本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > FacataからBungoへ 2  スマホ版は⇒コチラ

 FacataからBungoへ 2


今日は友人に会いに久留米へ。久留米市役所の旧両替町の部分が、昔のキリシタン教会跡だということも最近知ったので、そちらにも向かいたいと思っています。今日も朝から「さむっ!」という感じ。九州なめてましたね。マフラーぐるぐる巻きにしてGO☆彡



車内


行きはJRで。乗ってしばらくすると、粉雪が降り始めて、車窓はまるで東北。乗り換えで鳥栖にいたら、大きめの雪に変わって、まさに「ゆーきやこんこ」

ワンコならうれしくて走り回るんでしょうけど、人間は首をすくめてホームに立ち尽くすしか。だけどこういうのも旅の情緒ですよね。バーチャルでは味わえない感覚です。

白い息を吐きながら、待つこと15分。雪で遅延しているみたいです。



都府楼南

鳥栖

駅ホーム

久留米駅


久留米駅に着くと、ロータリーに直径4mのタイヤが。久留米はゴム産業発祥の地だったんですね。それで石橋〇〇とブリヂストン創業者の名前が冠された施設があるんだー。

その土地に行けば常識になっていることも、行ったことない人にはイメージさえないことがしばしば。久留米と言えば、タイヤ、ブリヂストンと単語が連結されました。

実は久留米に来るのは2回目で、前回は久留米城跡だけ訪れました。キリシタン大名の毛利秀包とマセンシア(大友宗麟の娘)夫婦がいたからで、今までの久留米のイメージはキリシタン・オンリーでした。他のいろんなことも知って、世間知らずを脱却せよということですね。機会を与えてもらえて感謝。



線路に雪

ゴム産業発祥地

お箸で食べる洋食


友達が連れていってくれたのは、「お箸で食べる洋食」が人気のレストラン。ちゃんとした洋食って、良いですね。豊かな気分になります。

何気なく出てきたコンソメスープが、思わず「うぉっ」と声が出るほど美味しかったです。もっと上品な驚き方をしたいけど...(^▽^;)


久留米市役所


さて久留米市役所の庁舎は、県内で最も高い市庁舎と言われる20階建。最上階が展望ロビーになっていて、久留米城跡や筑後川が見られます。

この庁舎の基礎工事の際、毛利家の副紋である「沢瀉紋(おもだかもん)」が施された瓦とクルス(十字架)がついた瓦が出土したため、キリシタン時代の教会跡だと考えられるようになりました。

だから市庁舎もたまには建て替えるべきなんですよね、うん。こういう昔からの土地には何が眠っているか分からないんから。向こうの緑がこんもりしている所が久留米城跡のようだから、ここまでは馬なら5分程度でしょうか。徒歩だと20分はかかりそう。私が考えていたのと違い、あまり近くないですが、教会跡であることは間違いないでしょう。



展望ロビー

久留米城跡

市民会館

旧両替町

復元模型


展望ロビーにあるこちらがキリシタン 教会堂の復元模型。

南北4列、東西18列の柱跡から、このような建物だったのだろうと推定されています。

これが市庁舎敷地内の旧両替町に当たる所から発掘されたので、両替町遺跡とも呼ばれています。

これ見たかったやつです。昔キリシタンの教会があった所にちゃんと復元模型や解説板があるって、意外とレアなことですから。作ってくれた人ありがとー。発掘してくれた人も。それから・・・、まとめて神様に感謝しておきましょうか♪


久留米とキリシタン


久留米にキリスト教をもたらしたのは、毛利秀包(もうり・ひでかね)という人物。1567年に安芸国(広島県)で毛利元就の九男として生まれました。18歳のとき小牧長久手の戦いに出陣し、続いて四国と九州の役でも戦ったのですが、1586年、九州へ向かう途次、黒田官兵衛の影響で山口において受洗。洗礼名をシモン(シメオン)としました。

戦功を上げて久留米に封じられた後、秀吉の計らいによって、大友宗麟の娘マセンシアを妻として迎え、戦国には珍しいキリシタンカップルが誕生しました。典型的な政略結婚であったにも関わらず、信仰の一致もあってか夫婦仲は良く、夫婦二人三脚でキリスト教の浸透に努めました。

1588年、秀包は宣教師ペドロ・ラモンを城に招いて教理を学び直しました。受洗したときはあまり詳しく教理を学べなかったので、このときゆっくり聴こうとしたのです。すると一緒に聴いた家臣16人が受洗するようになり、武士階級の伝道が始まりました。

久留米ではいい感じに進んでいたキリスト教布教ですが、実はこの前年に秀吉は伴天連追放令を出しており、隣国豊後では大友宗麟の跡を継いだ義統(よしのり)が棄教。それで多くのキリシタンが豊後から筑後に逃れるなどしていました。イエズス会にとっては布教の中心地だった豊後や筑後では、1580年代後半以降、その勢いが急速に衰えかけていたのです。

そこで久留米城を訪れる際に、ペドロ・ラモンも医師に変装してやって来るなどしていました。1589年には「日本史」を書いたルイス・フロイスも当地を訪れ、秀包の嫡男元鎮と家臣24人に洗礼を施しています。文禄年間の久留米周辺のキリシタンは約300人と記録されているので、難しいときにもよく健闘していたと言えるでしょう。



50分の1復元模型

解説

昭和初期の市役所

現在の市役所

キリシタン教会跡


20階から地上に下り、市役所横の公園へ。正にここが両替町遺跡で、キリシタン時代の教会があったはず・・・ですが、イマイチ画(え)が浮かんできません (;^_^A

城下町復元図の中にはキリシタン教会跡だったと書かれていますね。私の友達も含め、久留米市民でもあまりキリシタンのことを知っている人はいないようで、ちょっと残念。

遺跡も完璧に埋め戻されているから、「何にも無い」感が吹きすさんでいます。と思ったら、晴れているのに雪がチラリチラリと舞ってきて、友達の頭に。光が留まったように見えました。何かのご褒美ですかね。誰かによく来たねと言ってもらっているような気がしました。よっしゃ。


久留米での最盛期


文禄・慶長の役で二度も秀包は朝鮮に行かなければなりませんでしたが、1598年の太閤秀吉の死で戦争が終わり、生きて久留米に戻ってくることができました。秀包が帰国してからの数年間が、久留米で最もキリスト教が栄えた時期に当たります。

1589年だけで300人の受洗者があり、その後も武士や僧侶の入信が相次ぎました。1600年になると、それまで主だった施設がなかった久留米に待望のレジデンシア(住院)と教会堂が建設されました。それがここ両替町遺跡の教会堂。記録を見ると、この年新たに1900人が受洗しています。

ここだけでは狭かったらしく、城の近くにもう一つ別の教会堂が建てられたそうで、そちらは信徒たちが率先して建てたものだったようです。こうして久留米では司祭1人、修道士2人が駐在し、7000人の信徒を擁するキリスト教界が形成されるようになりました。これが最盛期となってしまったのですが・・・。



教会堂跡

御使者屋敷跡

久留米市役所

城下町復元図

札ノ辻


大通りを少し歩くと「札ノ辻跡」と書かれた史跡地が。「札」とは幕府や藩が御触れを書いて示した高札のこと。江戸時代を通して高札場には「切支丹禁制」の高札が掲げられていました。

キリシタン最盛期の過ぎた久留米にも、町の辻々にキリスト教禁止の御触書が掲げられる日が来ました。転機になったのは1600年9月に勃発した関ヶ原合戦です。


関ヶ原から暗転まで


秀包は、西軍の大将となった毛利輝元と共に西軍として出陣して、敗れました。留守中の久留米城はマセンシアや元鎮らが籠城していましたが、黒田直之の開城勧告に応じて城を明け渡しました。直之は黒田官兵衛の異母弟でキリシタン。

秀包は事前にマセンシアに、官兵衛麾下の者が来たら城を渡せと指示していたといいます。直之によって保護されたマセンシアと元鎮は、後に毛利氏に戻されて、静かに余生を信仰を持って暮らしました。秀包は改易され、病に罹って長門で療養しましたが、翌年35歳で逝去しました。

今は離れ離れに葬られている三人ですが、私はラッキーにも三人それぞれの墓所に行ったことがあります(毛利秀包の墓毛利マセンシアの墓毛利元鎮の墓)。夫を亡くしたマセンシアは、キリシタン嫌いの毛利氏の中で、信仰を守るために戦わなければなりませんでしたが、気丈にも輝元の棄教命令を突っぱねて、やがて黙認されるに至りました。

しかし・・・、日が上ると消えてしまう朝露を思わせるような、本当に短くも儚い久留米キリシタンの隆盛でした。秀包夫妻が去った後も、柳川城に入った新たな領主 田中吉政の治世下で、信徒たちは何とか活動を続けましたが、かつての輝きは取り戻せませんでした。

実際、新庁舎の建替工事に伴う発掘調査がなかったら、キリシタン教会堂の跡も見つからず、秀包やマセンシア、数多のキリシタンがいたことも忘れ去られていたかもしれません。それを思えば、沢瀉紋とクルスの瓦は、時を超えて届いた彼らのメッセージのようにも受け取れなくはないかなと (*^-^*)



札ノ辻跡

周辺地図



天神に戻ると (o^^o)


最後の晩餐


久し振りの邂逅を終え、帰りは西鉄の駅に送ってもらいました。天神に出やすいということで。天神で降りて地下鉄に乗り換えようとしていると、なぜかダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が。

天神地下街は19世紀のヨーロッパの街並みをイメージして作られたとかで、それでステンドグラスと陶板画が飾られているのだとか。その一つが「最後の晩餐」

ダ・ヴィンチはルネッサンス期の人ですけどもね。まあ、良いのでしょう。確かに天神地下街はちょっと薄暗いけどおしゃれです。



西鉄の駅

最後の晩餐

カトリック西新教会


大濠公園に取ったホテルに戻ろうかと思っていましたが、まだ早いので26聖人ゆかりの教会に行くことにしました。

西新駅から南へ6分ほどで、迷わずカトリック西新教会に到着。幼稚園が併設されていていますね。

元気な園児たちの声に包まれて、ルルドの聖母も微笑んでいるかのようです。



ルルドの聖母

幼稚園

聖堂内


聖堂に入ると、外の活気は遠のいて、聖なる場所に来たという感覚が。

正面のキリスト像の左側で、十字架を持っているのが聖パウロ三木ですね。1564年頃摂津国に生まれ、安土セミナリオの一期生として学び、イエズス会士として働いた人です。

説教がうまかったと伝えられており、長崎に連行されて行くときにも沿道の民衆に語り続けたのだとか。



十字架の道行

聖像

聖パウロ三木

聖画

聖遺物


中央の祭壇に埋め込まれているのが、その聖パウロ三木と3人の殉教者の聖遺物だということです。これが見たくて来ました。感謝です。

26聖人は京都から長崎に向かう途中、博多で一泊したことは昨日書きましたが、翌日歩いて行った道が、この近くの早良街道。

それで26聖人の1人である聖パウロ三木を守護聖人とし、聖遺物ももらい受けたんですね。

なんだか昨日辿れなかった道を、今日継がせてもらっているかのようです。こんにちは、パウロ様。足跡を辿っている者です。いろいろと教えてくださいね。お願いします――。心の中でちょいお話を (o^^o)



祭壇

祭壇

聖遺物

聖遺物

サザエさん通り


少し分かりにくい路地を、スマホのナビに頼って脱出し、大通りへと参りました。こちらが早良街道。

そしてこれと交わるはサザエさん商店街通りが、26聖人が歩いた旧街道、唐津街道です。百道浜から続くサザエさん通りとは違うので要注意。

いやもう、長谷川町子に知らせてあげたいです。26聖人が通った道が、サザエさんの名前を冠した商店街になってるって。



サザエさん商店街通り


唐津街道は現在の県道556号で、「日本二十六聖人長崎への道巡礼マップ」ではこの道を巡礼路としていますが、26聖人が実際に歩いた道は、所々違っています。

道路の整備工事の際には、昔の街道とは少しズレた所に道を通すことがままあったので、旧街道が小道として残されている場合があるのです。

それがここということで。サザエさんの笑顔がはためいています。早良街道と唐津街道の交わる所だから、札ノ辻もあったかもしれないですね。時間があったら、全部辿ってみたいくらいです。今回は無理だけど☆



サザエさん商店街通り

カトリック西新教会

西新教会のパンフ

西新教会のパンフ

修猷館高校


駅南のごちゃごちゃとした所を抜けて、北側に出るとシュッとした感じの街に様変わり。セレブな文教地区に入りましたよと、私の中のセレブ・センサーが告げています。

左手にあるのが修猷館高校。藩が肝入りで作った東西学問所の東の方ですね。西学問所の甘棠館は既になく、こちらだけが名門高校として残っています。

著名な法学者でクリスチャンの田中耕太郎の出身校なので、学内にある資料館とやらを見てみたいですが、何か特別なときしか一般公開されてないようです。防犯上の理由があるのでしょうけど、ちょっと考えてもらいたいなと。

西南学院大学の敷地内に元寇のときの防塁が残っているというので、重たい足を引きずって、見に行ってみましたが、見つからずでorzでした。聖遺物とサザエさんで運使い果たしたかも (;´д`)ンワナケナイ



修猷館

防塁

西南学院大学

西南学院大学


昨日から気になってチラチラ見ている西南学院大学は、キリスト教主義の学校。

宣教師によって始められたので、いわゆるミッション系ですね。たぶんここがセレブ香の発信源。

創立者の遺訓は、「Seinan, Be True To Christ」だそう。キリストに真実であれ、か。なんかすごい。



西南学院大学

校門

校舎

校舎

西南学院大学博物館


さてさて、ここに来ましたのは、明確な目的があってのこと。それは西南学院大学の博物館!

大体この歴史と風格漂う建物からして、ただモノではないと感じられるのですが、こちら、ヴォーリズ建築ですからっ(ここで拍手~)

中にはキリスト教関係の資料、展示物がいっぱい。さぁ、中に入ってみよう♪



ヴォーリズ建築

宣教師の名

解説板

石碑

ロスチャイルド詞集


特別展「キリスト教の祈りと芸術 ―装飾写本から聖画像まで― 」の開催中に来ることができたのはラッキーでした。

特別展の展示室は一つの部屋を仕切ったもので広くはなく、展示品も多くないですが、気合が入っているのが素晴らしいです。

「Ⅰ章 信仰の芸術」には聖書写本や祈祷書などが。精度の高い複製も良いですし、ラテン語聖書と神曲は本物。

昔は聖書は貴重なものだったんだなと、そういうことだけ分かっても勉強になります☆



典礼聖歌

昔の聖書

ラテン語聖書

神曲

聖画


「Ⅱ章 思想の広がり」では、宗教改革と対抗宗教改革としての海外宣教にスポットが当てられていました。

「Ⅲ章 受容のかたち」では世界の聖画を紹介。地域には偏りがありますが、見せようとする気合があるのが良いのです。

特別展に関しては、写真撮影を許可していることも太っ腹。よっ、西南!



特別展パンフ

特別展パンフ

特別展

聖画

マリア観音


カトリックによる対抗宗教改革の一環として日本宣教が行われたという捉え方で、日本のキリスト教を表すものとして、マリア観音も展示されていました。

これ、東京国立博物館(トーハク)にあるのと激似ですね。

同じ工房で同時期に同じ型で作られたと思われるくらいです。解説板には、浦上村で潜伏していたキリシタンが所持していたもので、没収を免れてここにあると書かれています。摘発も没収も免れるのが難しかったと思いますが。

それでもこのマリア観音像に関しては、本物である可能性が結構あると思いますね。トーハクにあるそっくりさんの方は、長崎奉行所が信徒たちから直接没収した完璧な(つまり信徒たちが本気で祈っていた)マリア観音像ですから。

各地で偽物を見てきた身としては、トーハク以外で久し振りに見る信憑性あるキリシタン遺物です。有り難くて、思わず拝みたくなるほど。拝みはしませんけどもね☆



解説

聖像

聖画

聖画

ルター訳聖書


ルター訳聖書、聖フランシスコ・ザビエル伝が並んで展示されているのも、考えてみれば奇妙な取り合わせ。

一方は宗教改革(プロテスタント)で、他方は対抗宗教改革(カトリック)のものですから。

西南学院の創立者C.K.ドージャーは南部バプテスト派ですから、バリバリのプロテスタントですからルターは理解できるとしても、「ザビエルも?」という感じ。

しかし自分自身が宣教師なので、世界宣教、特に「東洋の使徒」と呼ばれたザビエルに対しては、尊敬の念があったのかもしれません。少なくとも興味はあったのでしょう。また日本に力を注いだので、キリシタンの歴史にも一定のリスペクトを持っていたのではないかと考えられます。

収蔵品のすべてをドージャー夫妻が集めたとは思えませんが、西南学院の基となるキリスト教主義が、決して狭いものではなく、日本に初めてキリスト教を伝えた人々にも敬意を持っていたことが感じられて良かったです。



チューリッヒ聖書

ザビエル像

ザビエル伝

キリシタン版

典礼書

アジア地図

解説板

イコン

講堂


博物館の2階3階は吹き抜けになっていて、「講堂」とありますが、礼拝堂ですね。前に十字架ありますし。

もちろん設計者はヴォーリズ。この人の建築は落ち着くのです。ヴォーリズも日本文化を尊重した人でした。

この他、常設展では聖書の世界を感じられる写本や聖書、キリシタン時代を彷彿とさせる魔鏡などが展示されていました。

折しも常設展の中に「中世島原半島の信仰とキリスト教」という期間限定コーナーができていて、果てしなく私のためのように思えました♪ もう今日はご馳走さまでしたって感じです。



西南学院大学博物館

C.K.ドージャー

常設展

常設展

中世島原半島

展示品リスト

博物館ニュース

博物館ニュース

大濠公園駅


地下鉄で大濠公園駅で降り、コンビニで夕飯を買ってホテルへ。後で気付いたんですけど、大濠公園駅の辺りも26聖人が歩いていますね。

ここでも旧街道が裏道になっているから、駅から北へ一本入って左折した道がそれに当たります。ホテルに行くとき通ったのに、ちゃんと写真撮らなくて失敗しました。

どこにキリシタンの足跡が転がっているか分からないので、注意していなきゃです。なにしろここ、九州なんですから。明日は大分に向かいます。大分もちゃっかりしっかり楽しめますように !(^^)!





コピーでなくスキャン


何かをするとき、これを丸ごとコピーして頭の中に入れられたらと思うことがあります。資格試験の前とか、覚えなきゃいけないスピーチとか。だけどキリシタン史については、コピーよりもスキャンがいいなと思います。スキャナーで自分の中に取り込んで、自分のものにできたらと思うのです。

なぜなら、そこで歴史を作った人たちの思いを、内側から感じたいからです。生きてる時代が違い、それゆえ社会常識も異なり、100パーセントは無理かもしれませんが、少なくとも信仰的な部分では共通することがあるので、不可能だとは思わなくて。

今やネット世界はコピペ全盛で、元々誰が言ったことなのかも分からないくらい、コピーされた情報で溢れています。しかし、だからこそここでスキャンという新しい手を、使えないものかと思ったりするのです。

自分の中に取り込んで、そこから発信するなら、コピーとはまた違ったものを残せる可能性があります。私という人が生きて感じたことを、記号化された情報に乗せて――。そんな、面倒くさいけれど試行錯誤する価値があるもののために、明日も行こうと思います (^_-)-☆






                                  NEXT >>