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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 FacataからBungoへ 3


今日からは大分へ。福岡までは飛行機で一区間のイメージだど、大分はもう一足伸ばさないと行けないので、行ける機会が貴重。知人を介して知り合ったHちゃんが大分にいるうちに行こうと思いまして。高速バスで向かいます♪



雪!


今日は冷えるなと思っていたら、あっという間に車窓は雪景色。

特に福岡から大分の県境の辺りが山で、ちょっとした雪国ですね。ガトーショコラかいっ!と思うような民家もあったりして。

九州は暖かいという固定観念が大きく覆されました。そうか、九州にも厳冬期があったのね。




車内

高速道路

カトリック大分教会


大分市内に入ると、さすがに平地なので雪は積もっていなくて、きれいな冬晴れ。風はちょっと冷たいけれど。

Hちゃんが車を出してくれたので、まずはカトリック大分教会へ。前は正面を通り過ぎただけだったので、中に入るのは初めて。

どうもお邪魔しますー(*^-^*)


聖堂内


こちらの聖堂は、カトリック大分司教区の司教座教会(カテドラル)。その趣があります。

1551年のフランシスコ・ザビエル来訪に始まる豊後キリシタンの歴史。それを現代に受け継ぐ聖堂は、重厚だけど優美。

当地でのキリシタンの歴史を紐解きたい私にとっては、これ以上ないプロローグです☆



いつくしみのイエス

入口

祭壇

ザビエル像

ステンドグラス

バラ窓

ステンドグラス

聖堂

小聖堂


ここに来たら必ず見たいと思っていたバルタザール加賀山半左衛門とディエゴ像が見当たらないと思っていたら、Hちゃんが手招きを。

聖堂内後方の小聖堂に殉教者父子の像はありました。

静かに祈れる空間になっていていいですね。像は思ったより大きくはないようです。



福者バルタザール加賀山半左衛門とディエゴ像


こちらが1619年、日出で処刑されたバルタザール加賀山半左衛門と5歳の息子ディエゴの像。

2008年に福者に列せられたキリシタン殉教者188人のうちの2人です。

父親を見上げる5歳の息子ディエゴの姿が健気ですね。



2人の像

祭壇

小聖堂

小聖堂

大友氏遺跡体験学習館


それでは豊後のお屋形様にしてキリシタン大名たる大友宗麟の面影を求めて、大友氏関係の所へ。

情報収集のため大友氏遺跡体験学習館を目指して来たのですが・・・。えーと、だだっ広い駐車場と広場しかありませんけど、ここでいいんでしょうかね?

ものすごく広大な屋敷跡が発見されたと聞いて来たんですけども。。( ゚Д゚)ハテ?


広大

駐車場

ん?プレハブが

大友氏遺跡体験学習館内


広大な敷地にポツンと建っているプレハブ。こちらが件の大友氏遺跡体験学習館でした。

遺跡が広大過ぎて発掘や展示が追い付いてない状態なのでしょう(と、解することに)。

中に入ると、子供さん向けの展示に、若干大人レベルの解説も添えられている感じ。「体験学習館」ですからね、そういう目的で運営されているんだなと思いました。



ここにあった大友館

ザビエル

府内の町

大友館庭園

府内の町と現代地図


宗麟時代の府内の町と現代地図とを見比べると、ここは万寿寺跡ということになりますね。大友館の跡かと思ってたからちょい残念。

そっか、居館跡は普通の市街地となっていて、思うように発掘して遺跡を保護することはできないのでしょう。

鉄道も2本横断してますしね。地図を見て、ようやく事態が把握できました。



府内病院

府内の教会

府内のキリスト教

大友宗麟の生涯

視聴覚コーナー


ザビエルと宗麟をドラゴンボール風にキャラクター化したパネルを横目に見ながら(怒り爆発させないためには目をそらす必要が^^;)、豊後キリシタンの映像があるというので、是非見たいと食いついてみました。

プロジェクターを何もない壁に向かって投影するという、家庭的な雰囲気で映像を鑑賞。やっぱり映像でたどってもらえると、理解がしやすいです。

ほんの一部がこちら↓





町117を発掘中

精度の高い解説

気合入ったパンフ

中身も詳細

西山城大友館跡


大友氏遺跡体験学習館で気合の入ったパンフレット類を多数もらって、西山城(上原)大友館跡へ。住宅地に囲まれた一角に小高い丘があって、鳥居をくぐって石段を登って行くと館跡。丘かと思いましたが整っているので土塁ですね。

堀の跡も見受けられます。世に知られる「二階崩れの変」は、ここかもう一つの大友氏館跡のどちらかで起きました。


石碑


「二階崩れの変」とは、1550(天文19年)、大友義鑑が嫡男であった義鎮(のちの宗麟)を廃嫡し、側室の子である塩市丸を寵愛して跡取りにしようとしたことに端を発したお家騒動。

義鎮派の家臣の急襲によって義鑑は大怪我を負い、側室と塩市丸らは殺害されました。反逆した家臣たちも討たれて騒ぎは収拾しましたが、義鑑は反省しながら跡を義鎮に譲ると言って世を去りました。

宗麟にとっては、生涯忘れ得ない苦い盃だったのではないでしょうか。宗麟の人生を見ていくと、ファザコンと強烈なマザコンを感じます。その枠内だけで論じるのは早計でしょうけれど。



西山城大友館跡

神社

石碑

解説板

上野館について

現代地図と

西山城大友館跡

登り口の鳥居

ランチ♪


お昼は駅近のアーケード街にあるHちゃんおすすめの店で。大分は海の物が美味しいです。おまけにコスパ良しで。

温泉も出るし(Hちゃん家はマンションだけど温泉付き)、水もいいしで、大分を離れると肌の調子が悪くなる人もいるそうな。私が思うに物価も高くなさそうです。良いわー☆


府内城


では再び車に乗って府内城へ。この辺りはザビエルや宗麟の頃は海辺で、1597(慶長2)年から築城開始されました。

1601(慶長6)年に竹中重利が初代府内藩主として入城してからが、府内城の本格スタートだったと言えそうです。

そしてその息子 重義が第二代藩主となってから厳しいキリシタン弾圧が行われました。「竹中采女正」という名前が、迫害者リストに頻出しますが、それがこの竹中重義なのです。

重義の時代に穴吊りなどの拷問が考案され、映画「沈黙」の冒頭に出てくる雲仙の地獄責めも、彼の指示で行われたものでした。それは長崎奉行を兼任していたからですが、竹中重義の苛烈さは職務の域を超えていたかと思います。

今は更地だけが残る府内城址には、夜になるとライトアップして城の姿が浮かび上がる仕組みになっていますけど、有り難がって見に来る気にはなれないかなぁ。。フェンスに取り付けられた多数の解説板も、教えてくれるのは城の構造ばかりで、肝心の「人」については書かれていませんね。

府内城主がキリシタン迫害の首謀者だったことは、大友宗麟がキリシタン大名だったのと同じくらいのウェイトで覚えておくべきことだと思うんですけど。宗麟によって南蛮文化が栄えて・・・というのだけ喧伝するのは片手落ちとしか言いようがありません。



ライトアップ

府内城

イルミネーション

宗門櫓、人質櫓

門と番所


解説板


府内城ミニ企画展


Hちゃんが「あれトイレかなー」と近づいていくのでついていくと、「府内城ミニ企画展」と書いてあり、解説用プレハブでした(失礼しました;;)

中には府内城のジオラマと良質な紙のパンフ類が。ジオラマにもある「人質櫓」というのが気になって、そこにいた方に聞いてみましたが、よく分からないとのこと。

解説板にも建てられた年と二重櫓だったことくらいしか書かれてないし。ついでに言うなら「宗門櫓」もあるのですが、大規模な修理が予定されているとしか解説されていません。恐らくここに、摘発したキリシタンから取り上げた宗門道具(ロザリオなど)が収められていたでしょうに。

大体「宗門櫓」なんてものがあったこと自体、藩主が長崎奉行を務め、藩内のキリシタン弾圧にも血道を上げていた証左なんですが、その辺への言及が一言もないって、え?どうなんでしょうって感じです。誰もがスルーしてますよね。ザビエルとか宗麟とか、町の宣伝になりそうなことは言うけど。郷土史家さんたちも声を上げてはどうなんですかね。歴史に対するこの態度、疑問です (--〆)ムムー



ジオラマ

人質櫓

発掘品

古地図

遊歩公園のザビエル像


では府内城前から続く遊歩公園へ。

こちらには大分市長だった上田保(うえだ・たもつ)氏の肝入りで制作されるようになった彫刻が並んでいます。

国内トップクラスの芸術家に依頼して作られたので、いずれも見劣りしない出来栄えで、目の保養になります。


たもっちゃんのことを話させて♪


さてここで上田保について紹介しておきましょう。大分市のキリシタン町おこしの先駆けとなった人物で、私の中では「たもっちゃん」♪

1894年に生を享けた上田保は、東京で20年間弁護士として働いた後、昭和22年から16年間大分市長を務めました。市長引退後に受洗してクリスチャンに。「教理や殉教の研究をしているうちに深みにはまった。宗麟も似た心境ではなかったか」と語っています。

上田保が市長になった時代というのは、日本が戦争に負けて、食べるものも着るものもなかった頃。貧しいけれど、心までそうなってはいけない、故郷への誇りを取り戻そうと思い、大分が世界に誇れるものは何かと上田は考えました。

そうしてまず瀧廉太郎の銅像を建てるようになり、そのつながりで、大分市が日本における西洋音楽発祥の地であることを知りました。

それからキリシタンのことを勉強し、宗麟時代に日本で初めて西洋医学の病院が建てられたこと、教会や育児院、子供のための初等教育機関があったことなどを知りました。そしてこれこそが大分が世界に誇れる宝だと確信したのです。



ザビエル像解説碑

西洋医術発祥記念碑

西洋医術発祥記念碑

瀧廉太郎像

ソロモンの審判


居並ぶ銅像の示す内容については、こちらの旅行記(九州のキリシタン・ロードをゆくⅡ)に書いているので省略して、ちょっと寄贈者に注目を☆

「株式会社マリーン・パレス社長 上田保」となっています。これは何かというと、上田保が市長引退後、この会社の社長となって、これらの銅像を寄贈したということ。

あの世界初の回遊水槽があるマリーン・パレスは上田保のアイデアで作られたものなんですね。驚くべきことに、有名な高崎山のサル園も、たもっちゃんの市長時代のアイデア。畑を荒らすサルを殺すのではなく、エサやりをするようにして観光資源に変えたのです。

これくらい言えば、私が慕う理由が分かってもらえるかと思いますが、もう一つ付け加えて言うならば、ローマ教皇に会いに行き、「大分を東洋のカトリック聖地にしたい。キリシタン博物館を建てたい」という構想を話して、ナント建設資金千ドルをバチカンからもらったということを挙げることができるでしょうか。よくくれたもんだなと思いますが、それだけ実行力のあった人だったことは分かります。教皇もついあげてしまったのかも (^_^;)

だとすると、未だにどちらも成就していないのは、たもっちゃんも残念でしょうね。大分市にはキリシタン博物館はないし、聖地になるほどのキリスト教的母体もまだ。たもっちゃんの夢を叶えてあげたいところですが・・・。

歴史を振り返ってみるならば、迫害側でもあったことを認めて、悔い改めることも必要な気がしますね。歴史においていいところ取りは、やはりしてはいけないと思いますので。



西洋劇発祥記念碑

育児院と牛乳の記念碑

朝倉文夫の作品

府内城


日出に行ってみよう♪


二の丸館


Hちゃん「まだ時間ありますねー」
私「日出(ひじ)行けたらと思うんだけど、遠いかな?」
Hちゃん「いや、近いですよ。40分くらいかな」

ということで、日出にやって来ました。まずは観光案内所兼お休み処、二の丸館へ。ネーミングからすると、ここが既に昔の城内っぽいですね。

充実したパンフをもらって日出散歩にゴー。大分県は全般的にパンフ類がよく作られていて、旅人には良いですよ。観光に力を入れようとしているのが感じられます☆彡



二の丸館

井戸

パンフ

パンフ

瀧廉太郎像


二の丸館の敷地から出ると、見慣れた像が。瀧廉太郎です。廉太郎の先祖は日出藩の家老ですからね。以前は大分市にあった廉太郎のお墓も、今は移されて日出にあるし。

ちなみにこの像の制作者は朝倉文夫。朝倉文夫に依頼したのは上田保です。遊歩公園にあった像の複製がここにも置かれているんですね。やっぱたもっちゃーん!


解説板

瀧廉太郎像

旧木下家居所

帆足萬里像

隅櫓


隅櫓は日出城址の鬼門に建てられたもの。1601年の日出城築城の際に築かれ、廃藩置県で一般の手に渡ったものの、後に寄贈され、今に伝わっているのだとか。

だとすると、日出城の方は無くなった今、こちらが一番当時を偲ばせるものではないかと。

日出城は――。今朝方カトリック大分教会で見たバルタザール加賀山半左衛門が出仕していた城ですね。そして彼の処刑命令が出された城でもあります・・・。このときの藩主は木下延俊(きのした・のぶとし)。木下家は秀吉の正室 北政所の親戚筋にあたり、初代日出藩主となった延俊は、漢籍などにも精通した茶人でもありました。



隅櫓

隅櫓解説板

日出の水

子供たち

海への坂道


日出城の周囲を回ろうと道を折れると、坂の下に海が見えてきました。おお、いい感じ。

最近よく聞くようになった「城下(しろした)カレイ」とは、この日出城址の下に広がる海で、海底から真水が湧き出している海域があり、そこで獲れるマコガレイが非常に美味だったことから付いた名前。「城」とは日出城のことを言うのです。

白壁が途切れると、髙い石垣が山を取り囲むように築かれていることが分かります。日出城の縄張りをしたのは細川忠興(細川ガラシャの夫)と言われ、石垣は穴太衆の穴太理右衛門が野良積み技法で構築したそう。 海に向かってそそり立つ日出城の雄姿はきっと素晴らしかったでしょうね。今は石垣と櫓が残るのみですが。

というか、カレイが釣れて良かったですね。そうでなければもっと寂れていたかも。日出はザビエルが別府湾を渡って府内(大分市)へと浜出した所とも言われている(諸説あり)ので、寂れなくて良かったと思うことしきり。



海~

坂道

石垣

日出城址

人柱祠


パンフレットの地図に載ってて、「えっ!?」と思っていたのが「人柱祠」の文字。坂道を下って行ったら、城と海との間にポツンとありました。

ここに・・・、人柱を立てたみたいですね。築城工事の成功を祈願して、生きたまま人を埋めたようです。発掘したら老武士の遺体が見つかったのだとか。

しかしいくら難工事だと言ってもねぇ。。海の神や山の神、その他の神々を奉る信仰では、人身御供を捧げることが、神が喜ぶことだと考えるので、何か願い事を叶えてもらおうとするとき、恐ろしい手段を取ります。ほんとの神様はそんなこと喜ばないでしょうにね。



人柱祠

解説板

上に神社

城の石垣

別府湾


さぁ、こちらが海!(見れば分かる)

別府湾です。ちょうど陽が傾きかけて、得も言われぬ神々しさ。

何あの雲、カッコよすぎ。天から誰か降りてきそう。

ああ、こんなすごくて美しいもの、自分たちだけで見ていちゃいけない気がする。いや自分たちに特別に見せてくださったと感謝すべきかな。どっちでもいい。どっちでもいいけど、神様は素晴らしいです。こんな素敵に万物を創られて。





海岸

城下カレイの湧水地

フランシスコ・ザビエル浜出の地


フランシスコ・ザビエル浜出の地は、城から少し歩いた海岸沿い。これまたポツンと解説板が一枚せっちされているだけですけど。

静かな浜辺ですね。水深はまあまあありそうだけど。

ザビエルが日出から府内に向かったかどうかは、諸説あってはっきりはしていないけれど、来てみたかったので感謝。

ここから見える景色も格別ですよ。目印になるのは、城下カレイの供養塔の少し先のトイレ。トイレとベンチがあり、その前に「フランシスコ・ザビエル浜出の地」解説板が建てられています。たとえ解説板の場所が分からなくても、この景色を見ながら歩いていたら、それだけで心満たされますけどね♪



城下カレイ供養塔

解説板


陽光

海と空


海と空、光の共演による、思いがけない美しさに打たれて、後はもうどうでもいいような気分になって、そぞろ歩き。

旅の現場では、こういう瞬間があってもいいですよね。

予期していたのを遥かに上回る感動に出会ってこそのリアル旅なのです。自分の体を現場に持って行って初めて、感じられることがあり、刻まれることがあり。私はこの青く澄みきった光を心に刻みます (*'▽')



評定所跡


坂道を戻って二の丸館へ。道を挟んだ所にあるこちらが、地図によると評定所のあった所のようです。

評定所とは自藩の武士の問題を裁いた所。例えばキリシタンか否か、キリシタンならば処罰するなどの訴訟は、ここで行われたと考えられます。

なので、バルタザール加賀山半左衛門は、ここで取調べや審議、判決申し渡しがされた可能性がありますね。違うかな?

バルタザール加賀山ほどの上級武士(家老職だった)なら、本丸の奥座敷とかで藩主直々に、まずは蟄居とか申し渡されてもおかしくないですね。そしてそれでもキリシタンを止めぬとなれば、ディエゴの居宅に上使を送って、切腹を申し付けるとの「上意」が伝えられたことでしょう。

それから期日に役人に引き立てられて市中引き回しとなり、最後は刑場に。自殺を禁じるキリシタンの教えに従って、首を斬られて死んだはずです。幼い息子と一緒に。今日、日没まで余裕があったら、日出藩成敗場跡まで行けるといいな。私は行ったことがあるけど、Hちゃんはないだろうから。



松屋寺


それでは車に乗って、松屋寺(しょうおくじ)へ。日出藩木下家の菩提寺で、日出藩歴代藩主や親族、家臣の墓があるそうな。

いつからか、キリシタンだけでなく、迫害者やキリシタン処刑を命じた者の墓まで見ることが、私の趣味(?)になってまして。

しかし日本一の大蘇鉄はあっても、木下家墓所が見当たらない・・・。一体どこに?
パンフのアバウトな地図だと寺から少し離れてるみたい?


大蘇鉄

大蘇鉄

境内


木下家墓所


探し回っても見つからず、諦めかけたところで、Hちゃんの体育会系の粘りが功を奏し(私の文科系のノリでは無理だった;;)、見つかりました、木下家墓所!!

2人で来て良かった。1人じゃ諦めてたと思います。「2人は強い」という聖書の言葉を思い出しながら、墓所に足を踏み入れて・・・やっぱり2人で良かったと思いました。漂う霊気がハンパなくて。

2百数十年間に渡って造られたにも関わらず、まるで1人の人が造ったみたいに激似の五輪塔がズラリ。しかも私よりでかいサイズで、怖い上級生に囲まれているみたい。大体石の持つ「圧」ってすごいから。さっきまでの浜辺の爽やかさは吹っ飛んで、湿った空気が支配しています。ここの周りも墓地ですしね。爽やかさを求めるのはお門違いではありますが、夜中に1人だったら大人でも泣けるレベルでしょう (;´Д`)



木下家関係図

解説板

木下家墓所

木下家墓所

初代藩主 延俊の墓


一番目立つセンター占めているのが、初代藩主 延俊の墓。いきなりラスボス来た感じです。探す手間が省けてラッキーと言うべきか。

この人の墓がこの形だから、歴代の墓はこのコピーとして造られていったんでしょうね。代々の藩主たちが行った政治も、延俊をお手本にしたコピーだったのかもなと思ったり。

そんなに初代藩主とは偉大なものなのか、現代に生きる者には分かりかねるけれど。こちらには日出藩歴代藩主だけでなく、親族、家臣の墓52基があります。家臣の墓というのは、藩主の死に際して殉死した人たちのもの。殉死した家臣の墓に囲まれて、藩主の墓がある様子は、それこそ「現代に生きる者には分かりかねる」光景。

人柱と言い、殉死と言い、どこの藩でもあったことでしょうけど、因習じみた感じは否めませんね。キリシタンの思想を少しでも受け入れていたら、もうちょっと違う様子だったろうにと思うのですが。



初代藩主 延俊の墓

殉死した家臣の墓

殉死した家臣の墓

二代 延治の墓

龍泉寺


次は瀧廉太郎の墓がある龍泉寺へ。前、大分市の万寿寺を訪れて、廉太郎の墓はどこですかと尋ねたら、「今はないんですよ。子孫の方が日出の方に移されたので」と言われたのですが、それがここだったんですね。

二の丸館のガイドさんは、龍泉寺は16時で閉門すると言っていたので、もう無理かなと思っていたのですが(現在16時半)、ん、まだ開いているようですね。



瀧廉太郎の墓


山門入ってすぐの好立地に廉太郎や家族が眠る、瀧家の墓域がありました。廉太郎の墓碑が古いのは、万寿寺に建てられていたものをそのまま持って来たからではないかと。

ふむふむ、解説板によると、瀧家の初代は、日出藩初代藩主木下延俊に認められて、重臣として召し抱えられたのだとか。

・・・ということは、廉太郎の先祖とバルタザール加賀山は恐らく会ってますね。加賀山の処遇をどうしようかと、重臣たちで会議することもあったはず。加賀山はカトリックで、廉太郎は聖公会だけど、2人のクリスチャンのが先祖でつながっているのは興味深いことです。



解説板

瀧家累代の墓

郁子の墓

初代の墓

日出殉教公園


日は陰ってきたけれど、まだ十分明るいので日出殉教公園へ。Hちゃんを連れて来ることができて良かったです(乗せてもらっているのは私だけどw)。

ここは日出藩の成敗場跡。バルタザール加賀山と息子のディエゴの殉教地です。バチカン大使も訪れて、以前より整えられたようですね。

往時は薄暗い山の中だったのかもしれませんが、現在は山を切り拓いた新興住宅地が続々と形成されていて、その中にある景観の良い公園になっています。地域住民にとって憩いの場になっているなら、こんないいことはありませんね。殉教者は天国に行ったのですから、暗く侘しい思いで捉える必要はないのです。



日出殉教公園

バチカン大使も

日出殉教公園

記念碑

殉教地


刑死者の慰霊碑が建てられている所に、「殉教の地」解説板が建てられていました。

ボランティアの人たちの手によって、きれいに管理されているようです。ありがたや。

ここでは僧侶と神父による合同慰霊祭も毎年行われていると聞きます。こんな九州の片隅で何とエキュメニカルな。宗教の狭量さが多くの犠牲者を生んだことを思えば、そんな犠牲者たちを弔うことから和解と平和への道を模索するのも一つの手。私はクリスチャンだけど、仏教や神道の人たちとも手を組んで、日本の平和を成さたらなと思います。


日出藩でのキリシタン処刑


バルタザール加賀山とディエゴに話を戻しますと、日出藩でキリシタンの処刑が行われたのはこの一件のみ。領内に700人ほどは信徒がいたと考えられますが、明治維新に至るまで藩から殉教者が出なかったことはどう受け止めるべきか?

まず日出藩の木下家が外様だったことを思えば、幕府に忠誠を示すために、キリシタン処刑を行ったのはやむを得なかっただろうと思います。だけれど処刑したのが藩の家老職だった事実は、幕閣によって高く評価されたことでしょう。

つまりバルタザール加賀山の死は、日出藩の安泰――、それは木下家だけでなく、表面上転んだことにしたキリシタンにとっても、安泰という効果をもたらしたと考えられます。

そう思うと、あの明るい海が再び瞼に浮かんでくる気がしますね。天に捧げた犠牲が、地に平和をもたらす恵みとなったという・・・。あの印象的な神々しいまでの陽光は、神様の微笑みだったのかもしれませんね。それなら私も微笑んで帰るのが良いのかと☆



供養塔

解説板

日出藩成敗場跡

入口

ご飯食べましょ


大分市に戻ってはなまるうどんで夕飯を。食べるのをおざなりにしてたので、久し振りに食べてる感じも。いや違うな、お昼はちゃんと食べたんだから、久し振りに感じるのは、一日が長かったから。濃かったからです。

二日分くらい回ったので、その分長く感じているのでしょうね。栄養摂って明日に備えましょう (o^^o)


駅前のイルミネーション


「駅前のイルミネーション見ましょうよ!絶対見た方がいい」とHちゃんに言われて大分駅へ。

イルミネーションはいろんな所で見たことあるしと思ったのですが、想像以上のクオリティーで、あらま♪

百聞は一見に如かずですかね。見ておいて良かったです。いいものをたくさん見させてくださる方に感謝ですし。ブルーで統一されたイルミネーションの梢には、月も出てました。そう言えば明日はスーパームーン。イルミとのコンポジションが期せずしてフォトジェニックですわ。



イルミネーション

駅前

光の柱

月も輝く

光の中に宗麟像


駅前のザビエル&宗麟像にも初対面。これは昼間にもう一度来てちゃんと見たいかな。

しかし・・・、気になるのはザビエル&宗麟に沸きながら、竹中重義には口をつぐむという歴史認識ですかね。

キリシタン史のあっち側とこっち側なのに、両面を見ないで一つだけを見ている。片面しか見ようとしないのは、観光に役立たないから。封印した方がロマンに浸れて都合がいいから。それじゃあダメだと思うんですけどね。

キリシタンに関しても、キリシタンは見るけど、迫害者は見ないのでは片手落ち。キラキラの南蛮文化は見るけど、信徒が受けた迫害の実相は見ようとしないというなら、人々はそんな虚構にどこまでついていけるのか。大分はキリシタンに目を向けてくれて有り難いけど、そんな矛盾を抱えているように思えてなりません。何だか心が重くなってくるなぁ。。



ザビエル像

世界地図

十字架

ニワトリ



私の「忖度」


今回の旅行記を書き始めて、最初はスラスラ書いていたんですが、大分に入ってしばらくしたら急に筆が進まなくなり、府内城でストップしてしまいました。そして1か月もの間、書こう書こうと思いつつ、ついに果たせず...ORZ

大分は宣教師よってもたらされた南蛮文化とキリシタンで観光振興していこうとする気運が顕著で、歴史ブームの昨今の流れにも乗って、その動きを加速しているように思います。それに応じてパンフも作り、情報発信もしているのですが、どうも実相よりロマンを求める傾向が強いように感じます。

観光から始まったためか、それに役立たない負の部分は削ぎ落され、研究分野とのタッグもうまく取れていない状況が垣間見られます。最新の研究成果よりは、自分たちに有利に働く数十年前の文献を引用していたり。

府内を、日本初の南蛮文化が花開いた地と宣伝して良いと、私も思います。だけどそれだけではないのです。府内藩主はキリシタン史上悪名髙い人物として、外国の文献にも載っていて、彼が考案した雲仙の地獄責めはヨーロッパ人を震え上がらせました。迫害の残虐さでも世界に名を馳せたことを糊塗しては、ウソをついているのと変わりありません。

そんな中で、私はつい大分に対して「忖度」してしまい、身動きできなくなってしまったようです。美しく価値あるものだけを書くことを要求されているような気がして。観光にマイナスになることを書いてはダメだと自己規制してしまって・・・。

政治家や官僚の話だと思っていた「忖度」が、不意に目の前に現れて、立ちすくんでいるような感じですね。そんなこと考えないで自由に書けたらいいんですけど。明日はどんな日になるんだろう。天に任せてグッドナイトです (´・ω・`)





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