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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 FacataからBungoへ 5


本日は臼杵へ。夕方の便で帰るので、それまでに回れそうな所を探して臼杵にしました。臼杵は大友宗麟が城を築いて長く暮らした場所。宣教師を招いて、キリシタンの教会とノビシャードと呼ばれる修練院を建てました。そうそう、宗麟が受洗した地でもありますね。期待を込めてレッツゴー!(^^)!



朝餉


朝、Hちゃんにお礼を言って駅に向かい、金券ショップで空港バスのチケットを購入して(これが結構値段違うので、教えてもらって良かったです)、駅ビルのミスドで朝餉。

今日は霙みたいな冷たい雨。なんだかちょっと、レッツゴーな気分を削がれます。半日読書でもして過ごしたいような。。


電車


いやいや、そんなんじゃイカン!と自分に活を入れて、JRの改札へ。臼杵へ向かう車内は、アウトドアが目当のような外国人が数組。インバウンドの波が、日本の隅々まで押し寄せているのを感じました (゜o゜)

私が臼杵行きを決めたのは、前夜に見たパンフの中に「臼杵教会推定地」の記述を見つけてでした。ちゃんと推定地が分かっているとは知りませんでした。

こういうパンフもらっておいて良かったーと思いながら、「やっぱ臼杵だな」と決めたのでした。というか、前夜まで予定を組んでいなかったのが幸いしました。いつもなら回りたい所をガチガチに詰めているので。

車内の人はどんどん減っていき、臼杵に着く頃には私ともう一人くらいになっていましたが、主が共にしてくださっているから良いのだと、強気に思って下車。それにしても今日寒いです。気合入れていかなきゃ。



臼田散歩マップ

臼杵教会推定地

臼杵教会推定地

大友宗麟について

臼杵市観光交流プラザ


臼杵駅からタクシーで臼杵市観光交流プラザへ。駅から歩こうと思えば歩けたのですが、時間節約のため。

臼杵城跡の目の前にあって、情報収集ができます。壁のパネル展示は大友宗麟と南蛮文化で盛り上がっています。

臼杵は磨崖仏でも有名なので、それ関係もありますけど。ここでもキリシタンを観光の目玉にしようとしているんですね☆



臼杵絵巻

臼杵絵巻

南蛮船が来た頃

年表

年表

世界地図に

交易

大友宗麟

辻の大井戸


観光交流プラザを出ると、敷地内に辻の大井戸が。城を出た目の前にあるこの井戸は、城下町のメインストリート入口で、当時は最も殷賑を極めた所だったのでしょう。

臼杵城は丹生島城とも呼ばれ、臼杵湾に浮かぶ丹生島を島ごと城にした浮城で、本丸、西の丸の他に、海を埋め立てて造った三の丸がありました。

現在城の周りは全て埋め立てられているので、城は臼杵市の市街地の真ん中に忽然と盛り上がっていますが、戦国から江戸期の臼杵城は、切り立った断崖に囲まれた要害だったのです。


臼杵城と宗麟


宗麟がここに城を築き始めたのは1561年のこと。完成まで丸2年の歳月が必要でした。臼杵城(大友氏の時代までは丹生島城と呼んでいた)は宗麟にとって一世一代の城で、規模も大きければ、本丸に天守を備えたことも大友氏始まって以来のことでした。

城が完成すると、宗麟は府内城を嫡男 義統に譲ってこちらに移り住みましたが、政治の実権はまだ握っていたので、度々府内に通って政を行いました。一世一代の城を築くって、どんな気分なんでしょうね。

やるじゃん、オレ!って感じでしょうか。鼻息荒く駆け抜けていた頃の宗麟の顔を想像してみたりして。そうそう、宗麟とは法号(仏門に入った者に授けられる名)で、臼杵城に入城したときの宗麟はれっきとした仏教徒。

息子のために寺まで建てています。キリシタンになるのは、もっと晩年になってからですね。混乱を避けるため、全部「宗麟」で通しますけど。



大井戸

観光交流プラザ

城下町

臼杵城

城下町


臼杵の城下町へ繰り出すと、往時をそこはかとなく匂わせる町並みが。老舗が軒を連ねます。

大友家は武家ではあるものの、公家のように諸芸に優れた家柄だったので、質実剛健というよりは、雅やかな雰囲気があったのでしょう。

そこへ南蛮文化が流入してきたのですから、いいなと思って受け入れる人も増え、この城下町の行き着く辺りには教会もできました。

横瀬浦で教会を焼き討ちにされた後は、イエズス会の本拠地だった時代もあります。日本の布教長カブラルがいて、宗麟に洗礼を授け、臼杵でキリシタンが繁栄した時代です。


カブラルとコエリョ


だけれどカブラルは日本人を蔑視し、司祭になる道を閉ざしたり、勉強もさせる必要がない(学ばせたって日本人に神学は理解できない)と言っていた人。布教地に適したやり方もしないという、ガチガチの思考回路をしていて、おまけに非常にプライドが高い人でした。

それが日本の宣教を困難にさせ、神学生のやる気を削ぐなどの弊害を引き起こし、かつまた仏像や寺を破壊して良しと発言したりしたので、もう滅茶苦茶でした。来なきゃ良かったのに、カブラル(マジで)。

カブラルの偏向路線は巡察使のヴァリニャーノによって軌道修正され、ヴァリニャーノは臼杵にも来て、宗麟やその家族と会って話をつけ、一旦は丸く収めたんですけどね。その後コエリョという、好戦的でヨーロッパ至上主義の輩が日本管区長になったものですから、またもや混乱を来たし、挙句の果てが伴天連追放令。反省しろよ、コエリョ(マジで)。

私に言わせれば、カブラルとコエリョは禁教令が出されるようになった原因を作ったツートップ。良かれと思ってやったと、彼らも言うでしょうけど・・・。やっぱり敵は外だけでなく、内にもいるんですよね。そして致命的な問題はいつも内側から起こってくるのだと。うーん、深いな。



サーラ・デ・うすき

城下町

商家

1600年から!

石敢當


八町大路のクランク部分にあるのが、石敢當(せっかんとう)。「石敢當」とは、向かうところ敵無しという意味で、路傍に建てておくと災禍を除くという代物。

この道もキリシタンが闊歩してたんだろうなぁ。宣教師たちも。

臼杵には、前出のカブラルやヴァリニャーノの他、「日本史」を著した記録魔フロイスも駐在していました。彼らは日本宣教を担う、キリシタン界の中心人物たち。

かつて日本全体を統括する拠点がこの町にあったということになります。それを思うと、野津町の方に今も磨崖クルスなどが残されていることが理解できるますね。山中にしか信仰の遺物は残されていませんけれど。


宗麟の運命


豊後は国主がキリシタン贔屓だったので、有望な宣教地と目されていたんでしょう。宗麟は朝廷にあれこれ贈っては、最盛期には九州六ヶ国を治めるまでになっていたのですから尚更です。それがキリシタンの王国を無鹿に建てようとして耳川の戦いで敗れ、豊薩合戦や島津軍侵攻の末、やっとのことで豊後一国を領するのみになるとは・・・。

宗麟の運命が暗転するタイミングとキリシタンになった時期が合い過ぎて、これは「神仏をないがしろにした天罰だ」と言われるのは、致し方なかったでしょうね。真の信仰に目覚めて、それは宗麟にとって良かったことだけど、それを直接政治に持ち込み過ぎて、軋轢を生んだんだと私は解釈しています。

だけど指導している宣教師が、日本文化を単なる偶像崇拝と見下して、仏像破壊OKとか言ってる人だから、宗麟が道を誤るのは当然のこと。信仰的な指導をするって、ある意味では恐ろしいことですよ。

国のトップに間違ったことを教えたら、国の指針を間違い、民が苦しむんですから。氷雨に打たれながら眉間に皺を寄せるしかありません。傘を握る手がかじかんで動かなくなってきました。次行きましょか。



石敢當

解説板

町並み

眼鏡屋

久家の大蔵


小道にそれて進むと、臼杵で最もフォトジェな光景が。

久家の大蔵です。

大きな蔵の内部と外壁に、ポルトガルの装飾絵タイル、アズレージョで臼杵の歴史が描き出されています。


蔵の中には「生誕」「洗礼」「昇天」の3枚のアズレージョ。宗教的主題が描かれたのは、臼杵の歴史を鑑みてのことでしょう。南蛮とのつながりは、文物よりもキリスト教信仰の方が大きかったと考えられるので。

研究者の中には、宗麟は南蛮からの硝石や武器目当てで(あるいはヨーロッパに憧れて)キリシタンになっただけで、信仰はなかったとする人もいますが、それはないだろうと私は思います。火薬の原料やフランキ砲が魅力的だったことは確かですが、宗麟の言葉、行い、生き様を見ると、そのためではないと考えられるからです。その点についてはまたおいおい。



アズレージョ

蔵の中

キリスト教モチーフ

解説板

外のアズレージョ


蔵の外には、縦横約1m86cmのアズレージョ。それが14枚並んでいます。

気の抜けたような大友宗麟にガッカリしますが、天正遣欧使節の4少年はバッチリ。

作者のロジェリオ・リベイロ氏は、宗麟のことを優柔不断な優男(やさおとこ)と思ってたんでしょうか。「キリスト教を保護した王(レイ)」みたいなイメージで。

だけど実際の宗麟は僧形で、ゴリゴリのおっさんですので、もうちょっとドス利かせて、シャキッと描いてもらわねばと思います。戦国生き抜いた訳ですし。これじゃあ、どこぞのご上人様です。ああ、本日の残念賞決定 (>_<)



アズレージョ

宗麟・・・

天正遣欧使節

アズレージョ

日本と臼杵


アズレージョの地図には、臼杵がVxuquiと書かれていますね。Nagasaqui、Macauなどの文字も見えます。イエズス会の代表的布教地です。

天正遣欧使節の正使 伊東マンショは、大友宗麟の名代としてヨーロッパに赴くのですから、大分は400年以上も前に国際化していたと言えます。

伊東家が島津に追われて豊後に逃れて来たのは、宗麟が臼杵にいる時代だったので、マンショらが暮らしたのは恐らくこの町だったでしょう。戦乱で追われて来るなんてことがあった時代のことを、「進んでいた」とは言い得ないけれど、世界に対して門戸を開き、受け入れていたという面では、もしかしたら今より進んだ国際感覚を持っていたかもしれません。

そのときのことを彷彿とさせる観光施設があることは良いことですね。自分たちの土地に流れた歴史ほど、自負心を持たせてくれる財産はないと思うので (*^-^*)



天正遣欧使節

伊東マンショ


解説板

臼杵教会跡


さて今日の目玉、キリシタン時代の臼杵教会跡(推定地)は、現在 伊予銀行の臼杵支店となっていました。

堅実に勤め上げるサラリーマンとOLがいそうな、四角い外観。

せっかく教会跡地だというのに、南蛮色はゼロですね。アズレージョで彩るんでなくても、何かやってもいいんじゃないの?と思ってしまいます (~_~;)ウムー


臼杵教会とノビシャード


当時を思うよすがは皆無ですが、ここに教会とノビシャード(修練院)があったと考えられています。ということは、昔はここ、川の中州だったんですね。今は陸続きとなっている大橋寺も中州にあったはずなので、ここから大橋寺の辺りまでが一つの島になってたのではないかと(古地図見せてー)。

臼杵の教会に関しては、フロイスは「布教は府内とその周辺、及び臼杵では目ざましい発展をとげた」と記述し、遠藤周作は小説「王の挽歌」の中で「宗麟はこの頃、臼杵に日本のうちで最も美しい教会を建設していた」と書いています(遠藤周作は資料読んで書いてるだけだけど)。

記録魔フロイスがいたお陰で、豊後のキリシタンの動きはかなり詳細に知ることができます。宗麟と奈多夫人のやり取り、宣教師との対話などなど。松田毅一と川崎桃太による「完訳 フロイス日本史」の7巻と8巻はほぼ豊後づくし。臼杵のこともたくさん出てきます。


宗麟のキリスト教信仰


晩年に至って宗麟はようやく受洗したのですが、その現場がここ。臼杵の教会でした。受洗の日、永遠の命に与るようになったことを感謝して、宗麟は屋敷まで帰る籠の中で涙したと、後に自分で宣教師に言っています。その後運命は傾き、城ではなくここから三里ほど離れた山間に最晩年は暮らしたのですが、毎日曜にはミサと説教のために三里の道をたどり、臼杵教会まで通ったのだとか。

また毎日屋敷でも祈りをし、金曜と土曜には欠かさず断食(とフロイスは書いていますが、正確には節食)をして、神に背くことがないよう、家人に模範を示しながら生活したということです。宗麟の受洗を硝石や大砲を手に入れるための表面的なものとする研究者もいますが、身近な人が生活を見ている中では欺けません。

ましてや神道仏教の勢力がもともと強く、キリシタンを忌み嫌う人たちもいる豊後においては、キリシタンが悪事を働けば大きく言われるのが当然。その中で敬虔な姿を見せていたことは、信用に足るものではないかと思います。宗麟が複雑な生い立ちと人生遍歴を経てキリスト教信仰に導かれ、乱心とも思えるような極端で行動を取ったことは事実ですが、最晩年の改心とその信仰は信じられると、私は思っています。



臼杵教会推定地

臼杵案内

植え込み

散歩マップ

三重塔


宗麟の継室が眠る大橋寺に行こうとしていると、美しい三重塔が目に入りました。

なんと素晴らしい。いつ頃のものだろう?寄ってみましょうか (^^♪

それにしても、雨足も強くなってきたので、どこか入って休みたいなと思っているのですが、驚くほど飲食店が無いですね。

働いている人は皆お弁当持って行っているんでしょうか。自宅で仕事している人が多いのかな。謎だ。



臼杵川


龍原寺


三重塔があるのは龍原寺。由緒書きによると、1600年の創建で、稲葉貞通(さだみち)が龍ヶ渕を埋めて建立したのだとか。

やはりここは川の渕だったよう。埋め立てて塔まで建てるなんて、結構なハイテクですね。

・・・ん、今気付きましたが、臼杵藩は大友家が改易された後、数年間はゴタゴタしてましたが、関ヶ原の戦いが終わった1600年に稲葉貞通が入封。明治維新まで稲葉氏15代が治めました。


その名はタラちゃん!


で、臼杵藩三代藩主 稲葉一通(かずみち)の元へ、細川ガラシャ夫人の娘 多羅が嫁いで来ています。輿入れは細川家の九州入部後で、多羅の生まれ年が1588年なので、恐らく1600年代初頭。ということは、多羅は創建ホヤホヤのこの寺を見てますね、きっと。

ガラシャ夫人の子供たちは洗礼を受けた者も受けなかった者もいるのですが、多羅は受洗しています。つまり大友氏が改易されてからも、臼杵藩の中心にはキリシタンがいたということですね。しかも多羅は嫡男を生み、その血が受け継がれていったので、キリシタンの血が延々明治までつながっていったことになります。

何かちょっと、気付いちゃった感があります。小さなことかもしれないけれど。多羅(タラ)だなんて、サザエさんのタラちゃんしか浮かびませんけどね (^_^;)



龍原寺

由緒書き

三重塔

境内

大橋寺


それでは大橋寺(だいきょうじ)へ。昔は川の中州の島(産ヶ島)にあって、名前も西方寺といっていたのですが、宗麟の継室 奈多(なだ)夫人が、そこへ橋を架けて渡れるようにしたため、大橋寺に名前を変えました。

だからこの寺の大旦那はこの奈多夫人。亡くなってお墓もこの寺に作られたので、そのお墓を見たくて参りました。

奈多夫人は、宇佐八幡宮の別宮奈多八幡宮大宮司家の出身で、宣教師たちからは「豊後のイゼベル」と呼ばれていました。

イゼベルとは旧約聖書に出てくる女性で、ユダヤの王アハブの妻なのですが、神の預言者エリヤを殺そうと追いかけまくり、エリヤを匿った者まで処断した悪女。偶像崇拝とまじないに凝って、神を信じる者を迫害しました。奈多夫人はそこまでではありませんでしたが、キリシタンを敵対視し、布教を妨害。教会に投石や放火をするよう指示しました。

そこで「豊後のイゼベル」とあだ名されるようになったのです。聖書で悪女と言えばイゼベル、イゼベルと言えば悪女。奈多夫人のことを弁護する人もいますが、私は・・・うーん。。ま、お墓を見に行ってみましょうか☆



由緒書き

大橋寺

山門

奈多夫人

本堂

鐘楼

家紋

石造物

奈多夫人の墓所


奈多夫人の墓所は、他の墓石に埋まるようにして在りました。

もっと勢いを感じさせるものかと思っていたので、少し拍子抜け。

墓の前にはごみ分別の札が建てられています。

如何せん墓碑が古いので、朽ちた印象を否めません。山門や由緒書きに奈多夫人のことが書かれていたので、もっと分かりやすくしてあるかと思ったのですが、剝げた標柱のみですね。これが無ければ分からなかったと思うので、建ててくれて感謝ですけど。


奈多夫人の気持ち


この墓を見て、「この人も大変だったよねー。旦那さんが急にキリシタンにかぶれて」とか哀れに思う人もいることでしょう。どう思うかは自由ですから。でも私はキリシタン寄りなので、やっぱりこの人の行ったことを肯定的には考えられませんね。

私が感じるこの相容れない感じが、夫である宗麟との間にあったとすれば、それは夫婦間の問題としては同情しますが。だけれど、夫だけでなく、キリシタンになるなと言って聞かせていた子供たちまで、宗麟よりも先に受洗していくのですから、もう少し理解というか、心を開く余地を持ってみてはどうだったのでしょう。

実家が由緒ある神社だとしても、嫁いで来た訳ですし、自分の夫が良かれと思って受け入れているものなのですから。自分がキリシタンにならないんだとしても、人の価値観として、認めるくらいはしても良かったと思います。それなのに悪しきものとしてしか生涯考えられなかったことが、己の枷だったんじゃないでしょうかね。

私なら、自分が信じるものを大事に思うように、その人もそれを大事に思っているんだなと、どんな信仰であっても尊重はしますよ。それさえできれば、夫婦間のことも違っていたと思うんですよね。



奈多夫人の墓

奈多夫人の墓

墓域

西南戦争犠牲者

墓域

石造物

墓碑

臼杵川

臼杵川


臼杵川に架かる橋を渡って対岸へ。時間があるので資料館を見ようと思いまして。

何か掘り出しものがあるといいんですけどね。物ではなく情報の類が。

途中には7代藩主のときに創建されたという松島神社が。中洲の島に建てられています。

うーむ、こっち方面も飲食店がありそうな気配がないですね。お昼なんだけど・・・。



臼杵川と橋


松島神社

解説板


 歴史資料館で勉強


臼杵市歴史資料館


臼杵市歴史資料館はほぼ貸切。受付の人と私のみでございます。雨だし、お城から離れているから、ここまで来る人いないのかも。

企画展の「合戦絵図の世界」はなかなかで、展示パネルや解説チラシも頑張ってます。

展示はやはり大友宗麟やキリシタン関係が多くて、その辺で他地域と差別化を図ろうとしているように思えます。

しかし、どうせなら臼杵で起こった出来事についてだけは、特別に目立つようにしてはどうでしょうかね。宗麟つながりで、府内のことと一緒にまとめられているパネルを見ましたが、臼杵だけでもいくつかのことが「初めて」として紹介できると思うので。


臼杵が日本初となるモノ


例えば、花火、大砲、オルガン。臼杵と言えばこの三つが日本初ですよね。この三点セットを目立たせて、府内が最初となる育児院、西洋演劇、外科手術については、抑え気味に展示してはどうでしょう? 欲張ってたくさん列挙するより、三点に絞ってより詳しい説明を加える方が耳目を集めると思うんです。

また府内にはコレジオはあったけれど、ノビシャードはなかったので、それを言っても良いですよね(少し専門的過ぎますかね)。いずれにしても、ビジュアルでドーンと復元模型などを見せることができれば、とってもインパクトがあって、九州各地や全国からでも見たい人が訪れると思います。

インスタ映えの時代ですから、古文書などの歴史的史料以外は、できるだけ写真撮影可にすると話題性があって更に良いかと。是非考えてみてくださいませ。キリシタンによってインバウンドが日本中に波及することを願っておりますので (^▽^)/



歴史資料館

宗麟について

二つの墓がある理由

宗麟と文化

見星寺


貸切だった資料館を出て、駅まで歩きながらいくつか寄り道を。資料館でもらったパンフを見たら、キリシタンゆかりの寺があることが判明して。

そう、こっちに来てから気付きましたが、ガラシャの娘 多羅ちゃんが輿入れしているので、その関係の史跡があるのです。

やっぱ臼杵、来て正解!と思いながら、見星寺へ。多羅ちゃんの夫 稲葉一通によって建立された寺で、「一言地蔵マリア観音(織部形蹲)」があるのだとか。探すぞー。

しかし・・・境内と墓域を目を凝らして探したのですが、それらしき物は見つかりませんでした。地蔵尊にも観音像にも見える石造物で、織部形というのだから、織部型灯籠のように人の形が陽刻されているんだろうと。しかも蹲(つくばい)というからには、手水鉢になっているに違いないと見当を付けたんですけどね。

それに該当する物は見当たりませんでした。どこかに保管されているのかな? それでももしかしたらと思う物を、写真に収めて参りました。

《付記》
帰宅後ネットで検索してみましたら、下記サイトに写真付きで載っていました。説明文には「キリシタン大名大友宗麟の時代のもので、キリシタン弾圧の際、露見を怖れ川に遺棄したマリア観音を見星寺第5世住職が引き揚げ境内に祀った。願い事を一つ叶えてくれる事から一言地蔵とも呼ばれる」と。裏庭にあるそうです。行かれる方は参考になさってください☆
http://fishaqua.gozaru.jp/oita/usuki/kenshoji/text.htm

(しかしこの説明文、いくつか矛盾している点がありますね。宗麟の時代なら、キリシタンがイケイケなので「マリア観音」のような仏教に似せた物を作る必要がありません。また、露見を恐れて川に遺棄したようなキリシタン遺物を、僧侶が拾って祀ったりしたら、寺も罰せられることになりませんか?)


見星寺由緒書き

見星寺

石造物

石造物

石造物

石造物

石造物

石造物

金毘羅水


見星寺の角を曲がると、岩を切ったり割ったりして作られた切通しの坂が現れます。

なかなか趣がある道ですが、ここで挟撃されたら助からないなという危なっかしさも感じさせます。

こちらの井戸、金毘羅水も岩盤をくり抜いて掘られた井戸。五角形になっている辺りが、竹田の稲荷社を思い出させます。

豊後では岩を掘るときこのようなデザインにすることが多かったのでしょうか。左右に荷重が分散されるので、天井は崩落しにくくなり、上部を延長して庇にすれば雨水の侵入も防げるので合理的。岩盤に五角形に空間が掘られることは、よくあることだったのだなと知りました。



切通しの壁

切通しの道

直良信夫博士生誕地

直良信夫顕彰記念館

甚吉坂


切通しの坂は甚吉坂とも呼ばれています。宗麟の家臣 吉岡甚吉が、1586年臼杵に侵攻した島津勢を撃退した所だということで。

この吉岡甚吉のお母さんが、すんごい謀略で鶴崎城を死守し、島津軍を撃退した妙林尼(みょうりんに)。

私はNHKの歴史番組で見た妙林尼の話が忘れられなくて、吉岡甚吉というと、そのお母さんの方を思い出してしまいますね。決して後味のいい話ではないんですけど、ストーリーをざっとたどるなら以下の通り。


豊後の女傑・妙林尼


1586年、九州制覇を目指す島津氏は大友氏が統治する豊後侵攻を開始しました。息子の甚吉が臼杵城に詰めていたため、鶴崎城を預かるようになった妙林尼は、島津軍の攻撃を受け、当初は籠城して徹底抗戦しましたが、島津軍が妙林尼の講じた奇策に困って和睦を申し出ると、それを受け入れて城を開城。

島津軍に酒を振る舞い、酌み交わすほどになりました。島津軍の大将と交誼を結んだ妙林尼は、「私は島津軍と厚く交流してしまったため、大友家には残れないから家臣共々一緒に薩摩に連れて行って欲しい」と頼んで、引き付けておき、秀吉軍の到来を待ちました。

そして今や到着するというときまで酒を飲ませ、秀吉軍到来の知らせが来ると、「後からすぐに合流する」と言って島津軍を出立させました。妙林尼一行が後から追いかけて来ると思って千鳥足でゆっくり撤退する島津軍に、急襲を仕掛けるよう妙林尼は家臣に命令。多くの兵士を討ち取りました。

翌日、妙林尼は討ち取った島津の首級63首を臼杵城の宗麟に送り、自らは引退。天晴れ、豊後の女傑として伝説のように語られています――。・・・てな話なんですが、女の武器を使ったという点で、どうも気持ちの悪い話にならざるを得ず、忘れられないというのは、嫌な気分で忘れられないという感じですね。

まあ、これこそ教訓だということもできるんでしょうけど、女性の立場からすると、「どう教訓に?」としか言えなくて。いやまあ、でもこんなことがあったんですよね、豊後で。歴史ですからいろいろあります。これと似た話、聖書の外典にもありますね。




お休み処

旧片桐家

旧片桐家

法音寺


それでは次は法音寺へ。稲葉一通が多羅を正室に迎えるために、その菩提寺として建てた寺だということです。

多羅は、この頃小倉藩主だった細川忠興の娘ですからね、迎えるとなれば、それなりに立派な受け入れ態勢を作らなければならなかったのでしょう。

正室として迎えるのに、菩提寺を立てるなんて風習(しきたり?)があったとは知りませんでしたが。

確かに大きなお寺です。多羅はキリシタンだったから、菩提寺とか要らなかったと思いますけどね。本音では。



法音寺

法音寺

善法寺

善法寺

蔵のある町


雨の風情も美しい城下町を歩くと、蔵や古い商家も両側に。道には黒い石が敷かれ、電線の地中化も徐々に進められているようです。

これで気楽に入れる飲食店が増えたら言うことなしですね。無料のお休み処はあるけれど、何となく入りそびれて、てくてく。

もう一つお寺行くまでランチは我慢しましょう (>_<)




商家

旧家

町角

多福寺


臼杵城が見えてきた所で右に折れ、多福寺のある方向へ。

要塞みたいな寺が見えてきて、「おお、これかー!」とシャッターを押しましたが、ん?どっちが多福寺?

調べてみたら、向かって右が多福寺、左が月桂寺とのこと。月桂寺の石垣、城みたいですけどね。とりあえず多福寺を見学。


多羅の屋敷跡


多福寺は多羅が住んでいた屋敷の跡に作られた寺院だそう。多羅が逝去したため、その屋敷を改築して本堂とし、寺にしたんだとか。その後稲葉家の奥方寺になったということです。多羅ちゃん、ここに住んでたのね。そして亡くなり・・・。

この時代の女性の人生を思うと、「何のために」という問いが浮かんできます。何のために生まれ、何のために生きて、何のために死んだだろうと、考えずにはいられなくて。個人より「家」だったんでしょうね。その価値観でほとんどの人が生きていた時代です。

特に女性ならば、もっと「家」中心に滅私奉公するものだとされていて。多羅は、臼杵に来てからは、「多羅じゃ、何じゃね?」ってことで「多福」と呼ばれるようになったそうです。タラちゃん改め、お多福さま(今度はオタフクソースしか浮かばないけども)。その名前のとおり、福の多い人生だったでしょうか。どうなんだろうなぁ (*‘ω‘ *)



案内板

多福寺

由緒書き

鐘楼

本堂

境内

参道

月桂寺石垣


多福寺隣の月桂寺は、遠目に見たら城か軍艦のよう。石垣を見上げながら歩きます。

それにしても、どう見ても要塞ですよね。寺以外の目的があったとしか思えません。

戦があったときには、寺の境内は兵士の集合場所になったので、それを見越して防御を兼ねて造られたなら頷けます。

いざとなったら臼杵城の出丸のようにして使い、ここから下を攻撃するとかもできそうですし。上から転げ落ちるのだけは勘弁ですね。景観としては良いですけど♪



石垣解説板

月桂寺石垣


臼杵高校

臼杵駅


臼杵高校の裏手をぐるっと回って駅へ。駅前ロータリーには磨崖仏。ホームにも仏像頭部。

臼杵は二度目ですが、未だ訪れたことがない国宝 臼杵石仏ホキ石仏第一群、第二群とかあってすごいみたいです。

興味ないとか言ってないで、一度ちゃんと見に行くのがいいですよね。国の宝って言うくらいなんですから。

余談ですが、駅前のホテルの名前はCredo(クレド) Hotel Usuki。Credoとは「信条」「志」「約束」を意味するラテン語で、企業の経営理念などのこともそう言いますが、キリスト教で唱える使徒信条のことを「クレド」と言います。だから使徒信条に節をつけて歌った歌は「クレド」と呼ばれています。

キリシタンの時代にはグレゴリオ聖歌の「クレド」を、信徒たちは楽器で奏でたり、歌ったりしていました。ホテル名はそれを狙ったものか分かりませんが、臼杵のホテルに「クレド」と記されているのが面白くて。キリシタン時代の「クレド」が、今に引き継がれているように感じました☆



クレド・ホテル・ウスキ

磨崖仏

手作りパン


結局目ぼしい飲食店を見つけられず、駅の売店でベーカリーのパンを購入。寒さに震えながらホームでいただきます。今日は飲食難民でしたが、若干の慰めが得られました。

観光振興って、観光地だけ整備するのではダメで、様々に備えなければならない物がありますね。私は巡礼なので、ホームでモソモソ食べても平気ですが、世の人皆がそうであるはずはなく。

臼杵の観光資源はキリシタンに石仏と豊富なので、あとは交通インフラや飲食店の整備拡充でしょうか。お金がかかることは難しい面があるとは思いますけど。でもキリシタンはもっと臼杵発祥のものや特長をアピールできると思うので頑張っていただきたいです。栄えるといいな、キリシタン・ツーリズム。日本のキリスト教史は世界に誇れるものだと思いますので☆彡




 大分駅に戻って


大分駅前の広場


ガタンゴトンと大分駅へ舞い戻り、明るいときに見たかった広場へ。

空港バスが出るまでの時間、宗麟とザビエルと話し合ってみようと思って。

2人の間に広がっているのは当時の世界地図。その端っこに日本が描かれています。国名と島名の他に見える地名は、Aquita(秋田)、Amagucho(山口)、Meacum(都)、Sathuma(薩摩)とBungo(豊後)だけですね。


イエズス会の〇大布教地?


イエズス会の〇大布教地とか、キリシタン時代に最も栄えた〇〇などという、一定の地域をアピールする文章を見かけることがあるのですが、それは不正確な言い方だと私は思います(長崎以外)。海外の資料もあまり訳されておらず、国内の古文書も限られたものしか発見されていなかった頃は、今よりずっと研究が進んでいませんでした。

そのため1970年代までに書かれた本は、著者の思い入れや郷土愛に左右された記述が多く見られます。もちろん昔書かれた本も資料ですので、私も読むのですが、大先生でもこんな間違いを書いているんだなということがままあります。それらの研究があってこその今なので、これまでの研究者の皆さんに敬意は示します。

だけれど歴史学は日々進化し、昔は頭の中でやっていた資料の整理もPCのお陰で数段早く処理できるようになっています。世界中で文書化されデジタル化される資料も多くなり、多言語に通じ翻訳できる人も増えたので、資料の質も量も以前とは桁違いです。


Bungoの未来のために


また一つのことであっても、一方からだけでなく多角的にを見ることができるようになってきています。だから以前の本にこう書いてあったからと、不正確な情報で自分の地域を贔屓目にアピールしているのを見ると、胸が痛むのです。止めた方がいいのになぁと。

間違ったことなら、いずれは淘汰されることだろうしと、私は口を出さない主義でおりましたが、当地に関しては、府内で行われている大友館発掘など最新の考古学的研究と成果に比べ、その他の地域が頼る資料的裏付けに、大きな差が見られます。

資料館の学芸員たちの研究と奮闘も感じますが、そこへ昔の本の記述を混ぜて使ってしまっているので、全体的な信憑性が損なわれてしまうのです。大分が観光を盛り上げていこうとするなら、県の単位で最新知識を共有し、県内を周遊するようなツーリズムのイメージを持ってはどうでしょうか。Bungoの未来のために・・・☆



世界図

世界図

天球図

日本

ザビエル


両腕を広げるザビエル像。ザビエルはたった2年と3か月しか日本にいなかったのに、今でも多くの日本人に慕われているのが不思議です。

ザビエルと言えば、誰もが名前を知っていて、絵に描かれたポーズを取ることができ、関心を持って話を聞きます。

かつてこんなに愛された外国人がいただろうかと思うくらいです。だけれどもまた、ザビエルも日本を愛していました。


ザビエルの愛


ザビエル全書簡が訳されて読むことができるようになったのも、昭和の終わりになってからですが、「日本、日本、日本・・・」と、中国の沖合の小さな島で死ぬ間際まで、ザビエルが本国の王やイエズス会本部に送った手紙には日本のことを褒め、日本への援助を手厚くしてほしいとの願いが書き連ねられています。

私はそれらを読んでいて、涙が止まらなくなったことがありますが、そんな中で感じたことは、キリシタン史とは神と人との愛の物語だということでした。愛の手紙を届けたのがザビエル。それを受け取り、自分の命とも引き換えにできないと信仰を選んだのが、キリシタンたちでした。

そして殉教があり、密かに信仰を守る潜伏キリシタンが生まれ、愛の物語が時を超えて続いていったのです。これを、途切れさせてはいけない。受け継いで、今に生かし、力にすべきだというのが私の思いです。「何でそこまで熱心に?」と訝られることもありますが、そうしないではいられなくてやっているので大変ではありません。

この広場に立ってもう一度確認できた気がします。ザビエルが伝え、宗麟が受け取り、今私なんぞが生きている――、この時を超えたつながりをとても大事に思うから、今回も旅して来たんだなと。この旅はきっと、これからも各地といろんな人とを結んで続いていくんだろうなと。



ザビエル像

ザビエル像

宗麟像

宗麟像

駅前の鶏!


最後の〆みたいな文章を書いてしまいましたが、大分駅前の鶏についてももう一言。

一羽は止まり木に、 一羽は卵を見守っています。卵は二つで金の卵!

暗示的だなと思いました。制作者の意図は分からないけど。単に鶏肉が旨いということかもしれないけれど...(^^;)

鶏が「またおいでね」と見送ってくれているようでした。ええ、またきっと!



大分駅

屋根に何か



別府


空港バスは発車するとぐんぐんとスピードを上げ、別府湾を横目に走行中。あんなに寒かったのに、今頃になって晴れてきて、ちょっともう。

今回はナントカ地獄とかは見逃したので、次回こそは。キリシタン関係では奴留湯殿のエピソードも有名なので、次は由布院とか温泉地を攻めたいです。

それでも大分県だけでも府内に竹田に臼杵まで、それぞれたっぷり行ってくることができたので、死ぬまでに行きたい地のいくつかをしっかり押さえられました。思えば福岡から5日間、人にもたくさん助けられ、運んでもらい、案内してもらい、食べさせてもらい、泊めてもらい・・・これ以上ないくらい良くしてもらいました。

このご恩は皆さんが関東に遊びに来たときにでも。それから心から九州アイラブユー。ご多幸を祈っております。これからも、ずーーーっと♪






九州の地を


今回は九州でした。キリシタン王国の九州。だから刺激が強かったです。また自分の気持ちも熱くしないと、何か合わない気がして、熱い気持ちで回れるように心がけました。

例えば、同じ水でも冷たい水と熱い湯では使われ方がすごく違うように、同じ自分の心であっても、熱い心と考えを持っているときと普通の心と考えのときとはあまりにも違い、判断することも行動することも差があります。

心が熱くなってないと、良いものを見ても普通に考えてしまうし、価値のないものとして判断して、せっかくの機会を捨ててしまうことだってあり得ます。反対に、自分がすべきことに対して心と考えを熱く強くしたら、見るものに感動を受け、すべきことを思いっきりするようになります。

人間はやはり、動物みたいだけど、人間ですね(当たり前ですが)。肉体は肉の要請によって動くようだけど、根本的には心と考えによって生きていく――。

一般に九州の人は熱いというけれど、私も熱くなれましたかね。「どうでもいい」とか思わずに、熱心に回れたので、熱かったと評価していい気がします。この火を消さずに持ち帰って、日常の場でも熱い女に。


周りに熱と光をもたらすロウソクのように、心を燃やしていけたらいいな。私に火をつけて下さった方に感謝して締めくくりたいと思います。ハレルヤ&ファイヤー (≧▽≦)!





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