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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 おたあジュリアの横顔 vol.1



前々から「いつか神津島へ!」と思っていましたが、「今だ!」と思ったのは今年のこと。神津島を含む伊豆七島へのフェリーが新しくなり、期間限定でお得な料金になっていたのを見て。神津島は朝鮮人初のキリスト教徒、おたあジュリアゆかりの島なのですが、ちょうどこのプロモーション期間がジュリア祭の日程と合致していたことも背中を押してくれました。

これは神さまからのプレゼントかも♪♪と思い、予約しました。爽やかな季節に海を越え、キリシタンめぐりに行けるなんて幸せ~。たくさんの発見がありますように(⌒∇⌒)



生憎の荒天


さて、張り切って出発したはいいですが、生憎の雨。5月なのに台風というレアなシチュエーションをどう捉えたらいいのか。もしかして行くのは御心じゃないのかと考えてみたりして。

しかしチケット取ってあるし、宿も予約しているし、とりあえず出航する港まで行くべと向かいます。我が家からはJRを乗り継ぎ下田へは3時間ちょい。結構かかります。


駿河湾

伊豆へ

地図

フェリー


出航するのか危ぶまれるくらいの暴風ですが、フェリーは予定通りに運行するもよう。ほっとすると同時に、船酔いが心配になってきました。

かなり揺れそうです。。私は二等船室でとりあえず横に。瞑想しているようなマインドで楽に過ごす作戦で。

夫はというと、雨の吹き付ける甲板に出て写真を撮ったりして楽しんでました。静岡出身で海とか釣りとか好きなタイプなので、自然とウキウキしてしまうようです。あー、無事着いて、見るもの見られますように☆



出航

伊豆七島

下田

雨風

神津島


神津島に着くと、民宿の人が車で迎えに来てくれていました。神津島には港が二つあって、風の強い日は町から遠い方に着くので、迎えに来てもらえないと困るのです。

その点島の人は心得たもので、私たちをピックアップすると、島の様子をレクチャーしながら快適走行。カーブの多い道を結構飛ばして走るので、フェリー並みに酔いそう・・・(;´Д`)

宿に着いて荷物を置いたら、町の方にある大きい港へ。ランチしながら一息つきましょう。無事に神津島に上陸したということで、第一関門突破ですよ。ちょっと美味しいものでも食べたい気分です。沿道にジュリア祭ののぼり旗がズラッと並んでいますね。盛り上がってるのかなー?




神津島

島の模型

歌碑

鯛の漬け丼


港湾施設の二階にある食堂で鯛の漬け丼を。脂がのってて美味なり。ジュリア祭に来ている人たちもいるかと思ったのですが、食堂にいるのは、それとは別に来ている外国人観光客と地元の人たちのみ。

ジュリア祭に来る人たちは、カトリック教会で募って団体で来るので、お昼とかは自由行動でないのかも。この後うまく団体さんたちに混じって動かなきゃですけどね。



おたあジュリア顕彰碑


港から徒歩5分で、おたあジュリア顕彰碑のある公園に。毎年ここで記念のミサが行われると聞いていたのですが、今日は雨なので室内になったそうです。

団体旅行を催行している旅行会社の人が道しるべとして立っていて説明してくれました。おたあジュリアの墓があるとされる流人墓地への行き方も案内してくれます。

旅行会社が絡んでくれているので、いろいろと安心ですね。地元住民とカトリック教会関係者だけでは、なかなかそこまで手が回らないので。それくらい毎年行われる行事となっているということでもありますね。ここで少しおたあジュリアと神津島のことをおさらいしておきましょうか♪


朝鮮人初のキリスト教徒


おたあジュリアは、文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵で、小西行長軍によって保護された朝鮮人。キリシタン大名だった小西行長が妻のジュスタに預けて養育させたのですが、長じておたあも信仰を持つに至り、洗礼を受けてジュリアの霊名をもらいました。これは朝鮮半島にまだキリスト教が入る前のことなので、おたあは朝鮮人初のキリスト教徒ということになります。

1600年の関ヶ原合戦で小西行長が敗れ、六条河原の露と消えると、おたあは大坂を経て駿府へ向かい、家康のいる駿府城で大奥付きの侍女として仕えるようになりました。1612年、幕府直轄領でキリスト教禁令が発布されると、駿府にいたおたあらキリシタンは捕らえられましたが、おたあの美貌に目を付けた家康は、キリシタンをやめて側室になるのなら許してやろうと持ち掛けます。


おたあは神津島に


しかし信仰を選んだおたあは、網代を通って伊豆大島に流され、更に新島、そして神津島へと流刑となりました。大島には約一ヶ月、新島には半月いたことが分かっていますが、「その後神津島に移され、そこで40余年を過ごして没した」――というのが解説板や観光ガイドなどに書かれている説。

しかし近年新しい資料が出てきて、その説は否定されています(後述)。神津島には4年ほどいて、その後本州に戻り、長崎に行って教会の保護を受けて晩年を過ごし、そこで亡くなったことが明らかになっているのです。ただまだその事実があまり周知されていないため、ここでも解説板には古い説がそのまま書かれていますね。

その説が出された当時のエライ人たちが追認して顕彰碑まで建てられ、ミサだけでもなくジュリア祭まで大々的に行われるようになったのですので、今更引くに引けない状況なのでしょう。その辺の矛盾を感じながら、まずは流人墓地に向かいますかね。



おたあジュリア顕彰碑

公園


日韓の旗

流人墓地


流人墓地は須賀原地内の鋭角に切り取られた一角にありました。昔は流人塚と呼ばれていたそうで、道路に面して石垣を積んで地崩れを防いだ様子にその辺りがうかがえます。

実はここはかつて島の刑場だった場所。電柱工事でジュリアの墓の後ろを掘り下げたときには大量の人骨が出土したのだとか。

今でこそ住宅街に囲まれていますが、戦後しばらくまでは周囲に人家もなく、うっそうとした木々が生い茂っていて、島民は昔からここを通るのを怖がって避けて通っていたのだといいます。典型的な刑場跡ですね。流人墓地に聳える大木が当時の様子を伝えています。江戸期にはこういう感じが広範囲に広がっていたんでしょう。



おたあジュリアの墓


おたあジュリアの墓とされているのは、こちらの二重方塔。地元では元々「宝塔様」「篋塔様」と呼びならわされていたそうです。

それが今ではすっかり「聖女、オタア・ジュリアを祀った墓碑である」と、解説板に明記されていますね。


流人墓地の墓碑について


流人墓地へ入ったすぐの所には不受不施派の僧侶たちの墓が没年順不同で並んでいます。これについては1639(寛永16)年、島に初めて濤響寺(とうこうじ)という寺ができた際に、島内に点在している流人の墓を一か所に集め、濤響寺の宗旨(浄土宗)とは違う不受不施派の墓や誰のものか不明の墓碑を、濤響寺の境内にある墓地ではなく、刑場の片隅に移し変えて供養したということが分かっています。

つまり、おたあジュリアの墓とされる二重方塔は、その際に建てられた供養のための宝篋印塔ではなかったかというのが私の意見です。この二重方塔に田型の彫り込みがあることから、これを十字架と見なし、キリシタンの墓碑だとしたのが、最初にこれをジュリアの墓だと言い出した人の言い分なのですが、このような田型が刻まれた宝篋印塔は伊豆七島の他の島々(キリシタンが来たこともない)にもあります。



朝鮮風の墓碑?


この種の宝篋印塔は関東や中部地方、日本海側でも見られるもので、キリスト教伝来より前から造られているので、キリシタンとは関係ないと考えるのが自然です。またこれをジュリアの墓だと主張する人によると、この墓碑の形は朝鮮風だというのですが、朝鮮にこのような形の墓碑が存在しないことは、墓制史を調べればすぐ分かることです。

皮肉なことですが、「ジュリア祭」が行われるようになり、遠く韓国からも巡礼団が来るようになったことで、「これは朝鮮式の墓ではない」と口々に囁かれるようになり、解説文からも「朝鮮風の墓碑」だという一文が削られるようになりました。有名になることで、様々な方向から矛盾が明らかになってきたということですね。




二重方塔

賽銭箱がある

田型

おたあジュリアの墓

不受不施派

大木

解説板

地蔵尊


 ミサに与り


ごミサ


雨天のため、近くの施設のホールを借りて行われるようになった記念ミサ。後ろの方で参加させてもらいました。

ほとんどがカトリック教会のツアーでみえた人たちで、その他の参加者は韓国人家族や私たちくらい。ミサは三人の神父様の共同司式で行われ、おたあジュリアに関するお話も聞くことができました。

真心のこもったミサに与り、このような行事が神津島で行われていることは意味のあることだなと思いました。残念なのは、神津島にクリスチャンが一人もいないということですね。クリスチャンになる準備のため勉強している人が一人いるとは聞きましたが。するとこの島でミサが行われるのは、一年でこのときだけということになりましょうか。


おたあジュリアのその後


では先ほど「後述」と書いた、おたあジュリアのその後に関する資料をなぞって、晩年の様子を追ってみましょう。


「皇帝はドーニア・ユリアという大奥の侍女を少数の漁師しか住まない離島に追放した。彼女は島で数年間、様々の苦難に苦しんだ」(福者ハシント・オルファネール「日本キリシタン教会史」1602~1620年)

「将軍によって追放された70人の中に朝鮮生まれのジュリアという女性がいる。(中略)今マニラから信心深いキリシタンが彼女に施物を送っている」(福者ファン・デ・ロス・アンヘレス・エルダの1615年3月15日付の書簡)

「閣下がドーニャ・ジュリアに最初に送って下さった400レアルと二回目に送って下さいました200レアルは、彼女が確かにそれを受け取ったことを私は知っています。キリスト教の事が酷しくなっているので、ドーニャ・ジュリアから受け取ったという便りはまだ来ていませんが、閣下が金をことづけた婦人から知らせがありました」(福者フランシスコ・モラーレスの1620年2月18日付書簡)

「その頃数人のベアタ(注:在俗ではあるが一生を神に捧げた未婚の女性)が奉行の前に連れて来られました。(中略)その中に朝鮮生まれのジュリアという女がいました。ロザリオへの信心が深く信心会のために常によく働いていましたので、何回も自分の家や町から追い出され、今は家もなく神の御心のままに家から家へと移り歩いています」(福者ホセ・デ・ハシント・サルバネスの1619年8~9月の書簡。文中には出ていませんが、長崎であった出来事の報告部分)

「信仰の為に追放された高麗人大田ジュリアは、いま大坂にいる。私は既に援助したし、出来る術で施している」(福者フランシスコ・パチェコの1622年2月15日付書簡)



神津島を出たことは、最後に挙げたフランシスコ・パチェコ神父の書簡だけで十分ですが、これらを総合すると以下のようになります。


1612年3月 ジュリア、神津島へ。
1617年頃 ジュリア、神津島から本州、更に九州へと移り、長崎にて貧しい生活を送る。モラレス神父の仲介で銀貨を施しとして受ける。
1619年 ジュリア、在俗ではあるが修道女のような生活を送り、信心会に奉仕。モラレス神父を通して再び援助金を受け取る。
1622年 長崎から大坂へ移り、宣教師らから施しを受けながら信仰的に暮らす。



おたあジュリアが信仰の故に追放され神津島に来たことと、その信仰を保って生涯を終えたであろうことは確かですね。その面では流人墓地の解説板に書かれた「聖女」の文言は合っています。しかし神津島を出て、長崎や大坂で暮らしたことも明らかになった今、この島にジュリアの墓があるはずはありません。その点を関係各位が確認し、しかるべき対処をしなければならないのではないでしょうか。



祭壇

おたあジュリア

濤響寺


ミサを終えて濤響寺(とうこうじ)へ。波の音が聞こえてくるような素敵なネーミングです。この寺は伊豆下田にある海善寺の末寺として、1639(寛永16)年に建てられました。

現在の堂宇は1804(文化元)年に全島民が労役に参加して建立されたものなのだとか。神津島全体の檀那寺として長く信心を集めてきたのでしょう。

つまりこの寺の過去帳を見れば、ここで亡くなった人たちのことが分かるということです。もしジュリアが神津島で40年も暮らして亡くなったのだとしたら、明暦年間のことになり、濤響寺の過去帳に記されるはずですが、その記録はありません。昔のことですが、過去帳はちゃんと1639(寛永16)年から残っているので、言い逃れはできないかと。

江戸時代は寺請制度が布かれ、全て国民は檀那寺を持たねばならなかったのです。またキリシタンがいたのなら、庄屋に類族帳が残っていることでしょう。キリシタンは死ぬまで監視され、子孫がいたら数代後まで調査されたので。それらの記録類が無いということは、キリシタンがいなかったことに他なりません。



濤響寺

濤響寺

解説板

解説板

花十字紋


そんなことを思っていると、お参りに来たと思しき婦人が、つつーと寄って来て、本堂の天井を指し囁くように言いました。「これ・・・」。

ん?と見ると、朱色に塗られた文様が。

「ほらこれ、十字架があるって、東京から来たエライ先生方が言ってたんですよ」と、見上げている私たちに教えてくれました。確かに花弁が四方に伸びて十字にも見えなくはない文様ですね。花十字紋とも言いましょうか。

恐らくこのご婦人は、島外から来た私たちに、キリシタンに関係ありそうな物を教えてくれたのでしょう。ご厚意に感謝。だけど、十字みたいな模様があるだけで「わー、キリシタンがいた証拠だ!」とはならない頭でっかちでゴメンナサイ。このお堂は文化年間の建立ですよね。ジュリアが去って200年後です。東京から来たエライ先生方はその時代までキリシタンがいたと言うんでしょうか。

労役に服した全島民や、僧侶、建築にあたった大工に至るまでキリシタンでなければ、十字架をお堂に堂々と刻むことは不可能かと。仏教の信仰心で、お堂に美しく花文様を刻んだというのが、正しくも冷静な解釈だと思います。何でもキリシタンと関連付けてしまうのは、仏教を信じてきた人たちにも失礼ではないでしょうか。



花文様

お堂


境内

神津高等学校


ではトコトコ移動して神津高校へ。ジュリア祭の会場です。こういう公共施設をで行われることからも、ジュリア祭は最早公の行事なんだなと感じます。

入口ではPTAの人たちが靴を入れる袋を配っていました。雨だから対応することが増えて大変かもしれません。

だけどそれでも地元民が強力サポートして、ジュリア祭に来る人を迎え、出演する人を応援してくれているのでしょう。暖かいもてなしだなと思います♪



島の高校

住民の協力で開催

ジュリア祭始まる


ジュリア祭が行われる体育館は、思ったより大きく立派。新しく建て替えられてそんなに経ってないようです。

島の経済潤っているんですかね?住民の年齢層も若いように思います。

用意されたパイプ椅子が全部埋まるほどではありませんが、結構人集まって来ていて、島民集合の日なのかなと思いました。

開会の辞があり、おたあジュリア顕彰会長の挨拶、毎年ゲストとして来島している東京韓国学校長の挨拶と続くと、ちょっと話が長いためか、私の前列のおば様たちがうつらうつらと・・・仕方ないですよね。天気も鬱々しているから眠気がきます。

しかーし!その後出し物が始まると雰囲気は一転。韓国学校の生徒さんたちの演舞が素晴らしくて感動モノ。韓国の各種の舞踊、農楽とかプチェチュム(扇の舞)とか、太鼓叩くのとかもう、お金払って観に来るレベルです (≧∇≦)



プログラム

ジュリア祭

日本の出し物

韓国学校の生徒さん

韓流の原点!?


さっきまで居眠りしていたおば様たちも大興奮で、体揺すって拍手を送っています。

韓流の原点ここに見たりって感じですね。

朝鮮民族って、踊りとか歌とか、芸能全般に優れているようです。特にグループ全体で何かを表現する芸能事には、ちょっと適わないなというくらい、特別に才能が与えられているんじゃないですかね。

日本の高校生たちの出し物も頑張ってましたけどね。でもやっぱり韓流には・・・レベル的に遥かに及ばないというか。島の人たちが雨にも関わらず続々と集まって来ているのも、これが目当てだったんだと理解ができました。

個人的には考えが一変しました。おたあジュリアの墓は神津島にないけど、ジュリア祭はアリだなと。こんな日本の片隅の島で、日韓の人たちが和睦を成し、お互いの良さを知る機会を持っているなんて、なんと素敵なことでしょう。これってもしかして、ジュリアの祈りが叶えられた姿だったりしませんかね。ジュリアは数年で島を去ったけれど、祈りを残していったはずだから――。



太鼓

神津音頭

日本の出し物

韓国の出し物

舞踊

七つの太鼓

学生さんたち

東京韓国学校から

神話のオブジェ


ジュリア祭が終わり、再び港に戻ってそぞろ歩き。日が長くなりましたね。もう七時近いのにまだ明るいです。

これくらいの時間帯に終わるのも、ファミリーで参加する行事ならでは。良いですわ、海風を受けて帰る後味も。

「奇貨居くべし」という言葉があるけれど、神津島のジュリア祭もそれかもしれません。珍しいものは、買っておいて値上がりする時期を待つべきだという意味ですが、こういう他で見られない珍しい行事も、残しておくならいつか必要なときに価値を発揮するのではないかと。

例えば日韓関係がこじれたとき、あるいは逆に両国がとても近づいたときに、平和のカードとしても用いられることはないですかね。未来は誰も見通せないから「こういうことのためにあった方がいい」とは言えないけれど、あったら何かいいことがありそうな気がします(^^♪




ジュリア祭

民宿の夕飯


民宿に戻って、民宿っぽい夕飯を。私たちの他に泊っているのは、工事に来ている5,6人の団体さん。一斉にご飯を食べて、一斉にお風呂に入って、8時にはお風呂も終了。

時間配分を聞いたときは、「ほぉっ!?」って感じでしたが、島の生活は早寝早起きが基本なんでしょう。健全だなぁ。時間の流れ方が違う。よい経験になりますね、東京都なのに。




キリシタン遺物バスターに!?


今回もキリシタンの足跡を追って来て、結果的に「キリシタンの墓碑ではない」と結論付けるようになったのですが、こういう私の動きが気に入らない人もいるようで、「キリシタン遺物バスターみたいだ」と揶揄されることも。

そんな皮肉たっぷりのメッセージとか受け取ると、いい人だと思っていたのにと残念に思ったりします。私は資料と証拠に基づいて、本物を正しく知ろうとしているだけで、バスター(退治する者)になる気はないんですけどね。

だからキリシタン遺物の可能性がある物はできるだけ直接見に行って、伝聞や予測で判断しないようにしています。分からないものは分からないと、中立的立場で置いておきますし。ただし人間なので、限界があるのはやむを得ないことですよね。私の知見が足りなくて、理解度の低いことを書いていることもあるでしょう。

その辺は「個人の見解だからしゃーないな」とご容赦いただけたらと思います。学問で追求する人も、キリシタンで観光振興する人も、私みたいに歩き回っている人も、誰も神様ではないから真実は分かりませんよね。それぞれのやり方で真実の欠片を探していくだけです。

とりあえずそれでも、粛々と明日も明後日も行きたいと思います。心まで晴れるような青空プリーズ (^_-)-☆




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