旧三笠ホテル
そろそろ軽井沢を発たなければなりません。少し立ち寄ってみたのは、国登録重要文化財の旧三笠ホテル。
政財界の要人・文人に愛され「軽井沢の鹿鳴館」と言われた木造純西洋式ホテルで、時間があったら見学したいところですが、今日は我慢の子。
見逃しも多いので、再訪を期すことにしましょうかね(このパターン多いなぁ。汗)
しかし本当に見たかったのは旧三笠ホテルではなく、有島武郎終焉の地で、そこがホテルの近くだと聞いたから。三笠ホテルの創立者 山本直良の夫人は有島武郎の妹で、三笠ホテルが白樺派のサロンとして利用されていたこともありました。また英国から取り寄せたすべての洋食器には、武郎の弟で画家の有島生馬が絵付けを行ったそう。
有島武郎のこと
だからたぶんホテルの離れみたいな所で心中したのかなと思ったんですけどね。でもよく考えると、ホテルの管理下にあったなら、遺体が一か月以上も経ってから発見されるなんてことなかったかも。・・・ここまで書いたら、もう少しちゃんと有島武郎のこと書いておくべきですかね。後味いい話じゃないけど。
有島武郎は内村鑑三に師事してキリスト教に入信したクリスチャンで、札幌農学校時代は新渡戸稲造の家に寄寓して学校に通っていたので、メリー夫人からも大変可愛がられて学生時代を過ごしました。卒業後に留学先としてハバフォードを選んだのも、新渡戸の勧めがあったから。

ハバフォード大学大学院、そしてハーバード大学で学び、更にヨーロッパにも渡ってニーチェなどの西洋哲学の影響を受け、1907年帰国。この頃から信仰への疑問を持ち、徐々に信仰から離れていくようになりました。1916年に妻と父を亡くしましたが、「カインの末裔」「生まれ出づる悩み」を書き、1919年には「或る女」を発表。作家として隆盛期に至りました。
不倫と心中
しかし1923年、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と知り合って恋愛関係になり、秋子の夫から脅迫を受けて苦しむこととなりました。そしてその年の6月9日、二人は軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死心中を遂げました。子供、三人もいたんですけどね。印税を残して、母や子供を頼むと兄に頼んで逝きました。
遺書には「永い永い思い出のみ残る。今朝は有難う。兄の熱烈なる諌止にもかかわらず私達は行く。僕はこの挙を少しも悔いずただ十全の満足の中にある」とありますが、どうでしょう。遺書の結びの言葉にも共感できません。「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此の瞬間まで思わなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」――。

今改めて調べてみたら、武郎が自殺した別荘 浄月庵は、別の場所に移築されて記念館になっているようです。いつか行ってみようかな。こちらは何となく「再訪を期す」とは言いにくいんだけど。