本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > ぐんま切支丹風土記new 1   スマホ版は⇒コチラ

 ぐんま切支丹風土記new 1


今回のデスティネーションは埼玉と群馬の境、渡瀬(わたらせ)・鬼石(おにし)地域。ここにキリシタンがいたことは「契利斯督記」(きりすとき)に書かれていて、割とよく知られています。キリシタンゆかりの地は関東では少ないので、貴重ということもあり。

それで5年前に訪れたのですが、案内人なしに自分たちで回ったのでキリシタン遺物を見つけられずに帰ったのです(詳しくは「ぐんま切支丹風土記vol.1 」)。今回はそのリベンジ。渡瀬鬼石殉教者記念祭に行って、その後のキリシタン史跡ツアーに参加しようと考えています。早起きして電車で行って来まーす♪



渡瀬小学校


GW真っ盛りのこの日、一人降り立ったのはJR本庄駅。そこからバスで渡瀬小学校に向かおうと計画していたのですが、教えてもらったバスがなく(主催教会の信徒さんに教えてもらったのですが、外国人だったのでたぶん;;)、タクシーで乗り付けました。

思わぬ出費に泣きましたが、ここまで来たら肚をくくるしか!とりあえず小学校裏を流れる神流川へ向かいましょう。渡瀬鬼石殉教者記念祭はそちらで行われるのです☆



神流川


たおやかに流れる神流(かんな)川。今日は穏やかに晴れて絶好のピクニック日和です。

こんな日にキリシタン殉教者を偲ぶミサを行うのが、場所と天気にマッチするのかはさておき、あの白いテントが見える辺りが会場のようですね。

信徒さんたちは慣れた様子で、小学校の校庭に駐車して、そちらに向かっていきます。その流れについていきましょうか。


キリシタン山口平之進伝説


さてこんな緑いっぱいの土地に、いつどうやってキリスト教が浸透していったかが興味深いところですが、渡瀬にはキリシタン山口平之進の伝説が残っています。山口平之進という浪人が他国から移住して住み着き、キリシタン伝道所である善明寺を開いたが、キリシタンであることが発覚し神流川の善明寺河原で処刑された、という言い伝えです。

この山口平之進を「契利斯督記」にある寿庵と混同し、更に他の史実とこんがらがって、1655年に他の信徒らと一緒に当地で斬殺されたと書いている人(郷土史家)もいますが、処刑であれば何らかの記録が残っているはずなので、考えにくいです。1655年という年代も時期が遅すぎて変ですね。当地にキリスト教をもたらしたのだとすれば、平均寿命と考え合わせてもっと早く亡くなっているはずなので。


キリシタンの中心人物だった寿庵


また寿庵(「契利斯督記」では対庵)についてはキリシタン類族帳の記載から、比較的素性がはっきりしています。元々三波川(さんばがわ)の出身で、若い時に江戸へ奉公に出て信仰と共に医術を学び、使用人の九右衛門と下女さわ夫婦を伴って故郷に戻り、三波川ではなく渡瀬の善明寺河原近辺に住み着いたということが分かっています。だから山口平之進と同一人物だという説は却下できるのではないかと思います。

善明寺河原に暮らしたことから混同されてしまったのかと思いますが、「善明寺」がキリシタン伝道所だったとすれば、寿庵よりも前にキリスト教が入って来ていたことにはなります。それはあり得ない話ではないですね。寿庵が故郷の三波川ではなく、わざわざ渡瀬の善明寺河原近辺に住んだのは、他にもキリシタン信徒がいたからとも考えられるからです。


話をまとめると・・・


すると結局、寿庵以前にやはり誰かがキリスト教の福音を宣べ伝えるか、キリシタンが移り住むかしていたのではないかということになります。

以上の話をまとめると、まず山口平之進というキリシタンが渡瀬に移住してきて、殉教こそしなかったけれど、キリスト教を熱心に村人に伝えて去って行き、善明寺河原近辺に少数の信徒が暮らしていたところに、優れた信仰を持った寿庵が江戸から戻ってきて、渡瀬や近辺の村にキリシタンが増えた、ということになりますか。

輪郭だけちょっと見えてきたような気がしますが、今日のミサが行われるのがその善明寺河原。掃部が淵とも呼ばれているようです。ここで行われるのは意味が大きいでしょうね。準備の音が、風に乗って聞こえてきました (^▽^)



神流川と橋

善明寺河原

渡瀬鬼石殉教者記念祭


渡瀬鬼石殉教者記念祭とは、カトリックたいたま教区の6教会が主催する行事で、まずは共同司式によるごミサ。その後、新しく赴任してきた司祭の挨拶などが続きます。

集まったのは200人弱でしょうか。老若男女いるなと思って見回しておりましたが、外国人の姿も多く、特に若い世代は外国人の割合が高いように思いました。

マイクでお話しする外国人司祭さんの一人は、ここが殉教地だと言ってましたね。「伝説の」と付ければ問題ないかと思いますが。信仰の関わることは、しばしば「良い方向に」想像され、史実とは違った風に伝えられていくことがありますね。「ここで殉教した訳ではないですが・・・」と話される人もいたので、一種の訂正みたいになったかもしれませんが、気にはなりました。



ミサ

パンフレット

ミサ

ミサ

出し物大会


ミサの後は、「出し物大会」と言ったら語弊があるかもしれませんが、そんな感じのミニ・ステージ。

ブルーシートを敷いただけの簡易舞台で披露される民族ダンスや歌などは、やっぱり外国人によるものが多かったです。

親の代にペルーから移住してきたという三姉妹による民族ダンスは感動ものの美しさ!衣裳はおばあちゃんの手作りだとか。愛ですねぇ。フィリピングループが即席披露したのは「Power of Your Love」。カトリックでも歌うんだと知りました。全体的に素朴なんだけど、いや、ちょっと涙腺緩みます。。



ダンス

ピクニック

神流川

善明寺河原

善明寺河原


ミニ・ステージを見ながら、各自持参してきたお弁当を食べるのですが(ほんとにピクニック)、食べ終わった子供が河原に遊びに行っていました。

殉教者記念祭って、教会間の親睦を兼ねた行事でもあるんですね。家族行事というか、教区にとっては歳時記の一つでもあるようです。

なら今日のお天気は満点ですね。見事な五月晴れで (*´▽`*)



善明寺河原

善明寺河原

善明寺河原

善明寺河原

ロザリオ行列


ご飯も食べて少し休憩して、今度はミサ会場から神流川を渡ってキリシタン顕彰碑「渡瀬鬼石キリシタン之碑」までロザリオ行列を行います。

聞こえてくるロザリオの祈りには、日本語、英語、ポルトガル語が。国際色豊かですね。司牧にあたる神父様たちも国際色豊かになるのが自然なのでしょう。

神流川にかかる橋の赤色が、いい風情を醸し出しています。こんな山里でキリスト教のお祭が毎年行われていること自体、とても珍しくも美しい光景ではないかと思います (#^^#)



ロザリオ行列

赤い橋

神流川を渡る

ロザリオの祈り

神流川


少し乳白色を帯びた神流川の水。最近雨が降った記憶はないので、降雨で濁ったのではなく、元からこの色なのでしょう。

川底の石に石灰でも含まれているんでしょうかね。

近くの三波川は三波石で有名だから、この辺りも貴重な石が取れる所なのかもしれませんね。キリシタンたちはこの川の畔でどんな暮らしをしていたんだろう?どんなことを考えていたんだろう?



神流川

乳白色が混じる

川の堰

キリシタン顕彰碑


キリシタン顕彰碑は小学校のすぐ裏手の小道沿いにあります。

数坪のスペースに顕彰碑と解説碑、ベンチが置かれているので、こんなに日は道に人が溢れ出るしかありません。

勢い隣家の敷地に入ってしまう人も...(注意しましょう)。「あめのきさき」を繰り返し歌いながら、順番に顕彰碑前でお祈りを捧げます。ここで神父様からお言葉をいただき、殉教者記念祭は終わりました☆彡


お待ちかねのキリシタン遺跡めぐり!


さあて、お待ちかねのキリシタン遺跡めぐりが始まり始まり。「ツアー参加希望者はTさんの元へお集まりください」とアナウンスがあったのですが、集まったのはほんの数人。ミサに出た人の半分くらいは行くのかと思っていたので意外でした。そもそも今日のイベントを楽しみにして、カトリックでもないのに遠方から来ていたのは、私とキリスト教メディアの記者さんだけ(記者さんはもちろん仕事で)でした。

もったいないなーと、私なんぞは思うのですが、信者さんたちにとっては毎年恒例のことなので、今年でなくてもというのがあるのかも。それからお年を召されて、歩くのがちょっとという方もみえました。そうですね、史跡めぐりって健康でないとなかなか。行こうと思えば行ける体であることに感謝ですね。



殉教顕彰碑

解説碑

八重桜


 キリシタン史跡ツアーへ♪


龍宝寺


では車に乗って龍宝寺へ。他の参加者は自家用車で向かったのですが、私だけバスなので案内役のTさんの車に乗せてもらいました。お世話かけます<(_ _)>

さて山門の立派なこちらのお寺は、原久左衛門と須藤家の4人が葬られた寺。実はここだけでなく他の寺でも、誰の墓がこれという結び付けは出来ていません。

だけれど江戸時代は寺請け制度によって、全ての人が檀那寺を持たなければならなかったので、江戸送りとなり牢死したキリシタンの遺骨もまた、檀那寺の住職が江戸に受け取りに行き、持って帰って寺に葬ったのです。だから彼らの遺骨や墓碑がこの墓域内にあることは確か。子孫が絶えて墓碑も打ち捨てられてしまっているかもしれないですけど。



山門

本堂

葬られた人々

墓域

キリシタン石殿


墓域を見ていくと、家の形をした墓碑がありました。これは石殿(せきでん)と呼ばれるもので、キリシタンの墓碑と考えられることから「キリシタン石殿」と呼ばれたりもしています。

この形の墓碑がキリシタンのものとされた理由については、根拠となった木村家の墓地に行くときに譲り、ここではその特徴を押さえておきましょう。


キリシタン石殿の特徴


キリシタン石殿の特徴は、一見、家のような形状をしていること。神社などで見られる祠との違いは、屋根が4方向になっていることと、前面に窓のような穴が開けられていること。窓の並び方も十字模様やそれに類した形が浮かび上がるようになっています。また屋根の両横上部には十字のような模様が陽刻されています。

これらは一様に全く同じというのではなく、ざっくりとした外観は似ていても、様々なデザインがあり、それでもやはり一つの類型に分類できるだろうなと思える共通性があります。例えば窓の部分が四角くだけでなく、ハート型にくり抜かれているものがあり、上に逆ハート、下に四角というものもあります。

まずは一つ目の寺、龍宝寺で、「こういうものをキリシタン石殿と言うのかー」ということを学習。5年前にはここまでも至れなかったので、これだけでも大進歩です。



キリシタン石殿

屋根に十字

家型

福持寺


では次は福持寺へ。和田六右衛門、宇那蓋八左衛門、金子茂左衛門が葬られた寺です。

三人ともキリシタンであると訴人されて、1656年に捕まり江戸送りになったのですが、和田六右衛門と金子茂左衛門は転んで赦免され、故郷に戻り病死しましたが、宇那蓋八左衛門だけ向こうに残されたまま牢死しています。

この差を生んだのは何だったんでしょうね。残された手がかりは類族帳くらいしかありませんが、そういったことも追っていかなければ見えてこない実相がありそうです。


「契利斯督記」によると


先ほどから出てきている「契利斯督記」とは、初代宗門改役を務めた井上筑後守政重が、1658年に次の宗門改役である北条氏長に引き継ぐにあたって記録を整理したもの。これによると、「上野国」の箇所に「伊奈半左衛門御代官所。三波川村、渡瀬村、鬼石村、中ツカ原村、コノ四カ村ヨリ、明暦二申年五月マデ、宗門十四、五人モ出デ申シ候。渡瀬村ニ、対庵ト申ス能キ宗門御座候」とあります。

最後に出てくる「能キ宗門」(よき宗門=良き信徒)の「対庵」が寿庵であろうことは、類族帳からも確認できます。また中盤に出てくる「中ツカ原村」が、「譲原村」であることも、「山里の殉教者」を書いた北沢文武によって明らかにされ、今ではほぼ定説となっています(草書体の「ゆづり」を「中ツカ」と読んで活字にしてしまったという、分かってみれば単純なミス)。

しかしこの「十四、五人」ものキリシタンが発覚したことにより、これらの村では大変なことになったのは間違いないこと。家族は引き離され、お縄になって江戸にしょっぴかれ、転ばない限り帰って来られず、牢死した者が何人も出ました。つまり殉教です。キリシタン石殿をそんなにたくさん建てられる状況ではなかったと、私は想像するのですが・・・。



福持寺

福持寺

鐘楼

この寺に葬られた

無縁仏


福持寺に入ってすぐ、無縁仏の墓碑が積み上げられた中にキリシタン石殿がありました。上がハートで下が四角、屋根は急な曲線を描いて垂れ下がった形状で、上下で石材が違うようです。

キリシタンのものだったんでしょうかね。子孫がいなくなったのは、キリシタンの類族として厳しいチェックを受けたからでしょうか。

他にも石殿と似た形状のものがありました。



石殿

石殿と似た形状

無縁仏の墓碑

こちらにも


電柱の脇、少し奥まっていますがちゃんとスペースを与えられた所にもキリシタン石殿がありました。

人間の顔のように、四角く三ヶ所に穴が開けられていて、少しユーモラスに見えます。ほぼ同型で並んでいるのは、夫婦が家族の近しい者同士なのでしょうか。

一度「こういうものだ」と分かって見ていくと、あちらにもこちらにもこのようなものがあることが分かってきます。

日本人がイメージする、いわゆるお墓っぽい形とは一線を画しているので、特徴をつかめば見つけるのは容易です。屋根の十字紋にも花のような形から、ひし形を組み合わせたようなもの、十文字っぽいものまでバリエーションがあります。



屋根の十字紋

石殿

逆ハート型

墓域の片隅に

一族の墓


一族の墓と見られる一区画の墓域に、数個のキリシタン石殿が混ざっているというパターンもありました。

石殿に開けられた窓の形状はそれぞれ異なり、一つは太陽から放射線状の光が放たれているようなデザインです。

しかしデザインが凝っているためか、家型というパターンに収まりきれてなく、これをキリシタン石殿と呼ぶか、他のものとするか微妙なところ。並んでいれば同様のものに見えますが、個別に見たら全く違うものとして識別されそうです。こういったものをどうするのか、形状から判断するのはその辺が難しいところだと思います。


寺や役人たちはどう思っていたかの問題


またこれくらい多数あると、これが役人の目に付かなかったはずがなく、寺でも一定の者たち(キリシタンとその子孫たち)の墓がこのようになっていると分かったはずだから、それをどう思って見逃していたかが気になります。

先ほども述べた通り、当時キリシタンを出したということは大変なことで、キリシタンは死罪に当たるほどの重罪。そんなに表立ってキリシタンの墓を建てられたとは考えにくいです。しかもそれが「キリシタンらしい」形状を備えたものだったらどうでしょう。寺や役人が許すでしょうか?

それを地域ぐるみ、寺もグルになって行った「キリシタン隠し」だったと言う人もいますが、私には後世の人が考えたファンタジーのように思えるのです。江戸送りになれば死ぬまで牢屋に入れられ、大半が骨になってしか帰ることが出来なかった現実があり、キリシタンを匿えば、即刻寺も潰されるという中で、そんなユルさがあり得たのか。考えが深くなるしかありません。



キリシタン石殿

並ぶ石殿

様々なバリエーション

角にも石殿


 木村家の墓所へ☆彡


みかん畑


では 木村家の墓所へ。こちらのキリシタン墓が石殿型で、そこからキリシタン遺物が発見されたため、「石殿=キリシタンの墓」ということになったのです。

それはもう、行かなきゃ。行って見なければっ!

Tさんは木村家の方に声を掛けて挨拶すると、墓所へと上がって行きました。こうやって地元の方とコミュニケーションを取りながら研究してらっしゃるからいいんでしょうね。

よそ者が勝手に来て先祖の墓を見て行くだけなら、きっとその家の人に嫌な思いをさせてしまうだろうから。今日はこうやって案内してもらえるから有り難いです。コミュニケーションの方法も学ばねばと思います☆



三つの墓


これが件のキリシタン石殿。三つ並んでいますが、木村利兵衛、女房るり、嫡男の権平のものと考えられています。

元々は正覚寺という寺にあったのですが、寺の合併の際、家の敷地内に移し、代々の子孫と共に葬ったのだそう。


石殿からマリア像が!


そして事件が起こります。群馬大学の山田助教授(当時)が研究のために訪れて、墓石を少しずらしたところ、中から像が発見されたのだとか。それがマリア像に見えることから、先祖の信仰を偲ぶものとして脚光を浴びたのです。

そのマリア像は、この後木村家の母屋を訪って見せてもらうことになっているのですが、今から気持ちがはやるしか。本などに載っていないので、見たことがないし、直に見られるなんて機会滅多にないだろうし。

しかし冷静になりましょう。ここではキリシタン石殿をしっかり見ておかなきゃいけないですから。うーん、石殿の形状は典型的な石殿ですね。似た感じの二つと、窓の部分がちょっと違うのが一つ。夫婦と息子のものって感じはします。



木村家墓所

三つの石殿

屋根に十字紋

先祖代々の墓


立派な黒御影石で出来た木村家の先祖代々の墓には、向かって左側面に先祖がキリシタンであったこと、右側面に家系図が刻まれています。

なんとなんと、ここまでするって、木村さん天晴れです。類族帳によると、三人は1656年に検挙され江戸送りになったのですが、2年後に利兵衛は牢死。

女房るりと嫡男権平は18年後に赦免されて村に戻って来ています。赦免されたということは、一応転んだのでしょう。帰村後も権平は結婚せず養子に仁兵衛という人を迎え、隠居して母の面倒を見ながら養子夫婦と共に過ごしました。

だから、養子に迎えた仁兵衛が、元々親戚か何かでなければ、現在の木村家の人々とキリシタン三人の血筋はつながっていないことになります。それでもこうやって顕彰してくれているのですから、天晴れであることは疑いのないところですけれど^^



木村家の墓

キリシタン

家系図

木村家の墓

マリア像


木村家の母屋に下りて行き、再びこんにちは。石殿を動かした時に出てきたという石製のマリア像を見せていただきました。

同行のシスターが「触ってもいいですか?」と勇気ある質問をして、ご当主が許諾してくれたので、私もちょっと触れさせてもらいました。ああ、僥倖。博物館級のキリシタン遺物に、まさか触れられるとは。一年分の運は確実に使い果たしました!(いいのか?w)

こんなのどかな山里に、キリシタンだったために牢死したとか、18年耐え忍んで帰郷したとか、なんとディープなキリスト教史が眠っていることか。それだけでも奇跡のような美しい物語です。これを関東全域の人に知ってほしいです。キリシタンって九州の専売特許じゃないんだぞーと。


しかし・・・な疑問。考え過ぎかしら?


しかし感動する心とは裏腹に、私の脳神経では引っ掛かることを検討し始めました。この像、何百年前のものには見えない・・・かな?私の位置からだと光が当たって新しく見えてしまうのかもしれない。だけど、何百年前のもので、墓地で石殿の内部に隠されていたなら、どうあっても湿気や温度変化による影響を受けざるを得ず、それなりに劣化するはず。そんなに昔の物だろうかというのが一つ目のクエスチョン。

それから近年になって墓地を寺から現在地に移したなら、その際に誰か先祖を思って像を入れなかったか、もう一度確認する必要もあるかもしれません。移動の際には木像は出てこなくて、助教授が石を動かした時に出てきたというのは、どういう入り込み方をしていたのか疑問が残りますので。


私、頭固いですかね?(´;ω;`)


更に、この石殿がキリシタンのものだったからと言って、どうしてこの形の全ての石殿がキリシタンのぼひであると言い切れるのでしょう?? 私頭固いですかね? 固いかもしれませんが、聞いてください。

この地方に家型の墓碑が流行った時があった。その頃死んで葬られた人の中にキリシタンがいた。キリシタンの墓にはマリア像が入れられた。それが後世に発見された――というだけなら、どうですか?
全ての石殿がキリシタン石殿とは限らないということになります。

つまり石殿のいくつかがキリシタンのものであるというだけで、他は全て違うということも十分考えられるのです。こんな考え方披歴したら、渡瀬・鬼石地域を敵に回しますかね? それは避けたいことなんですけど。。頭の固い、偏屈な者の独り言だと思ってください汗



マリア像

山里


金剛寺


では近くの金剛寺へ。ここにある地蔵尊も、キリシタンが崇拝したものではないかと、隠れキリシタン研究家が言っているそうです。

「隠れキリシタン研究家」をディスる訳ではないですが、ちょっと変わった昔の石造物があると何でもキリシタンと結び付けてしまう方々・・・、もうほんっとやめてほしいです(>_<)

「地蔵尊の錫杖に十字が!」とか言うんですけど、もともと錫杖がそういうものですからね。議論しても堂々巡りなので、私は否定的な立場だとだけ言い添えておきます。

金剛寺の石垣の下の方にあったのが正覚寺。木村利兵衛ら三人が葬られたお寺です。先ほどの石殿はこちらにあったんですね。この地域、結構お寺多いです。キリシタン以外の人たちも多く住んでいたことでしょう。



正学寺跡

正学寺跡

地蔵尊

地蔵尊

石殿


金剛寺にも石殿はありました。キリシタンの葬られた寺に石殿が多いことも、キリシタンの墓碑とする根拠の一つに挙げられているので、キリシタンの菩提寺以外に石殿はないかも調べてみなければいけませんね。

また江戸時代通してキリスト教禁令は厳しく布かれていたので、石殿がキリシタンの墓碑ならば、徐々に減ることはあっても増えることは考えにくいです。

なので、古い時代ものより、新しい感じのキリシタン石殿が増えていたら、ちょっとおかしいということに。それからこちらの寺のキリシタン石殿は、ひな壇みたいな段に据えられていますね。目立たせるようにしているようです。

近年になって整えてこうしたのかもしれませんが、キリシタンのものだという認識があったとすれば、こうはしないだろうなと。屋根には花にも見える十字紋が刻まれていますけれどね。しかし必ずしも十字紋ではなく、他の模様にも見えるので・・・見方によりけりですね。


どうしてキリシタンが発覚したのか?


この地域にキリシタンがいたことは「契利斯督記」に書かれていますが、そう書かれたのはキリシタンが発覚し、逮捕され、江戸送りになったからです。ではどうして発覚したかというと、ある土地をめぐるキリシタン同士の内輪もめがきっかけとなったのです。具体的名を出して書きますけど、ついて来てくださいね。

まず「能き宗門」だった寿庵から土地家屋をもらい受けたのが、使用人久右衛門と女房すわ、嫡男の平左衛門でした。一緒に暮らしていたので、死ぬ時に譲った遺贈ですね。その寿庵に元々土地家屋を売ったのは、須藤孫右衛門。だけれど孫右衛門は後で困窮して、寿庵の死後、自分が売った土地家屋の一部返還を久右衛門に求めました。

それを久右衛門が断ると、その仕返しに孫右衛門は久右衛門をキリシタンだと訴人したのです。すると芋づる式に鬼石村の医師六右衛門と商人茂左衛門が逮捕され、三波川の木村利兵衛と鬼石の百姓八左衛門、最後に利兵衛女房るりと嫡男権平、鬼石の木挽き商久左衛門、掃部と次郎右衛門、そして新右衛門が逮捕されることになりました。またその後も三波川の萩原利右衛門と甚右衛門が逮捕されて江戸送りとなりました。それが「契利斯督記」に書かれた「宗門十四、五人」


その後村はどうなったか?


江戸送りになった者たちは小伝馬町牢屋敷に入れられたのだけれど、すぐに赦免されて帰ってきた者もいれば、18年間も牢にいた者もいて、牢死して二度と故郷の土を踏めなかった者も半数以上に上ります。このキリシタン捕縛と江戸送りは、山間の村においては特に大きな事件だったはずです。こんな大事件を傍で見ながら、他の村民がキリシタンに対して良い感情を抱いたとは考えにくく、大半の人にとってキリシタンは忌避すべきもの、恐ろしいものと映ったのではないでしょうか。

Tさんも「弾圧された直後、苦しみを受けた親族を思うと、信仰を継承するには至らなかったのでは」と語ってらっしゃいます。つまりキリシタンは徐々に衰亡していったと考えられるのです。ではこれらの石殿は何かという問題が残るのですが、先祖がキリシタンだったことを思い、供養のためにキリスト教的モチーフを込めた墓碑を建立したというのであれば、ギリギリあり得るのではないかと思います。あくまで私見ですけども。



屋根

石造物

後ろの方に石殿?

永源寺


では石殿めぐりのラストで永源寺へ。須藤掃部が葬られた寺です。

5年前に来たときは、この人がこの辺りのキリシタンのリーダー的存在だと思ってたんですけど、須藤家の中での中心だったと考える方が良さそうです。

永源寺の境内は、ここからここという境があまりはっきりしていなくて、いつの間にか境内といった感じ。おまけに広くて、鳥居が並ぶ神社が境内にあったりして、神仏習合がかなり進んでいるもよう。こんな中でキリシタンはどう生きていたのかを知ろうとするなら、キリシタンだけに注目していてはダメな気がします。

キリシタンだけに注目していると、何でもキリシタン遺物に見えてきてしまうからです。それよりも長い歴史を持ち、多くの人が信じてきた仏教や神道を視界にちゃんと捉えていないとミスリードされてしまうと思うんですよね、自分の先入観なり、「キリシタン遺物があるかもしれない」という期待感に。



須藤掃部

永源寺

境内

境内

石殿


はい、こちらにありました、石殿。このお寺にも多くあるようです。葬られた記録が残るキリシタンは須藤掃部だけですが、そこかしこにあるようです。

これらが皆須藤家の人々の墓か、そうでないなら、他家にも相当キリシタンがいたのでなければ、こんなにあるのは不自然です。だけれど家の枠を超えて多くのキリシタンがいたというのはちょっと考えられません。大事件の後、衰亡したであろうことはほぼ確かなので。


本日の結論!


だからここまできて言うのも何ですけど、石殿を「キリシタン石殿」と呼ぶのはやめた方が良さそうです。よくよくTさんがくださった資料を見てみたら、「キリシタンと同型の石殿」と書いてあるだけで、決して「キリシタン石殿」とは呼んでいませんでした。実に賢明な書き方だと思います(この表現の意味することを見落としていた私があほでした)。

はっきりと書いておきましょう。これらは「キリシタンの墓碑(木村家のキリシタン墓碑)と同型の墓碑で、その形から『石殿』と呼ばれるもの」です。これが今現在はっきりと分かっていることですね☆



石殿

石殿

石殿

石殿

石殿

石殿

石殿

他の石造物


「この墓石の上部のように、曲線のドアみたいな形の刻まれているものも、キリシタン墓碑だって言う人もいるんですよねー」とTさん。

こう教えてしてくれているのは、Tさんがそう思うというより、「隠れキリシタン研究家」たちがあれこれ書いていることを、参考までに紹介してくれているようです。

「そういう隠れキリシタン研究会の人たちは卍とかも十字架を隠して書いたものだとか言うんだけれど、それはさすがに違うと思うんですが」とおっしゃってましたから。同感です。激しく同意するしか。

ちょっと見慣れないデザインや変わった石造物があったからといって、キリシタンと結びつけないで、冷静に、史料に基づいて考えてほしいものだと思います。彼らによってキリシタン遺物研究のフィールドが随分と荒らされているのではないかと思うので。ほんっと、悩ましいんですよね...(>_<)




新町駅


TさんにJR新町駅まで送っていただき、挨拶をして帰ろうとする前に、一つ質問を。それはここから離れた山奥の村にもキリシタン墓碑があるという話を聞いたから。どこにあるのか聞いてみたのです。

すると一枚のパンフレットを見せてくれました。それが↓。ななな、なんと! 観光協会が作った案内マップに「穀屋藤兵衛 隠れキリシタン」「隠れキリシタンの遺物」「隠れキリシタンの墓碑」などという文字が踊っているではないですか (;゚Д゚)マジカ

うそっ。今までキリシタン関係で聞いたことないよ、白井(しろい)だなんて。たぶん「契利斯督記」はもちろん、どこの古文書にも載ってないと思う。最近発見されたものなのかな? いやそれでも噂くらいは耳にしてても良さそうなのに、聞いたこともない。出版された本や発表された論文では目にした覚えないんだけど、口伝かな?

しかし観光協会が案内図作ってアピールしてるくらいだから、確かな筋の話なんでしょう。それなりのエビデンスが無ければこんな風に明記でいませんわな。・・・ということで、次のデスティネーションはもっと山奥に決定。「旅は旅を生む」――、そんな格言ありましたっけね?笑



観光マップ

上野村の白井



キリシタン遺物の難問


難問(アポリア)という言葉がピッタリだと思うのが、キリシタン遺物にまつわる問題。人が生きていたんだから遺物は残っていておかしくないし、見つけたいのは山々なのだけど、発見される物の真贋を見分けるのが実に難解。

それは一つにはお金が絡むからであり、次に信仰が絡むからでしょう。お金を信仰よりも先に挙げたのは、贋作が作られる動機はまず金銭だから。その次にそれを信じて買う人、展示する人たちの信仰や思いが関係してきます。どうあっても複雑化するしか・・・。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産登録の勧告を受けましたが、この機に乗じて「隠れキリシタン研究家」が新しくキリシタン遺物を各地でじゃんじゃん見つけたりしないといいなと、私は思っています(ああ、杞憂に終わってくれー)。

反対に、この機に乗じて学者たちが奮起して、完璧でなくてもある程度の基準を提示してくれたら、あまりに荒唐無稽なのは排除されるようになって、きっといいだろうなと思うんですけど。ここ数年ずっとそれを願っております(*‘ω‘ *)





                                      NEXT >>