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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 ぐんま切支丹風土記new 2


さて、今回は群馬の上野村へ。長野県との境に近い所です。もちろんお目当てはキリシタン関連物。前訪れた渡瀬・鬼石地域と同型の墓碑があると聞きまして。案内前回同様Tさんにお願いしました。感謝でGO!



白井宿


目的地までは我が家からは車で2時間半(運転は夫)。道の駅ならぬ、川の駅「上野」でTさんと待ち合わせて、白井(しろい)宿へ到着しました。

上野村は人口約1300人の村。そんなにいる!?って感じですが、広い範囲に住んでいるんでしょうね。ひばりの音が軽やかに聞こえてきて、長閑な気持ちにさせてくれます♪

←こちらは観光客のために作られた無料休憩所。中をちょっと見せてもらいましたが、囲炉裏があっていい感じでした。


十石街道の白井宿 


上野村は十石街道の宿場町で、山の中にあって米が取れないので「米なし山中領」と呼ばれていたのだとか。峠を越えて信州から一日十石(約1500キロ)の米を運んだことから十石街道と名付けられたそうです。

1631年、白井に関所が置かれるようになり、黒澤源十郎が初代関守に任じられてから、徐々に町は発展し、最盛期には白井に7軒の穀屋があり、宿屋、質屋、鍛冶屋、床屋、酒屋に飲食店、女郎屋までがありました。今では人口1300人ほど(上野村全体で)の静かな山間の村ですが、そんな頃があったんですね。


「隠れキリシタンの遺物」とあったけど?


Tさんが印刷してきた資料を私たちにくださいながら、「今回見るものは古文書などでキリシタンのものだと確認されたものではなくて、墓碑の形状からキリシタン遺物だと推測されているものです」と、最初に説明してくれました。

確か上野村の観光協会のマップに「穀屋藤兵衛 隠れキリシタン」「隠れキリシタンの遺物」「隠れキリシタンの墓碑」と思いっきり明記されていたはずだけど、それらは全部・・・推測だったということですかね? もしやここでも見慣れない石造物をキリシタンと結び付けてしまう「隠れキリシタン研究家」が活動しているんでしょうか。

ちょっと目がテンになりましたが、せっかく来たのだからとりあえずしっかり見なければ、見てから判断すれば良いのだしと、自分を鼓舞して立ち直りました。



白井宿

休憩所

高札場


おおっ!復元された高札場が。

横手を見ると、十字路の脇に、石垣から復元された実物大の高札場がありました。

立派で、雰囲気も十分。ここが町の中心で一番目立つ所だったんでしょうね。掛けられている高札の一枚はキリシタン禁制に関するもの。よく出来てるわ。隠れキリシタン(がいたとしたら)の村に、キリシタン禁制札とは。町の歴史を考えてこのようにしたのでしょうか。

解説板には白井宿説明の他、秩父困民党の一隊がここで宿営し、村人が炊き出しを行ったと書かれています。いわゆる秩父事件ですね。自由民権運動がここでも熱く繰り広げられていただなんて、今の静かな佇まいからは想像もできませんが。ただ歴史的にいろんなことがあった村だということが、段々感じられてきました。



高札場

解説板

キリシタン禁制高札

村の中心

市神様の祠


新緑の小道を行くと、「市神様の祠」がありました。寛文13年の銘がありますね。西暦に直すと1673年。随分と長い間村を見守ってきたんですね。この祠は村指定の重要文化財だそう。

「市神」というくらいだから、この辺りで毎月の定期市が行われていたんでしょう。市には上州、武州、信州から商人が集まって、米を中心に各地の物産の交易が、明治中頃まで続いていました。

ここでTさんが祠と石殿の違いをレクチャーしてくれました。横から見ると分かりやすいのですが、祠は前後二方向に屋根が下がる形状であり、石殿はそれが四方向であることが違いであり、見分けるポイントなのだそう。なるほどー。

やはり祠は神社の社殿が元になったもので、石殿はまた家か何かが元になったデザインなのでしょう。



解説板


二方向

小道

黒澤家


今は小道なんだけど、昔は街道の賑わった所だったんだろうなと思っていると、脇の小道を指してTさんが、「ここが関守の黒澤家の本家です」と。坂を上って母屋に声を掛けましたが、お留守のようでした。

ここが穀屋藤兵衛の家で、今はその子孫の方々が住んでいるそうです。穀屋藤兵衛は資料によると隠れキリシタンだったされているので・・・ということは、黒澤家は隠れキリシタンの子孫ってことに?いきなりディープな域に足を踏み入れる展開になってワクワク(((o(*゚▽゚*)o)))



見出し


黒澤家の敷地内には、当時の代官が関所守の庭に植えたと伝えられるイチイの巨木(県指定天然記念物)が太い枝を周囲に広げていました。

関所守がキリシタンだったりしたら、これもキリシタン遺物的なものになりませんかね??

関所守の家にあるんだから、当然かもしれませんが、当時を物語るものとして貴重といいますか。



イチイ

石碑

イチイの巨木

黒澤家の門

白井関所跡


坂を下ると白井関所跡の石碑が。関所と関所守の家とは隣接してあったようですね。山越えのルートは限られるので、狭隘になっている所に関所を設けたのでしょう。

しかし・・・、さっきから気になっていたことを思いきってTさんに聞いてみました。「黒澤藤兵衛が隠れキリシタンだったという証拠というか、根拠は何なんでしょう?古文書か何かが残っているんですか?」と。

すると「郷土の歴史を長年研究してらっしゃるIさんが、これは隠れキリシタンのものではなかろうかと墓石などから唱えていることで、古文書も言い伝えなどもないんですよ」とのこと。えっ、全ては墓碑からの推測ですか!それは、もしかしたら現在の黒澤家にとってはエライ迷惑だったりしませんかね?そんな説を勝手に唱えられて、見学者まで訪れるって。。



白井関所跡

石垣

街道

白井集会所


Tさんによると、Iさんは「キリシタン研究大会」に参加したことがあり、墓石についていろいろと勉強し、先輩諸氏のアドバイスを受けた方だそう。

うーん、それって・・・(悪い予感しかしない)。

ただしTさんはとても理知的で、去年お話したときに、「各地で『キリシタン遺物』をいろいろと『発見』してしまう困った人たち」についても意見が一致したので、Tさん自身が墓碑の形状や文様だけから勝手に「キリシタン遺物」と認定してしまう人ではないことは確か。

だけれどIさんから資料を引き継ぐことになった恩義からと、キリシタン遺物の可能性がゼロではないこと、そして私があまりにキリシタン遺物を見たがっているため、紹介してあげようという親切な心で、たぶんTさんは今日ここへ案内してくれているのでしょう。

お心遣いに感謝です。たとえ偽のキリシタン遺物や、勝手に「キリシタン遺物」だとされてしまった物だとしても、機会があればできるだけ本物を見ておこうというのが私のスタンスなので、見せてもらえるなら見たいです。

何の得もないのにここまで来て案内してくれるTさんには、感謝の言葉しかありませんし。せっかく案内してくださるのだから、私も教えていただけることを吸収して帰ろうと思います (^^)/



村の石造物

集会所前

元は寺院

村の石造物

山々


周りは全て山。目がリラックスします。小鳥のさえずりと一緒に、心地よい風まで吹いてきて。

今日は天気予報によると雨、ところにより雷雨ということだったのに、群馬に来る途中雨雲を見ただけで、来てみたらめっちゃ晴天。絵に描いたような五月晴れです。

こんな日にこんな美しい所に来られただけでも、感謝感激すべきことなんでしょうね。まるで昔話の世界に迷い込んだかのような古い町並み(村の様子)にも、言い知れぬ風情が漂っています。昔の人はこういう村に、こんな感じで住んでいたんだなという。



山並み

墓地の入口

石造物

サツキ

読誦塔


草の生い茂る墓域を横切って、Tさんが連れて行ってくれたのは読誦塔の所。自分たちで探したりしたら永遠に見つけられなさそうな所にあるので、やっぱり案内してもらって良かったです。

こちらの石塔の左脇の一行に「円満所縁吉利」とあるのが、「吉利支丹」(キリシタン)の「吉」と「利」であり、 「円満所縁吉利」とは、「イエスの教えに従って善根を積むことによって全てが充分に満ち足りる」という意味だとか。

――これって完璧に、隠れキリシタン研究家の謂いですね。戒名でも碑文でも必ずこういう解釈を施して、キリシタンの話にしてしまうんです。嗚呼...(>_<)


隠れキリシタン研究家による解釈の問題点


キリシタンの書き方も、切支丹、吉理支丹、切死丹、鬼理死丹などがあり、もちろん吉利支丹はいい意味の漢字が使われていてポイント高いですが、「吉」と「利」が仏教で悪い意味のはずもなく、読誦塔に刻まれているなら、仏教的な解釈をするのが自然です。大体「善根を積むことによって」なんて教理、キリスト教にないですし、そこに相当する漢字は「縁」だけですよね?そこからどれだけ拡大解釈してるんですか。

黒澤家の墓地とも離れた草地に「吉」と「利」の文字が刻まれた石造物があるというだけで、「イエスの教えに従って善根を積むことによって全てが充分に満ち足りる」という意味だ、と解釈してしまうところが、隠れキリシタン研究家の問題なんですよね。我田引水というか、自分が考える結論に全てを持っていこうとするからどうしても無理があります。



左脇の一行

円満所縁吉利

石造物

家型の石造物

石殿


この辺りは元々寺があって、その墓地だったのですが、寺が廃れて無くなったため墓地だけが残されています。

上野村では今も黒澤さんが村長を務めているように、黒澤家は昔からの名家。白井宿のここの墓地にも黒澤家の本家や分家のお墓がいっぱいです。

一つの黒澤家の墓地には、近代の新しめの墓石の後ろに墓碑が置いてあり、草に覆われた中に数個の石殿が見受けられました。典型的な石殿ですね。渡瀬・鬼石地域で見たものと同型です。

渡瀬・鬼石の石殿も、その中に少なくとも3つ、キリシタンのものと言えるものがあるだけで、全てがキリシタン墓碑とは言えないので、こちらもそう解釈するしかないですね。だけどどうやらこういう形の墓碑を、上野村観光協会のマップでは「隠れキリシタン遺物」と堂々と書いてしまっているようですね。



石殿

石殿

石殿

石殿

黒澤藤兵衛の墓


観光協会のマップに「隠れキリシタン」と書かれた黒澤藤兵衛の墓は、黒澤家の本家(右京さん家と呼ばれている)の墓地内にありました。

墓地は新しく整理されたもようで、先祖代々の墓はとても立派な黒御影石。その墓碑と墓誌の背後の一段下に、隠れるように置かれているのが藤兵衛の墓です。黒澤藤兵衛は2代目の関守を務め、引退後は穀物を扱う「穀藤」を興したので、「穀屋藤兵衛」とも呼ばれています。

墓碑の前面に6つの窓を開けて見事なラテン十字を浮かび上がらせています。これは確かに、キリシタンとの関連性を感じずにはいられませんね。ラテン十字(縦棒の下部が長い)は、ギリシャ十字(縦棒と横棒の長さがそれぞれ同じ)と並んでキリスト教でよく用いられるモチーフ。

ギリシャ十字の形なら、日本の漢数字の十と同じなのでそちらの可能性も十分ありですが、縦棒の下が長いタイプのクロスはあまり日本では見かけません。これを見て「キリシタンの墓碑では?」と考えた人の気持ちは理解できますね。その真偽はもっと調べなければ分からないことですが。

その並びにもっと隠れるようにして置かれている石殿型の墓碑が、藤兵衛の母のものだそうです。「藤兵衛がキリシタンで、母もキリシタンだったんじゃない?」と推測を進めてしまうのも仕方ないかもしれません。

いやでも、そこで信じたい方向に傾いてしまわないで、地面に足をついた研究をしないといけませんよね。文献を調べたり、寺に残る類族帳を確認したりして。



黒澤家の墓地

黒澤藤兵衛の墓

ラテン十字?

藤兵衛の母の墓

草地をノシノシ


あと数年放っておいたら自然に戻ってしまいそうな草地を、Tさんに続いてノシノシ歩きながら、類族帳などのことを聞いてみました。

白井宿の調査をしたIさんは類族帳などの確認はしていないようで、黒澤家にも口伝等は残っていないそうです。今後Tさんが古文書を探して調べようとしているということでした。

今後明らかになっていくといいですけどね。渡瀬・鬼石地域の方には幕府の役人が書いた「契利斯督記」(きりすとき)があり、江戸送りになったキリシタンたちの檀那寺、葬られた寺の類族帳があります。それによって姻戚関係や子孫ことなどが分かっているのですが、それらを調べていないのでは推測に推測を重ねていくだけで、何も明らかになりません。


「村ぐるみでキリシタンであった」!?


Iさん作成の資料には「村ぐるみでキリシタンであった」とか「白井のキリシタンの頭目は黒澤藤兵衛という人物」「白井のキリシタン遺物(石造物)はすべて藤兵衛縁の物で・・・(中略)・・・刻んだのはおそらく信州伊那高遠の石工でしかもキリシタンであることが考えられる。高遠はキリシタン大名京極高知の所領地で信濃キリシタンの中枢だから・・・」と書かれています。

しかし!「白井のキリシタンの頭目は黒澤藤兵衛」というのは想像で、「村ぐるみでキリシタンであった」は想像というより妄想に近いです。いくら藤兵衛の墓碑がキリシタンっぽいからといって、そこまで推測するのはどう考えても無茶でしょう。「高遠はキリシタン大名 京極高知の所領地で信濃キリシタンの中枢」だというのは・・・、こんなこと言って申し訳ないですが、事実と異なっています。


信州のキリシタン 


確かに1595年に飯田城主の京極高知が、出城の高遠城において宣教師から洗礼を受けています。しかしその後1601年には丹後の宮津に移封となったので、キリシタン大名として信州にいたのはわずか6年でした。しかも高遠城は出城で、普段居城していたのは北部の飯田城です。また京極高知は、母の影響でキリシタンになりはしましたが、宣教師を招いて領内にキリスト教を広めようとしたりはしませんでした。

1640年に高遠領内で一人のキリシタンが捕縛され処刑されましたが、キリシタンの中枢だったのは高遠など信州南部ではなく、北部だったと考えられます。その根拠となるのは1689年の「切支丹帳数」に信州北部の松代、長野、飯山、長沼などに類族276人が現存していると書かれていることです。信州南部の地名の記載はありません。

なので高遠が信州のキリシタンの中枢で、キリシタンの石工がいただろうというのは、考えにくいことなのです。大体京極高知が信州にいたのは関ヶ原合戦前で、白井の穀屋藤兵衛関係の石造物に刻まれた年は1693(元禄6)~1707(宝永4)年と、時代も大分かけ離れています。



草地

墓地内

石造物

石造物

石殿


草地を抜けると更に草ぼうぼうの所があり、4基の石殿が置かれていました。

4基はそれぞれ細かな点が違っていて、一つ一つ工夫して造られたことがうかがえます。

一番右の逆ハート付きの石殿は、どう見ても渡瀬・鬼石地域のものと同型。渡瀬・鬼石地域と白井宿の墓碑は、同じ文化圏で同じデザインとして作られたと考えて良さそうです。そのデザインに込められた意味があるなら、それも共通していることでしょう。問題は、それが「キリシタン墓碑」の目印になるかどうかです。

右から二番目の石殿は、内部に石でできた像が収められているのが分かります。これを取り出して調査したら、どんな信仰を表すものか多少なりとも分かるかもしれません。渡瀬・鬼石地域の石殿同様、屋根の両横には文様が陽刻されているのですが、十字ではなく、五弁の花文様のようです。渡瀬・鬼石地域の方にもこの意匠はありましたね。


二つの地域の関連性


これだけ共通項が多いのですから、渡瀬・鬼石地域と白井宿は何らかの関連性のある二つの地域だったと考えても良いかと思います。国をまたいで高遠とかを持ち出さなくても、同じ上野国(こうずけのくに)に関連地があったということです。そもそも二つの地域は距離こそ離れていますが、街道と神流川という川で結ばれています。

昔は重い物を運ぶとき、舟を使うことが多くあったので、神流川を通して今より活発な交流があった可能性もあります。渡瀬・鬼石地域の方から白井宿へと、嫁入りや婿入り、移住などがなかったか調べてみてはどうでしょうかね。


新しい史料の可能性


白井宿の寺は荒廃して無くなってしまったと聞きます(I氏はこれもキリシタンが蔓延したためとか、キリシタンにとって目障りだったが隠れ蓑として壊す訳にいかず、明治になって禁教令が解かれてすぐ取り壊したとか解釈しています)が、渡瀬・鬼石地域の方に類族帳が残っていればある程度追跡できます。

Tさんによると、鬼石と渡瀬の類族帳は各1点ずつしかありませんが、三波川のものは代々名主をしていた家から多数発見されているのだとか。もしかしたら、白井宿の方も探せば見つかりませんかね。それこそ黒澤家とかに残されていないでしょうか。代々地域のリーダーシップを取って、今も健在なのですから。



石殿

花文様

中に石像

石殿

屋根の部分

上部に特徴

花文様

石殿

穀屋藤兵衛の家


再び黒澤家の本家に下りてきて、母屋の左にある蔵を外から拝見。これが隠居した藤兵衛が暮らした家だそうです。

えっとー、そんなに経っているんですか、この建物。人が住むには若干不便そうですけどね。

でも蔵を覆うように屋根が葺かれ、大切にされている様子を見ると、やはり先祖代々守ってきた家屋のようですね。藤兵衛さん、ほんとのことを教えてよと、話しかけてみたくなる佇まいです。




藤兵衛が暮らした

母屋

白井の絵図


車を置いた無料休憩所に戻り、そこにでかでかと建てられた観光用の「白井の絵図」を見上げます。

絵図に書き込まれた「穀屋藤兵衛 隠れキリシタン」「隠れキリシタンの遺物」「隠れキリシタンの墓碑」の文字を再度確認。はっきり言えるのは、これを作成した上野村観光協会は、完全に勇み足だということです。


観光客誘致の必要性はあるとしても


観光協会がこれだけ確信をもって書くくらいなので、I氏だけでなく、他にもそうだそうだと賛同し、後押しする人がいるんでしょう。それで観光の目玉、人を呼び寄せるアイテムを探していた観光協会も乗ってしまったのかと。だけど墓碑の形状だけで「隠れキリシタンがいた」と推測し、その推測に基づき観光客を呼び集めていいものでしょうか。

せめて「隠れキリシタンの遺物(?)」としましょうよ。地域の歴史を大切にするどころか、歴史を間違って伝えることで、下手したら正しい歴史をないがしろにしているかもしれませんよ。例えば秩父事件で村の人が炊き出しをしたのはなぜですか?正しいことをしようとする人を応援しようとする人情があったからですよね。


正しい歴史を後世に 


それを「隠れキリシタンの村だったから・・・」という解釈をしてしまったらどうですか。全部隠れキリシタンのおかげになってしまい、そこに生きた人たちの顔は見えてこなくなります。昔キリシタンがいたかもしれませんが、少なくとも江戸中期にはもうキリスト教は継承されていません。村ぐるみでキリシタンだったということもないでしょう。

関守がキリシタンの頭目だったから、信徒をうまいこと隠して、日本全国禁教の嵐が吹く中で白井ではキリスト教が栄えていたなんていうのはファンタジーです。I氏は「白井のキリシタンはおよそ180年間、世代にすると五世代もの間潜伏していたことになる」と書いていますが、地域の人がそんなあり得ない話を信じてはいけないと思うのです。継承すべきは正しい歴史なのですから。



白井の絵図

白井宿

無料休憩所


 御巣鷹山へ


御巣鷹山へ


白井宿を後にして、御巣鷹山へと向かいました。「群馬県の上野村」と聞いたとき、何か聞き覚えがあるなと思いましたが、御巣鷹山がある所だと教えてもらって記憶がつながりました。

1985年に日航機が墜落した山ですね。墜落現場までは40分ほど登山しなければいけないということですが、下の慰霊の園なら車で行けるので、案内しますよとTさんが言ってくれました。ではお言葉に甘えて。ご好意に甘えっぱなしですが (;^_^A



慰霊の園


慰霊の園に着きました。毎年追悼式典が行われている場所ですね。ニュースで見たことがあります。

この事故は、単独機の航空機事故としては史上最悪のものだと聞きます。乗員乗客524名のうち生存者は4人。犠牲者の中には坂本九さんもいました。



慰霊塔


花が捧げられている慰霊塔。いつもきれいにされているんですね。

Tさんの住む藤岡市では、あの事故の際、市内の体育館などが遺体安置場になったのだとか。

犠牲者の中に2人のクリスチャンがいて、後で現場にマリア像が建てられたという話も聞きました。



慰霊塔

記念碑

解説板

慰霊の園

資料館


敷地内の資料館ではパネル展示や映像の他、事故の凄まじさを物語る品などを見ることができます。

映像を見ていたら、当時の村長さんが出てきたのですが、やはり黒澤さんでした。今に至るまでずっと黒澤家が強いんですね。

私と夫は各地のキリシタン殉教地を巡礼していますが、これも巡礼だなと思いました。事故で亡くなられた方を悼み、教訓を胸に刻み、これからに生かそうとする。



地図

展示室

展示室

新聞記事

山々


そろそろお昼にしようということで、お蕎麦屋さんに向かいます。山々、下を流れる渓流、どちらも素晴らしいです。夏のような空も広がって。

こんな日に、いい景色の所に来られたことは感謝だなと、キリシタン抜きで思います。

そりゃキリシタン遺物は見たいけど。遺物を見分けるって、難しいところがありますよね。


「虚構のかくれキリシタン遺物」の問題


最近出された中園成生「かくれキリシタンの起源」という本があり、その本にこう書かれています。「見慣れない形状や特定の記号や文字が存在する造形物を、キリシタン信仰に関する資史料や現存するかくれキリシタン信仰の要素に拠って検証を行うのではなく、近現代の人々が専ら個人的主観に拠ってキリスト教と関連付け、キリシタンやかくれキリシタン信仰に伴う資料だとした上で、その物の存在を主な根拠として、かつてかくれキリシタンが存在したという結論を導き出している現象(がある)」と。

正に今回がそれだと思うのですが、このような事例は関東各地で見られます。K氏という北関東に在住の研究家(職業は医師で、クリスチャンではない)人が、墓地や巷に残る石造物の中にキリシタン遺物を次々と「発見」し、膨大なページ数の本を著したのがきっかけとなり、それを信じた人たちによって更に「発見」が続いたからです。


カトリック教会に地蔵尊!?


K氏の考えに追従する信徒たちにによって、カトリック教会にまで「キリシタン遺物」として地蔵尊(×マークが付いているので、これはアンドレアクルスだということでキリシタン遺物とされた)などが置かれるようになったのですが、信徒たちがキリシタン研究の第一人者である高木一雄氏を呼んで遺物を見てもらったところ、キリシタン遺物ではないと言われ、K氏と信徒たちはとても叱られたそうです。

「それからKさんはしゅんとしてしまって、かわいそうなくらいで・・・」とTさんは言いますが、Tさん優し過ぎると思います。ガツンと言われて、しゅんとなってもらわなくては困ります。できることなら、高木先生に全国のそういう集まりに行ってもらい、ガツンガツンと蹴散らしてもらいたいくらいです。


トンデモ説を放置するのでなく


だけれど学究の徒は、一部しか見ないで結論付けてしまうトンデモ説をバカバカしく思うのか、そういった場に行ってちゃんと指摘し教えてくれるまでには至りません。時間の無駄だと思うのかもしれません。しかし学術的な研究と、市井の「隠れキリシタン研究家」の活動が乖離することで、トンデモ説が放置され蔓延していってしまうのです。

教会関係者も、それをきっかけとしてキリスト教に興味を持ってもらえるといいと考えて、黙認や追認してしまうケースが結構あります。しかしそんな風に興味を持ったところで、正しい信仰にまで至ることができるでしょうか。

キリシタン研究の専門家や教会関係者が重い腰を上げ、ちゃんと物申すときがきていると思います。乖離ではなく融合ができたら、研究の向上、ひいては教会関係者も喜ぶ事態も起こり得ると思いますので。



渓谷


十割そば


Tさんオススメの 「福寿庵」で十割そばを。モソモソとして素朴な味わい。そば湯が美味しいです(^▽^)

キリシタン談義だけでなく、信仰談義もしましょうかね。せっかくご縁があって、一緒に遺跡めぐりをさせてもらっているので。

一年前に私が上野村に行きたがっていたことを、Tさんが覚えていてくださり、律義に連絡までくださったので来ることができました。ほんと感謝です。美味しいものまで食べられて。ちゅるちゅる。



しおじの湯


ご飯のあとは浜平温泉「しおじの湯」へ。メタケイ酸のお湯なんて初めてかも。なんと飲泉もあります♪

男湯に若い二人組が来ていたので、Tさんと夫が話しかけてみたら、JALの社員で御巣鷹山に慰霊登山に来た人たちだったそう。

「怖かっただろうなと思いました」と言っていたそうです。事故から30年以上経つけれど、社員の人たちは今も登って忘れないようにしているんですね。こういうことも知れて良かったです。



しおじの湯

飲泉コーナー

神流川

倉庫の裏へ?


出てくるとTさんが「いやー、ここにもあるんだよ」と。えっ、それなら見たいです!

温泉とのセットプランもある宿泊施設「木森れ日」まで少し坂を上がり、横手にある倉庫の裏に行きますと・・・。

あ、あった!!
こんな隠れたような場所にカンペキな石殿がっ。


石殿


上野村で最後に見た石殿は、やはり渡瀬・鬼石地域と同型のもの。実はこれとよく似た家型の墓碑は、山形や小豆島、山口などでも見たことがあります。

山形のものはもっと大きく、藩主一家やキリシタンではなくキリシタンを迫害した武将たちの墓でした。

山口のものは大きさも同じくらいですが、中の空洞に石像が入っていて、「石龕」と呼ばれています。キリシタンの墓碑でありキリシタン遺物だと考える人もいて、たくさん並べてキリシタン祈念地としたり、殉教記念公園内にも置かれていますが、2000年代になって出された本(岩崎太郎「長防切支丹誌」)で、学術的にはキリシタン遺物と認めないことが示されています。

その理由としては、石造物を作れば信仰を隠す事にはならない事、石造物は専門の職人によって作られる事、交差する線はありふれた図形であって必ずしも十字架とは言えない事などが挙げられています。こちらの石殿の屋根にもクロスがありますけどね。

渡瀬・鬼石地域にはキリシタンがいたことが証明されているので、キリシタン遺物であった可能性を排除できませんが、上野村にはキリシタンがいたとは言えないので、史料等で両地域の関連性(姻戚関係など)が明らかにされるまでは、これをキリシタン遺物と考えるのはやめておいた方がいいと思います。



サツキの下に

石殿

横から

屋根のクロス

石殿

倉庫の裏にある

「木森れ日」

清流パーク


神流川の支流をせき止めて作られた清流パークでは水遊びのや釣りができるよう。Tさんによると上野村は財政的に潤っていて、新しい施設が建てられ、観光振興が進んでいるそうです。

首都圏からのアクセスも、高速道路が開通して便利になったなと思いました。キリシタン抜きでも遊びに来たら良いですよね。夏とか涼しいだろうし、温泉もあるし☆



我が家へのお土産


我が家へのお土産は、十石みそと刺身こんにゃく。早速食べてみたら、滋味あふれる健康食でした。今後観光客が多く訪れるようになったら、あの山間の白井宿もあんな静かな佇まいではなくなるかもしれませんね。

キリシタンがいたとは現時点では言えないけれど、こういう感じ村で暮らしていたのかなと、想像力を掻き立てられる面白味は感じました。たまには、普段と違う環境に身を置くのがいいですね。よい気分転換になったGWでした (*'▽')カンシャ~





キリシタンのイメージ


最近の研究によって、キリシタン・隠れキリシタンのイメージが変化してきています。従来は、隠れキリシタンというと、転びキリシタン子孫であり、弾圧を受け健気に生きてきたかわいそうなイメージがありました。

しかしそれは遠藤周作が小説上、禁教時代の信徒を「殉教者」と「転び者」の二通りに分け、「転び者」に寄り添う神であることを描こうとしたことによる影響で、小説の意図としては納得できるものの、実態とは異なることが分かってきたのです。

なぜなら信徒が殉教ばかりしてしまったら、信仰の継承はできないので、宣教師は殉教せず生きることを勧めたはずで、殉教は信仰が露見した場合の身の処し方だったと考えられるからです。

小説などの影響を受け、一般のイメージは形作られるのですが、そのせいで禁教令下のキリシタンが宗教的な恥辱(スティグマ)を負わされていたことも事実。「隠れ」という否定的な響きもその一つです。

学術的な研究においては、そういった先入観を退けて、様々な利害への忖度を排して、実像に近づく決心をしてもらいたいと思います。そして私のような市井の人間も、自分の考えに執着することなく、確かな情報に基づくことを信じていけたらと。

群馬の旅ではキリシタン遺物ついて大いに考えさせられたので、これを自らへの教訓にしたいと思います。信じたいように信じるのでなく、主張したいように引っ張って来るのでなく。史跡めぐりは、体と一緒に頭も動かさせてくれるのでいいですね。今回の導きにも感謝&感動です(*^-^*)






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