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旅行記 > 信濃路、秋薫る vol.2 スマホ版は⇒
コチラ
諏訪に泊まって、本日は松代へ。松代城とその城下町を目指します。長野にはキリシタンの足跡が多くないと言いましたが、それでも松代には侍の中にもキリシタンがいたと記録にはっきりと残っているのです。
夜は佐久に泊まる予定。日が短くなってきているので急ぎ足で~♪
松代城へ
松代城(まつしろじょう)は戦国時代には海津城(かいづじょう)と呼ばれていた平城で、日本100名城の一つ。
上杉と武田が激戦を繰り返した時代に、武田方の前進基地として築かれたといいますが、今は草地が延々と。城の周りには城下町の風情はないですね。
ひろーい公園に来ちゃった感じ。えっと、この道進んでいいのかな?
北不明門
やっと城の感じがしてきたのは、本丸に通じる北不明門に着いて。狭間とかあって戦国を醸し出しているけど、それでもこれは復元でしょうしね。
本丸の裏手(搦手)に位置する重要な門だったと解説板に書かれています。
櫓門が石垣に渡っておらず、独立しているところが中世城郭の面影を残しているようです。
本丸跡
着きました、松代城の本丸跡。
「海津城址之碑」と刻まれているのは、1711年に徳川幕府の命によって「松代城」と改名するまで「海津城」だったからかと。
この城は、1622年に上田城主の真田信之が13万石で移封してきて、明治に至るまで真田氏の城だったわけですが、その頃「松代城」になったんですよね。つまりそれより前の築城時の名前を記しているのは、「元々」にこだわったからではないかと思われます。
武田氏時代の名前で呼ぶことは、すなわち郷土の人々の武田愛が反映しているのかもしれませんね。真田愛もあると思うけれど。
堀
昔の城郭図を見て、やっと草地の意味が理解できました。当時はこの草地の辺りに水が満ち、堀のような役割を果たしていたんですね。
千曲川の流れを引き込んで、まるで水城のように曲輪が形成されていたようです。天然の要害の名にふさわしい縄張りですね。美しくもあったことでしょう。
ではひと通り城を見たところで、肝心のキリシタンについてひも解いていくこととしましょう♪
松代のキリシタン
宗門改役の手記「吉利支丹出申所之覚」(きりしたん・いでもうす・くにところのおぼえ)には、「松代ヨリ侍二三人モ出申し候」と書かれています。時代的に見て真田氏の家臣だったろうことは間違いないので、真田氏の移封に従って当地に来た者たちの中に、キリシタン武士が少なくとも2、3人はいたことが分かります。
この2、3人を、高木一雄氏は内藤自卓兄弟と奥住新左衛門ではないかとしています。内藤自卓兄弟が信濃国上田の出身で、他の記録に「松代ニテ(キリシタンであることが)発覚」したとあるからです。この後内藤自卓は棄教して流転の人生を歩み、最終的に会津に墓があるんですけどね。墓の脇の灯籠に花十字紋があると言われています(
泰雲寺)。

形だけでは判断がつかないところですが、とても示唆的ではありました。松代のキリシタンについては、城下町を歩きながらもっと考えてみましょう。

曲輪 |

解説板 |

解説板 |

石垣 |

本丸跡 |

東不明門前橋 |

解説板 |

堀 |
日本基督教団 松代教会
城下町に行くと、日本基督教団 松代教会が。
キリシタンいたんですよ、この町に。信仰的には先輩みたいな感じです。ご存知ですかね?――そんなことを言いたいなと思いながら通過。
大河ドラマで「真田丸」がやっていた時にも、キリシタンが出てきていたので、たぶん知ってらっしゃるとは思います。真田氏の家臣にキリシタンがいたことは。町人にもいましたね。その辺をちょっと補足しておきます☆
松代にいたキリシタンたち
「松代にいたキリシタンたち」と言っても、1614年に既に全国にキリスト教禁令が布かれているので、記録に出てくるのは転びキリシタンたちです。しかしまあ、元キリシタンがどれくらい住んでいたかによって、それ以前にキリシタンがどのくらいいたかをうかがうことができるわけで。
例えば、松代城下の鍛冶町に転びキリシタンの一家が暮らしていたことが記録されています。元は上田に住んでいて、真田氏の移封に伴い扈従してきた人たちとみられます。また初代宗門改役井上政重の手記録には「松代ヨリ中比ニ出申候」(「中比」は「なかごろ」と読む)とあり、正保~明暦年間に30~40人のキリシタンが江戸送りになっています。

彼らはいわゆる潜伏キリシタンですね。告発されて逮捕され、江戸送りになったわけです。戻って来た者がいたかどうか調べられていませんが、戻って来たとしたら転びキリシタンです。転びキリシタンの子孫は類族としてチェックされているので、その総数がわかります。
それによると松代に247人の類族がいたようです。30~40人も江戸送りになっているくらいですからね。結構な数の人々が、この城下町にいたんだと思うと、目に映るものも違って感じられます。
旧松代藩鐘楼
城下町っぽい所を探して旧松代藩鐘楼へ。市指定の有形文化財です。
元々は真田信之入封の時に建てられたけれど、戦争の時に鐘が供出され、その後復元されたそうです。
雰囲気があっていいです。近くには松代活動館跡地も。町の中心地だったんですね。
大英寺
続いて大英寺。先ほど鍛冶町に転びキリシタンの一家が暮らしていたと書きましたが、それは才三郎という人の一家で、その菩提寺がこちらなのです。
転んで檀那寺を持っていたということですね。武士を含む国民全員が檀那寺を持ち、、その寺にキリシタンでないことを証明してもらわなければ生きることができなかった時代です。
恐らく位牌も墓所も残ってないだろうと思うので、探しませんでした。この寺は初代藩主である信之の妻 小松姫(本多忠勝の娘、徳川家康の養女)の菩提寺なので、そのことで有名です。
松代藩高札場
「何かキリシタンの痕跡はないかな~」と、車を走らせておりましたら、おっ、高札場が。
中町公会堂の前にありました。
下にあるのは礎石だそう。
キリシタン禁制
キリシタン禁制の高札も右下に。「定」として定め書きが記された後に、「説明」としてキリスト教が禁止されていたことなどが付記されていますね。
現代の人が読むことを考えて、ちゃんと解説も加えてくれていてわかりやすいです。これが無いと、背景を知らない人には「なんじゃこりゃ」ですから。
実際の場所は
ふむふむ、この前の道が街道だったんですね。それで実際に高札場が建てられていたのは、ここもう少し行った右手のよう。
ここまでしっかり必要事項を書いてくれてありがとうという感じです。もちろんキリシタン禁制は有り難くないですけどね。
この町に住んでいた転びキリシタンたちは、この高札を見るたび辛い気持ちになったのだろうと思います。
山へ
街道沿いに少し山にも行ってみました。昔の峠道というのを少し見たくて。
今は近くに高速道路が通って、この道を使うのはハイカーくらいかもしれませんが、山を越えるには最適なルートだったことはわかります。
石造物
峠の登りきった所には石造物。庚申塔かなぁ。
慰霊碑のようなものかもしれません。
昔は旅先で亡くなってしまう人も多かったろうから。
江戸送りになったキリシタンたちは、松代からどの道を通って江戸へ向かったんでしょう。この道を通ったかはわからないけど、このような道を歩んで行ったんだろうなと思いました。寂しいものですね、人気(ひとけ)のない山道というのは。
満照寺
松代を後にして、次は千曲市にある満照寺へ。大きなお寺ですね。山門の新しさが目を引きます。
実はこちらにもキリシタンの寺内禰次右衛門という人が葬られたとあるので来てみたのですが、痕跡はナッシングです。
キリシタンは直系の子孫も絶えてしまうことが多くて、お墓が残っていることなど稀。それでも一人の人がいたんだということを、足跡だけでも辿ってみたくて来ました。何も残ってないことも一つの答えなのかもしれません。彼らの置かれた位置がそのようなものだったということを示す。
水野源三さんをたずねて
日本基督教団 坂城栄光教会
では!一旦キリシタンから離れて、今度は私の好きなクリスチャン詩人の姿を追ってみましょう。その名は水野源三さん。
こちらは水野源三さんの母教会のはずなんですが・・・、ちょっと建物が新しいのが気になりますね (^▽^;)
建て替えたのかなぁ。。すみませーん!
声をかけて中に入っていくと、若めの牧師先生が。教会の中には水野源三さんコーナーがありました。どうやらここで間違いないようです。
牧師さんに話をうかがうと、元々教会は別の所にあって、郊外にあるこちらに土地を購入して引っ越したのだとか。源三さんのことを知りたくて来たと話すと、「それでは詳しい方に聞きに行きましょう」と。相手の方に連絡して連れて行ってくださるとのこと。え、いいんですか?ありがとうございます<(_
_)>
 坂城栄光教会 |

我らの国籍は天にあり |

教会内 |

新しい・・・ |
水野源三詩碑
その方のお宅に行く前に寄ってくださったのが、こちらの詩碑。
左側の碑に水野源三さんの詩が刻まれています。
水野源三さんは「瞬きの詩人」と言われます。
幼い時に高熱を出して脳性麻痺となり、目と耳以外の機能を失ったのですが、瞬きをすることで母親とコミュニケーションを取り、信仰に裏付けられた瑞々しい詩を生涯に渡り作り続けました。同じく病床にあった三浦綾子がこの源三のファンで、源三も彼女のファンだったのですが、お互い病気のため会うことはできませんでした。碑になっていたのはこちらの詩。
今日一日も
新聞のにおいに朝を感じ
冷たい水のうまさに夏を感じ
風鈴の音の涼しさに夕ぐれを感じ
かえるの声はっきりして夜を感じ
今日一日も終りぬ
一つの事一つの事に
神さまの恵みと愛を感じて
牧師のお嬢さんのお宅ですって!?
牧師先生が連れて行ってくださったのは、源三さんを導いた宮尾隆邦牧師のお嬢さんの家。最初はそうとは知らず、生前の源三さんの様子をうかがっていたのですが、聞けば聞くほど「もしかして・・・」。確認してみたらそうでした。なるほど、源三さんとよく接し、どんな人柄だったかを一番よく知っていて、いま語ることができるのは、牧師先生の娘さんということですね。
私が行きたく思っていた当時の教会とは、今まさにいるこの場所が敷地だったとか。そうですよね、牧師先生の家だから。あ、段々理解ができて興奮してきた。源三さんの様子を聞けることも恵み深いんですが、個人的に知りたいことがあって、それが解かれていっているなと感じたから。
源三さんに洗礼を施した宮尾牧師という人も、病を得て人生を深く考えて伝道者になった方で、足跡を追いたくなるような人物。艱難辛苦を経ながら情熱的に活動していたことを本で読んだことがあり、すごいなと思っていました。
私が気になっていたこと・・・
だけど私が唯一気にかかっていたのが、「こんなふうに伝道活動してたら、家族は大変だったろうな。特に子供たちは・・・」ということ。本には宮尾牧師の娘さんも出てきて、キリスト教に理解のない人たちの中で一緒に苦労している様子が書いてあったので、こういう子たち(今で言うPK=パスターキッズ)には、大人とは違う大変さがあるはずだと、心配していたのです。
だけど今目の前で語ってくれているこの人は、何とキラキラと恵みに溢れて源三さんと父である宮尾牧師のことを語ってくれていることでしょうか。うん、これ答え!私にとっての、
神様からのオーダーメイドの答えです。
良かったのだと、あのように情熱的に伝道した宮尾牧師も、源三さんも、そしてご家族たちも――、そう胸にストンと落ちました。感謝です、この答えもらった感に。
 水野源三詩碑 |

背面 |
水野源三墓所
お嬢さんが「皆で源三さんのお墓参りに行きましょう、ねっ、牧師先生」と、今の牧師先生をうまく持ち上げながら勧めてくれたおかげで、皆で源三さんの墓所へ行くことに。
自分たちで回っていたらここには来られなかったことでしょう。ああ、感動。牧師先生と(本で読んでた)お嬢さんと、私たちとでお祈りもできるなんて。源三さん、ありがとう。
墓碑には復活の聖句が書かれていました。「甦みがえり」という言葉がとても実感を伴って感じられました。永遠の命に入るとは大きな希望ですね。希望を抱いていたからこそ、光のある詩を書けたのだと思います。
「悲しみよ」
悲しみよ悲しみよ
本当にありがとう
お前が来なかったら
つよくなかったら
私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ
お前が私を
この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとに
つれて来てくれたのだ
源三さんは一度も賛美歌を歌うことはできなかったけれど、詩を通して、いえ心そのもので、いつも賛美していたんだと思います。私もそうなりたいです。

水野源三墓所 |
月
一日を終えて、月を見上げます。今日も感謝でした。旅に出ることは、何かを直接体験させてもらう機会ですね。
ネットを検索すれば全てがわかるかのように思いがちですが、そうではないことが感じられます。世界はほんとに広くて、深いなと。
お月様、おやすみなさい...(つ∀-)
時を逃すと大変なことに
古今東西「時」に関する箴言・教訓は多いけれど、それを知っててもなかなか生かせなかったりします、私の場合(汗)。
「時」の意味としては、「時間」と「機会」とがありますが、今日取り上げたいのは、「機会」としての「時」。「時」を逃すと、ずーっとできないで過ぎてしまいます。思いついた時、やろうと思った瞬間にすぐやってしまえばいいものを、ちょっと後回しにしているうちにあっという間に一年二年・・・。
こんなこと言っているのは、この旅行記を書くのにそうだったからですね。ほんと、ちょっと「時」を逃しただけでトホホ。これを繰り返してたら人生までトホホになってしまいます。
それでも今日一つ旅行記も書いて、何かを返せた感じです。逃したとしても諦めないで、次の「時」でも掴めるようにしていこうと思います٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
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