお掃除中でした。 皆さん、奉仕お疲れさまです。

入口にある勝利の聖母像も見られて良かったです。赤レンガ聖堂や木造聖堂の頃は祭壇上部に取り付けられていたもので、ずっと信徒の祈りに耳を傾けてきた聖像です。



大聖堂内

小聖堂

聖堂への階段

勝利の聖母

市役所跡


この辺りは福岡の中心、天神エリア。市役所跡の碑もそれを物語っています。

近代的なビル群に囲まれて、昔を思うよすがはあまり残っていないようですが、実はキリシタンの足跡が多く残っているエリアだったりします。

そもそも博多(現在の福岡市近辺)は、早くからザビエルら宣教師が訪れた大きな町で、大友宗麟の所領だった頃には宣教師のためのレジデンシア(司祭館)が建てられていました。

うーんと、博多を歩く前に、まずその辺のことをまとめておきましょうか☆彡


博多のキリシタン史


恐らく、博多に下り立った最初のキリスト教徒はフランシスコ・ザビエルとその一行。それまでにも博多港に停泊した外国人の中にクリスチャンがいたかもしれませんが、説法までして行ったザビエルほどは、「キリスト教徒として来た」という思いはなかったでしょう。ザビエルが寄ったのは1550年。これが博多のキリシタン元年と言えそうですね。

本格的な伝道開始は1557年、大友宗麟の援助によって初めて博多に教会が建てられてからです。のちにキリシタン大名となる宗麟ですが、このときはノンクリスチャン。よほどキリスト教を気に入っていたものとみられます。しかし2年後にその教会は破却され、1575年に再興されました。1000人ほどの信徒を獲得したそうです。

しかし・・・いいことは長く続かないのか、1581年にまたもや教会は破却されてしまいました。肥前を治めていた龍造寺隆信によって。りゅーぞーじぃぃ~という感じです。

その後教会ができるのは黒田氏の入封で、黒田官兵衛が博多に来てから。息子で初代藩主となった黒田長政もキリシタンでした。徳川幕府の下で棄教を余儀なくされていきますが・・・その話はまたおいおい。



水鏡神社


おいおいと言いましたが、早速説明しなければならなくなりました。ここ長政時代の殉教地ですので。

1604年、官兵衛が死去すると、当初長政はキリシタンに好意を示していましたが、次第に態度を硬化させ、迫害側に回りました。

黒田氏と福岡藩の存続のためであり、本人の信仰が冷め、揺らぎまでしたことも原因として挙げられます。

1614年、福岡藩で初めて宗門改が行われ、100人のキリシタン藩士が智福寺に集められ、棄教を迫られました。そして棄教を拒んだ2人の者が逆さ吊りにされ、斬首されました。智福寺の跡に建てられたのが、現在の水鏡神社。菅原道真を祀る天満宮です。

天満宮ですので、祭神は天神様。福岡の中心「天神」の地名は、この神社に由来すると解説板に書かれています。キリシタン殉教のことは書かれていませんけどね。境内に入って行ってみましょうか。



解説板

石碑

水鏡神社

「天神」の地名

境内


境内には撫で牛や赤い社殿など、天満宮の名にふさわしい設えが。ビルの谷間にあるスピリチュアルスポットを求めてか、参拝客もひっきりなしに訪れています。

クリスチャンにとっては心痛い場所なので、しばし瞑目してお祈りを。昔はお寺だったとしても、境内の湧水くらいは同じものかもしれませんね。

それにしても、博多で最初の殉教者が出た場所が「天神」だなんて、一体どれくらいの人が知っているんだろう。。ここでちょうど福岡在住のCさんと合流することになったので、聞いてみたら、やはり知らなかったと。ですよねぇ。負の歴史はあまり声高に伝えられていかないのが常なのです ((+_+))



境内

水場

天満宮

巨木

福岡市赤煉瓦文化館


水鏡神社の裏手に回ると、明治レトロな趣の福岡市赤煉瓦文化館が。東京駅や国会議事堂を設計した辰野金吾による建築ですね。

横浜にもこれに激似の建築物があります。現在は会議室を備えた福岡市文学館になっているようです。

正面から見た感じに比して、奥行きはかなり短いのは、減築されたんでしょうか。そうでないとしたら、水鏡神社に遠慮したのかも。



福岡市赤煉瓦文化館

福岡市赤煉瓦文化館

福岡市赤煉瓦文化館

水鏡神社

勝立寺


さて、水鏡神社に続き、こちらの勝立寺も気が滅入るのですが、キリシタンゆかりの地なのでやって来ました。

勝立寺は、元々キリシタンの教会だったのを破却して建てられた寺なのです。その原因となったのは宗論(しゅうろん)とよばれる宗教問答。今風に言うなら、ディベートですか。

元々ここには1604年に伏見で死去した黒田官兵衛の遺言により、長政によって1606年に献堂された聖堂とイエズス会のレジデンスがありました。

しかし幕府の禁令を受けて、長政が仏教側とキリスト教側に分かれて宗論をせよと命じ、その結果仏教側が勝ったので、長政が寺名を「妙典寺」から「勝立寺」にしたんだよと、門前の解説板には書かれています。


「勝立寺」の宗論!?


しかし、解説板をようく見てください。宗論が行われたのは1603年になっています。官兵衛死んでませんし、この頃は長政もキリシタンに好意的でした。大体官兵衛の遺言で聖堂建てられるのはその後ですから、思いっきり話が矛盾しています。

解説板には文献までは載っていませんが、このエピソードの典拠は貝原益軒の「筑前国続風土記」(1709年)。そこには1603(慶長9)年に唯心院日忠と日本人修道士、アントニオ石田が宗論争をして、日忠が勝ち、それに大いに感動した長政が教会用地を寺のものとし、寺名も変えたと書かれています。

しかしその頃アントニオ石田はマンショ伊東、ジュリアン中浦らと共にマカオへ渡り、コレジヨで勉強していました。つまりあり得ないことだらけなんです、この解説は。少なくとも教会が破却され、寺になったのは1613年頃。

その頃長政もいよいよキリスト教弾圧に回らなくてはならなくなり、宗論に勝ったのだと(誰にどのように勝ったのか、宗論やったのかも分からないけど)、「勝立寺」を建てたのでしょう。



家紋


「写真撮ってくれませんか?」と、Cさんが工事の警備員さんに聞いたのですが、断られ(仕事中だから当然か^^;)ましたが、そのおじさんが不思議なことを。

「あれ見て、家紋に十字架2つも入ってる」

ん?確かに・・・。興味を持った私たちに、おじさんは他にもこの寺のアヤシさを披歴してくれたのですが、そっくりそのまま受け取れるほど私は純真でないので、「ほうほう」と聞いてまいりました。

黒田氏がキリシタンを弾圧したと見せかけて、実は熱心なキリスト教徒だったという話(おじさんはそう言いたげだった)は、クリスチャンなら信じたくなるロマンある話ですが、殉教や弾圧の過酷さを知る者にとっては眉唾物だったりします。頭の中にはメモしておきますけども☆



勝立寺

解説板

案内

勝立寺

博多の湊


ザビエルが寄港した450年前と今とでは、埋め立てが進み、海岸線は全く変わってしまっています。もちろん港も。

15~16世紀にかけて、博多の那の津は、薩摩の坊の津、和泉の堺津と並ぶ三大津の一つと数えられた港湾都市でした。

そこでは貿易と商業が繁栄し、町人による自治組織が作られ、戦国時代にも異彩を放っていたのです。

その博多港がどこだったのか、「那の津」の町名が残る那珂川大橋周辺が挙げられそうですが、埋め立てが進んだことを差し引いて考えるなら、中洲の北、須崎公園の辺りがそれに該当しようかと思います。つまり今、弁天橋や大黒橋で渡っている所が昔は港だったことに。当時の殷賑ぶりは想像しにくいけれど。

ザビエルは1550年、ミヤコへ向かうために平戸から船に乗り、博多の袖ノ湊に上陸したといわれています。少なくとも昔ここからは博多湾がよく見えたのでしょうね。ザビエルが来た海が。



博多中学校


大黒橋を渡って那珂川沿いを北に向かうと、 博多中学校があります。

日本カトリック司教協議会が推奨する「日本二十六聖人長崎への道巡礼マップ」によると、1597年1月31日の夜を、26聖人はここで過ごしたのではないかとしています。

26聖人は、国の最高権力者(当時は秀吉)の命令で行われた日本で最初のキリシタン殉教者です。

実際に26聖人の足跡を辿っている方によると、聖人宿泊地は博多中学校より昭和通り(唐津街道)寄りの須崎町・古門戸町付近ではないかということですが。

また見てみると、博多中学校前の解説板「はかた博物館」には、1587年の伴天連追放令の直前、秀吉がイエズス会コエリュ管区長の誘いでフスタ船に乗って博多湾を周り、渚であったこの付近から博多に上陸し、太閤町割りを実施したと書かれています。ふむふむ、やっぱりここが港だったか。「渚」と書かれているのは、湾に広範囲にわたって港があったからかと。

しかも・・・秀吉のフスタ船乗船は、伴天連追放令を出す3日前の出来事ですから、ここは日本キリシタンの命運を決する事件が起こった、正に現場だったということになります。



博多中学校

「はかた博物館」


大黒橋の遺構


ザビエルが来た港で、秀吉は1587年に伴天連追放令を出すことに決め、その10年後にはここに26聖人の姿があった訳です。

この3つのことが重なっているのは偶然なのか何なのか・・・。

大きな港だったから事が重なったという要素はあるでしょうけれど、不思議だなという思いは拭えません。

彼ら同士は、自分たちの足跡が重なっていることなど、きっと知らなかっただろうに。



須崎町



「はかた博物館」

日本福音ルーテル博多教会


須崎町の大黒橋の近くにはルーテル博多教会が。可愛らしいフォルムの教会堂です。

「何か素敵だよね~」などと見ておりましたが、それもそのはず1906年に伝道開始した歴史ある教会で、1948年に建てられたこの教会堂の設計者は、なんとウィリアム・メレル・ヴォーリズ!

この人の建築だというだけで、どれだけ多くの人が訪ね歩いて来ることでしょうか。私もヴォーリズ建築には目がありませんっ♪ 調べもせずに来て、たまたま見つけてヴォーリズだなんて、僥倖以外の何物でも~。

外装は一度リノベーションしていますが、内部は建築当時のままで、パイプオルガンもあるのだとか。あー、見逃した。コンサートなども行われているようなので、いつか聴いてみたいです。



ルーテル博多教会

教会案内

ルーテル博多教会

古門戸町


須崎町を過ぎて古門戸町へ。今日行く所は全部徒歩で回れるのが有り難いです。地下鉄とか乗っちゃうと、どこがどうつながっているのか、距離感が分からなくなってしまうから(アホなせいもある?)

歩いていると、ガブリエルという八百屋さんがありました。名前の由来を聞いてみても、あまり明確な答えが返ってこない博多ワールド。これが当地の風習なのか!?



古門戸町

古門戸町

ガブリエル

石造物

博多小学校


大通りに抜けると博多小学校が。地域に解放されているそうで、夜間や土日には格安で使用可能だとか。ガラス張りの校舎にキレイな体育館が見えます。

確か、この小学校の建設工事のときに、地下からキリシタンのメダイやその鋳型が発掘されたんじゃなかったでしたっけ。後で福岡市博物館に見に行こうと思っていますが (o^^o)



ズラリと武将たちの名が


校舎の壁面には、海を挟んで行われた戦いとそれに参加した武将たちの名がズラリ。

何自慢?と思いますが、歴史自慢ですかね?

こんな歴史があったんだよーという。


いや、それだけに留まりませんね。「400年前、博多小学校のこの場所(神屋宗湛)屋敷に、天下統一を遂げた豊臣秀吉麾下、当時世界最強の戦国武将たち全員が、文禄の役(壬申倭乱)のため集まった」とあります。博多って、朝鮮とも深くつながっていたんですね。特に朝鮮出兵の際には。

「世界最強」だったかは分かりませんが、自分たちではそう考えていたかもしれません。ズラリと並ぶ名前には、毛利秀包、小西行長、大谷刑部、黒田如水、黒田長政の名が。織田有楽斉も一説にはキリシタンだったとも。文禄・慶長の役にはこれ以外にも多くのキリシタン大名・武将が行っています。

誰かここで祈ったかもしれないですね。太閤秀吉は朝鮮侵略を既定路線として取りやめる気配もないけれど、こんな無謀で戦いは避けるべきだと。

口に出すことのできないまま心の中で祈ったことが、後で聞かれたのかもしれません。26聖人の処刑から1年後の1598年、秀吉は病死し、朝鮮出兵も終わりました。



武将たち

武将たち

戦い

博多小学校

袖ノ湊!


聖福寺に向かって歩いていると、旧町名の石碑に「袖ノ湊」の文字が刻まれていました。

旧魚町は上・中・下三町あり、袖ノ湊埋立地まで魚屋が軒を連ねていたのだとか。おおぅ、ここから先ほどの博多中学校までだとすると、結構距離ありますね。

やはり当時の海岸線は須崎町か古門戸町辺りだった可能性がありそうです。ザビエルが寄った港と26聖人の宿所、もう少し正確に分かるようになるといいんですけど (´・ω・`)ヌゥ



旧魚町

御供所公民館

周辺地図

聖福寺


少し歩くと菊の御紋の聖福寺(しょうふくじ)。日本最初の禅寺だそうで。今でこそ規模は縮小されていますが、昔は敷地が900m四方もあったのだとか(迷子になりそ;;)

今日何度も名前が出てきているザビエルさんは、1550年の冬、この寺にやって来て強烈に説法して帰って行ったと伝えられています。

まずは中に入ってみましょうかね☆



解説板

著名人

境内

境内案内図

仏殿


立派な山門の脇を通り、仏殿で三世仏に対面しましたが、方丈や庫裡への道は閉ざされていて、そこまででジ・エンド。

往時は38を数えた塔頭(たっちゅう。大寺院の山内の寺)も現在は6院となったとかで、境内の広さや様子は随分と変わったことでしょう。

それにしてもザビエルったら・・・。
ルイス・フロイスの「日本史」には以下のように書かれています。


フロイス「日本史」より


「筑前国の博多の市(まち)は、住民が見な商人で、上品であり人口が多いが、司祭(ザビエル)はその市に来た時に、禅宗の僧侶の非常に大きい某寺院を訪れた。彼等は現世以外は何ものも存在しないと信じており、公然と多くの男児をかかえ、なんら恥じることなく彼らと霊の自然に反する汚らわしい罪悪に耽っていた。

その仏僧たちは、司祭が、彼らの偽りの神々の出身地である天竺、すなわちシャム国から来た人であるかのように思い、司祭に会って、ともに語ることを喜んだ。長老は司祭を歓迎し、幾つかの果物を供してもてなした。

だが司祭は、彼およびその他の僧侶たちが、なんら恥じることもなく、あのいとも汚らわしく恥ずべき罪悪を行っていることや、来世には何も存在しないと密かに言い含める一方では、同時に純然たる利欲から民衆に向かって死者のために法要を営むように勧めていることを、大声で厳しく譴責し始めた。

仏僧たちは、この予想しなかった説法と、彼がいまだかつて見も知りもしなかった人物であるにもかかわらず、力をこめて厳しく譴責することに驚いた。こうしたことがあった後、彼はそれ以上挨拶の言葉を述べないで彼らを後にして立ち去った」


ザビエルの思い


この「禅宗の僧侶の非常に大きい某寺院」は聖福寺の外なさそうで、袖ノ湊から上陸したという点からもここであろうと断定できようかと思います。ザビエルを天竺かどこかから来たと思って歓待しようとする仏僧たちと、彼らの罪悪(少年を相手にした男色)と腐敗を指摘してやまないザビエル。

いきなりすごい展開ですね。町の人たちはどんな面持ちで見守っていたのか・・・。ザビエルが決してブレない人だったことはうかがえます。1550年だから、鹿児島で仏僧たちの腐敗と堕落を目の当たりにして、宣教の困難さを感じてはいましたが、ミヤコに上って本格的な挫折を味わう前ですから、アグレッシブな感じだったのかもしれません。

まだ日本のことが半分しか分かってなかったザビエル――。そう思うと、聖人の歩みも最初から完成されたものではなかったことが分かります。私はどうだろ?聖人には遥かに及ばぬ一般人ですが、人生全体で悟るべきこと、至るべき境地の、どこまで到達しているのだろうかと思い。

ザビエルは1552年の冬に亡くなっているので、このときからたった2年後ですね。2度とここに来られないと知っていたなら、それだけ激しく譴責したのも理解できます。そういう生き方を選んだんでしょうね。




勅使門

山門

三世仏

庫裡

カフェLamp


呉服町駅まで戻って、カフェLampでランチ。パンも美味しいし、野菜料理がヘルシーだし、女子のココロわしづかみです♪

史跡めぐりで時にはローになるテンションも、お腹を満たしてハイにして、午後もみっちり歩きますかっ!


シーホーク


地下鉄で唐人町に行き、ヤフオクドームを見ながらヒルトン福岡シーホークへ。セレブ感漂っています。

この辺り、高級な割には、ちょっと頑張れば手が出る水準というか、お手頃感があるのが長所かも。

それで福岡は移住者が増加しているそうです。韓国とか海外からの旅行客も多くなってて。確かに街がキレイですもんねー。



ヒルトンシーホーク

運動場

シーホーク


金印が見たくて・・・☆


福岡市博物館


シーホークから歩いて福岡市博物館へ。前からここに来たかったのです☆

見たいぞ金印~!
国宝の圧切長谷部も~(≧▽≦)
キャー

ということで中へ。昔の陶磁器などは予想してましたが、篤姫の描いた絵などは初見。こんなものがあるんだと、黒田家に伝わる物の奥深さを感じました。



15世紀の皿

天目茶碗


印籠

篤姫の描いた絵

迫りくる西洋

戊辰戦争関係

戊辰戦争の時の旗

名物「日本号」


企画展示のところにえらい長い列ができてるなと横目に見ていましたが、近寄ってみて納得。ここに黒田家の名宝たる刀剣類が展示されていました。

すかさず私も列に並び(ほとんどが女性。しかも若年層!)、ガラス越しに熱い視線を送りました。

これが母里太兵衛が持っていた大身槍(おおみやり)、その名も「日本号」かっ。

大盃の酒を一気飲みして(良い子はマネしちゃいけません。大人もね)、福島正則から贈られた物ですね。長さが3.21mもあり、普通の大身槍の倍以上。重さは2.8kgだとか。これ振り回して戦うって、相当な技術と力が必要です。ただそんなことよりもっと、美しいことが特長ですね。刀剣女子の気持ちが少し分かる気が。



女子の列

解説

大身槍

日本号

美しい

長い

母里太兵衛について

圧切長谷部!


そしてこちらが圧切長谷部(へしきり・はせべ)!

信長が黒田官兵衛に褒美として与えた刀で、国宝です。

圧切(へしきり)とは、信長が怒って茶坊主を斬ろうとした時、茶坊主が棚の下に潜り込んで隠れたので、そこに刀を差し込んで、圧(へ)し切ったことにちなむ名前・・・。楽しいネーミングではないですね (;'∀')

しかし高校から大学くらいの女子たちが競うようにしてスマホで撮ってました。中には一眼レフ持参の子も。もしもこんな感じにキリシタンが流行ったりしたら、教会はあっという間にリバイバルするだろうなと思ったり。いやはや、圧切見ながら考え深くなりました。



圧切

解説

銘アップ

解説

国重

国重

刀剣

黒田家名宝

金印


次の部屋に行くと、暗闇の中にホログラムのように浮かぶ金印が。

これが小学校で習った金印か・・・。ちっちゃ!

というのが、実物を見た人のあるある。実際、最も小さな国宝だそう。

ちっちゃいけど重さはそれなりにあるよーということで、金印の重さを体感できるコーナーもありました。古代の博多は外国との玄関口だったんだなと感じました。



銅鏡

朝鮮半島の土器

土器

金印の時代

解説板

重さを体感

金印発見

金印研究書

縄文~弥生


福岡の縄文から弥生時代を見せる展示室も、なかなかの見もの。

甕棺あり、重要文化財に指定された副葬品ありの。弥生人、こんな棺に入っていたんだーと単純に驚きます。

葬られているのが頭蓋骨だけだったり、なぜか人骨が朱に染まっていたり、呪術的な要素も濃厚で。



副葬品

墓地

甕棺


朱に染まる

頭蓋骨だけ

西新遺跡

鉄の鎧


渡来系の物を見ながら、これだけ物が海峡を渡って来たということは、人も随分と行き来してたんだろうなと思いました。

当然文化的影響を強く受けたでしょうし。海さえ越えられるなら、関西やそれ以東などより、ずっと朝鮮半島に近かったのですから当然と言えば当然ですが。

12~13世紀の博多湾を見ると、やはりザビエルが来た頃の海岸線は、先ほどの辺りになりそう。3世紀ほど違うけど、近現代ほどは埋立してないと思いますから。

鴻臚館の映像も興味深かったので、ちょっとシェアを↓。今は見られないものをCGにしていくれるのは、手間がかかるでしょうけど有り難いです♪





渡来系の物

瓦など

海峡を越える

鋤崎古墳の再現

鴻臚館

鴻臚館の発見

博多遺跡群

12~13世紀の博多湾

Facata(博多)はここだ!


展示室を移動していくと、 「Facata(博多)はここだ!」という文字が目に入ってきました。

やーん、私の興味関心のど真ん中 (^^♪ウハー

アバウトでいびつな日本地図の中にFacataはあります。よくよく見ると、中国の地図の端っこの方に描かれているだけですけどね。

大航海時代に入り、アジアにも足を伸ばし始めたヨーロッパ人は、日本の主要な都市として、博多を認識していたんですね。港もあるし、大陸にも近いしで、拠点を作りたかったことは容易に想像できます。それでザビエルも。その後も宣教師がレジデンスや教会を建てたのはFacataを押さえておきたかったのでしょう。



朝鮮・琉球との交流

西洋の波

中国図

メダイと鋳型


見たいと思っていた メダイと鋳型も隣に展示されていました。ヨーロッパつながりということで☆

解説板には書かれていませんが、これが出土したのが博多小学校の地。

興奮して顔を寄せ過ぎて、ガラスに額を思いっきり打ち付けてしまいました。「何事?」って感じの結構大きな音もして、自分で自分の食いつきぶりに引きました (;´Д`)

メダイとは今で言うメダルで、聖母子やキリスト像を鋳出した信心道具のこと。鋳型が同時に出たということは、日本で作っていた訳ですね。日本人キリシタンに配るため、国内生産していたということです。博多の教会がそれだけのイニシアティブを握っていたということでしょうか。

キリシタンというと長崎のイメージがあるので、ちょっと不思議な気もします。関連情報としては、「博多商人が作った長崎の町」という画像がありました。博多の豪商・末次興善(キリシタン)が長崎の町を開くのに貢献したんだとか。ふむふむ、私が知らないキリシタン史がまだまだたくさんありそうです☆彡



メダイと鋳型

解説

博多商人と長崎

朝鮮出兵と博多


さーてと、メダイも見たし、ここらでハリーアップしましょうか。

と思いきや、 「朝鮮出兵と博多」と言われちゃ立ち止まるしかありません。解説板に一言「博多は軍勢・物資の輸送基地」と書かれていました。

それが核心なんですね。秀吉は博多に兵糧を貯めさせるよう指示しています。名護屋は物流拠点としての役割を十分には果たせなかった模様で。



軍勢・物資の輸送基地

屋敷の陣取りを禁ず

文禄・慶長の役

博多の置兵糧

如水と長政


次のコーナーに進むと、「二代目の苦悩」として、如水長政父子のことから、第二代藩主 忠之のことまでが解説されていました。

1568年、戦国の天才軍師、黒田官兵衛の長男として姫路城に生まれた長政。秀吉の下で黒田父子は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州平定などにおいて功績を上げました。

1587年には、父にならって洗礼を受けましたが、その直後に出されたバテレン追放令を受けて棄教。1589年に官兵衛が隠居したため家督を継ぎ、1601年に筑前国に入府。父と共に福岡城を築き、初代福岡藩主となりました。

天才と呼ばれる人の息子として生まれ、しかもそれを継がなきゃいけなかったなんて、相当なプレッシャーです。その上秀吉の伴天連追放令と江戸幕府の禁教令。自身の心中の問題も、自分の思うようにはできませんでした。

続く忠之も大変で、天草・島原一揆と長崎警備の対応に追われました。個人よりも家の存続、繁栄が第一となっていたから仕方ありません。二代目たちだけでなく、官兵衛もそれを重々承知で苦悩していたと思います。



黒田忠之像

二代目の苦悩

キリスト教受難の時代

キリスト教受難の時代

絵地図


江戸時代の絵地図が画面でパッパッと出てくる機械を見つけて再び興奮。後で見ようとカメラに収めてまいりました。

西洋文化の受容のために、1784年には東西学問所(修猷館と甘棠館)が設立され、今も高校として残る東学問所は貝原益軒の流れを汲んでいるんだとか。

10代藩主は長崎にいたシーボルトとも交流があったようですね。天下泰平になり、幕末に近づくほど殿様が学問に力を入れていった様子がうかがえます。



商人の活躍

東西学問所

モダンな感じ


角を曲がると、グッと目を引くカラフルな展示が現れて、時代は明治大正へ。モダンでレトロで、見ているのが楽しくなりましたが、あっという間に戦争関係の展示になりました。

そう、20世紀は戦争の世紀でした。大都市だったから福岡も大変だったろうな。

最後はお祭ワッショイな展示でフィニッシュ。後味良くということでしょう。確かに今の福岡を見ると、街はキレイだし、活気はあるしで、お祭りが続いてるような感じですね☆





モダンなカフェ

戦争関係

復興

お祭り

サザエさん発祥の地


西新駅まで歩こうと信号を渡ったら、海辺モチーフの小公園が。あらま、「サザエさん発祥の地」ですかっ!

サザエさんを描いた漫画家の長谷川町子はクリスチャン。漫画家になる修行のため、田河水泡の家に住み込みで弟子入りしたのです。

そして長谷川が教会に通うのに同道していているうちに、田河夫妻までが洗礼を受けるようになりました。やるじゃん、サザエさん!(いや、長谷川町子ね)

ここにいたのか、町子。というか、ここが浜辺だったってことですね。サザエとかイクラとかワカメとか構想したってことは。するとこの先のキレイな街は全部埋立地・・・。

面しているのは日本海だから津波は襲って来ないだろうけど、地震はあり得ますから、気を付けてほしいものだなと。気を付けるといっても地震は避けられないから、よく聞くのは「正しく怖がって」という言い方ですかね。私風には「祈りながら備えて」。こんなキレイな街に悲しみが襲ってきませんように。



解説板

サザエにカツオ

カニ

サザエさん発祥地

サザエさん通り

周辺地図

西南学院大学

大学前にサザエさん



冬枯れのFacata


キリシタン時代、地図にFacataと記された街を、今日は徒歩と地下鉄で回りました。ザビエルが来たのとちょうど同じ季節に。思えば26聖人が博多に宿ったのも1月末だったから、日付まで狙ったかのように数日違い。こんな寒いときに来てたんですね。

基本ができていてこそ応用も利くと思うのですが、私の知識は基本を成せているのか、いささか疑問。興味に任せて学んでいるので、時折スコッと抜けているところがあって。悩ましいですね ((+_+))

とは言え、もう来ちゃっているので、足りない分は歩きながら学びましょうか。時折雪が舞う冬枯れの街は、400年以上時を隔てているけど、ザビエルと26聖人が見た最後のFacata。何も残っていないはずはないと信じて。

皆裸足だったから、足は氷のように冷たかったでしょうね。セーターもないから、衿元まで綿の衣服を合わせていただろうし。毎日気が遠くなるほど歩いたと思います。潮の匂いは今よりもっとしたことでしょう。乞食のような彼らの姿に向けられる、好奇の目、蔑みの視線――。

やっぱり少しは見えてきそうです。導きよ、カモン。明日も歩くよー☆






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