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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 東のSAKURA!①


今回の旅は、「千葉県内でどこか案内してほしい」と言われて始まりました。私は観光ガイドではないんですけど、頼まれると引き受けたくなるタチで。

どこに行くか考えたのですが、条件に合う所がなかなか見つからず、「とりあえず佐倉はどうですか?」とこちらから提案して実現するようになりました。歴史を感じてもらえるといいな。行って参ります (^▽^)/




京成佐倉駅で待ち合わせて


皆を引率する前に、まずは下見をしようということで、本日は女性3人でめぐります。

待ち合わせは京成電鉄の佐倉駅。ここから歩いて回れる範囲にいろいろあるといいんですけど、都会でもないし、観光地でもないので、史跡がぎゅっと集まっているというのは無理。

どうしようかなー、どんな話をするといいかなー?、皆歩いてくれるかなぁと考えながらテクテク。車通りは多いですね。



佐倉高等学校


駅から10分ほどで佐倉高校に到着。

佐倉高校は、1792(寛政4)年に佐倉藩主の堀田正順(ほった・まさなり)が設けた「学問所」から始まる名門校。

今でも偏差値高い難関校みたいです。

こちらは国登録有形文化財の佐倉高等学校記念館。趣があり可愛らしい感じもするので、ドラマ撮影に使われたりもしています。これはSNS映えしそう♪



正門

構内

有形文化財

佐倉高等学校記念館

鹿山文庫


構内にある、こちらが鹿山文庫が収蔵されている地域交流施設。鹿山文庫とは、佐倉高校が管理する典籍群のことで、佐倉藩が学究のため収集してきたもの。

ハルマ和解やヘボンさんの和英語林集成は必見です。今回のメインになるのではないかと思うので、しっかりチェックしておきましょう☆


地域交流施設

鹿山文庫関係資料

構内案内図

展示室


展示室は大きめのものが一つ。ぐるっと回れば佐倉藩の概観がつかめるのですが、フォーカスが当たっているのは、堀田正順と正睦(まさよし)ですね。

英明な藩主として、この2人は是非覚えておきたいところ。正順は学問所を開設した人で、正睦はアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと日米修好通商条約に関する交渉を行った人です。

多くの典籍によって蘭学研究を進め、医学などの分野に人を輩出したことから、「西の長崎、東の佐倉」と言われるほどだったと解説パネルに書かれていました。「西の長崎、東の佐倉」、これキーワードですね。



藩校「成徳書院」

西の長崎、東の佐倉

扁額

孔子像

堀田正睦


こちらの貴族っぽい装束の御仁が堀田正睦さん。佐倉では「公」を付けて呼ばないといけなさそうなくらい尊敬されています。

実は私も尊敬しています。ハリスと一緒に日米修好通商条約の内容を練り上げたのはこの人で、この条約の第8条に盛り込まれたのが、居留地内での外国人の信教の自由だったのですから(詳しくは手前味噌ですがコチラに書いております⇒おたあジュリアの横顔 vol.3)。

残念ながら、正睦のときにはこの条約は孝明天皇から条約調印の勅許を得られず、正睦を失脚させた井伊直弼が勅許を得ずに調印します。でもその後井伊直弼が桜田門外の変で討たれたことは周知のとおり。この辺の事情を鑑みると、何か考えさせられるものがあります。

正睦は蟄居させられたまま、佐倉城で55年の生涯を終えたのですが、成そうとしたことを実質的には果たして、畳の上で死ねたのだから不幸ではなかったのかと思います。

功績もあると思うんですよね。居留地内での外国人の信教の自由が認められたからこそ、日本に天主堂が建てられて、そこに潜伏キリシタンがやって来て、信徒復活したのですから。世界遺産になったんだよー。正睦、聞いてる~?



堀田正睦

堀田三代の小説


家系図

ヘボンさんっ!


鹿山文庫に来たら、ヘボンさんの和英語林集成も見逃せません。

日本で最初の和英辞書で、宣教医のヘボンが作成しました。

この第三版から使われたのが、今もスタンダードになっているヘボン式ローマ字。アメリカ人が作ったものだからと、戦時中には日本人が考案した訓令式ローマ字が使われたりしましたが、やっぱりヘボン式が優るということで、今では訓令式使う人ほぼいないかと。

日本語をローマ字で表すことによって、外国人が日本語を発音し理解することができるようになり、日本人との言葉のやり取りが可能になりました。その基盤があったからこそ、明治期の日本が大きく文明開化していくのです。

またヘボンさんは辞書の次に和訳聖書を手掛け、新旧約聖書を完訳しました。日本人が聖書を読めるようになった!――それは心の文明開化が始まったと言っても過言ではないでしょう(ヘボンさんの話をすると熱くなるのでこの辺で...)。こちらに展示されているのは1872年の第一版。高札撤去の前年ですね。著者名が「平文」(ヘボンを漢字に当てた名前)となっててクスッとなります (^^♪



和英語林集成

東郷平八郎の書

ハルマ和解

成徳書院


 次は佐倉順天堂記念館


佐倉順天堂記念館


ツアー当日はやっぱヘボンさんを語るべしと思って外へ。またもや15分ほどテクテク歩いて佐倉順天堂記念館にやって来ました。

堀田正睦は「蘭癖」(らんぺき。蘭学に傾倒している人)と呼ばれたほど蘭学を大切にした人で、それが実って「西の長崎、東の佐倉」という一時代を築きました。

中でも、佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせたことは、その「蘭癖」の最たる例で、英明な藩主であったことを示す功績ではないかと思います。入館料は100円。入ってみましょー。



佐倉順天堂記念館

解説板

解説板

佐倉順天堂記念館

解説パネル


展示されているのは、当時の順天堂で用いられていた医学書や医療器具(見るからに痛そう;;)類。そこに解説パネルが添えられています。

ボランティアガイドさんが親切にあれこれ教えてくれるので、自分たちの興味ある分野を聞けていいです。

私が初めて知ったのは、佐藤泰然の息子に松本良順と林董(ただす)がいたこと。息子は跡取りとなった佐藤尚中(たかなか)だけかと思っていました。ん?息子がいるにも関わらず、尚中は養嗣子ですね。なぜだろう・・・?

っていうか、泰然の息子たち、皆めちゃくちゃ優秀じゃないですか。松本良順は医者で大磯に記念碑建ってるし、林董はヘボン塾の出身。ヘボン夫妻にとても可愛がられた子供でした。長じては五稜郭に立て籠もって戦い、赦されて岩倉使節団に加わり、外務大臣などを歴任してと、すごいキャリアを積んで伯爵になるんですけど。注目すべきはヘボン夫妻との温かい関係性です。佐藤泰然の息子だったんだー。


尚中の娘は女子美の第二代校長


佐藤尚中の子供たちもすごくて、娘の一人 佐藤志津は女子美の第二代校長さん。女子美は横井小楠の息子と結婚した横井玉子(クリスチャン)が創立者なのですが、玉子は体が弱く経営も行き詰まってしまったため志津に支援を要請し、志を貴く思った志津は経営再建に奔走。玉子の死後、初代校長 藤田文蔵から校長職を引き継いだ志津は、自ら教壇に立ち、学校経営を軌道に乗せました。

女子美は現在相模大野からバスで随分と行った所にキャンパスがあるけど、当初は本郷辺りにあったんですよね。そして創立者はクリスチャン。キリスト教主義校ではないけれど。そういう学校いくつかあります。女性が活躍したという点でポイント高いです。明治の自立した女性たち、ほんと素晴らしいです。

人のつながりでいろいろ広がっていくのが面白いですね。佐倉にはその出発点があるような。そうそう、佐藤志津は堀田正睦の娘 松姫付きの侍女をしていたことがありますね。その時に学んだ作法や教養が女子教育の現場でも役立ったことでしょう。うん、面白い (*^-^*)



松本良順

佐藤泰然銅像

佐倉順天堂の礎石

解説板

お昼は老舗そば屋


佐倉で老舗そば屋と言えば、川瀬屋!だそうです。老舗だけどリーズナブルで、ゆっくりできる店内も魅力。老舗だということに胡坐をかいてないんだなと思いました。

今日も暑いけれど(34℃)、もっと季節が進むツアー当日は36℃かそれ以上かと。冷たいお蕎麦でブレイクしないと、絶対にもたないですね。途中にちょうどいいお店があって良かった♪


川瀬屋

三谷家住宅

三谷家住宅

蔵のある町

共同井戸


昔は街道だったんだろうなという道を行くと、共同井戸が。昔は井戸を中心に人々の生活が営まれていたんだろうと思うと、愛おしく見えます。

水道が各戸に引かれた時代に生まれて、水確保の苦労を知らないけれど、昔は普通に生活するにもいろんな家事があって大変だったんでしょうね。

文明が発達して家事が減り、時間ができたお陰で史跡めぐりもできてる。ありがたやです。



共同井戸

民家

佐倉市立美術館

土蔵

佐倉養生所跡


街道独特の曲がり方をしている道を行くと、佐倉養生所跡の碑が。

佐倉養生所は、1867(慶応3)年に佐倉順天堂二代目堂主 佐藤尚中らが中心となって設立した藩営の西洋式病院。ここに西洋式病院があったなんて、驚きです。

しかも領民の診察や調薬が無料で、入院もでき、その費用も無料だったとか。すごいな佐倉藩。



佐倉養生所跡

向かいは麻賀多神社

解説板

西村勝三の銅像

成徳書院跡


またしばらく進むと、市立体育館駐車場の角に成徳書院と集成学校の碑が。

佐倉藩の藩校は、佐倉高校で見た通り、寛政年代に創立された佐倉学問所に遡りますが、1836(天保7)年に現在佐倉市立体育館がある場所に新しい建物が完成して「佐倉成徳書院」と改称されました。

行ったのは堀田正睦。城下の大手門に近い道筋に、藩校や病院が集められていたんですね。知の中心地だったことがうかがえます。今は体育館があって、周辺は若干閑散としてますがね。お店もなくて。今は大きな道路が通っている方に生活圏が移ったんでしょうか。



成徳書院跡

集成学校の碑

成徳書院の碑

大手門跡


すぐそばに大手門跡の石碑と解説板がありました。でもその先は緑の空き地。この辺は観光開発してないもようです。

何かの本で津田仙の屋敷が大手門の向かい辺りにあったと書かれていたので、それはどこだろうと思いながら来たんですけどね。

うーん、どこだろう?佐倉中学の辺りかな。大体誰のどんな本にそれが書かれていたのかも忘れてしまっているので、曖昧なことこの上なく。

大雑把で申し訳ないですが、それでもこの辺りに農学者 津田仙と女子教育の先駆け津田梅子(共にクリスチャン)が住んでおり、この道を行き来していただろうことは確かです。彼らも近代日本の基盤を作っていった人たちですよね☆



解説板

石碑

佐倉中学校

佐倉東高校


 佐倉城址公園✨


佐倉城址公園


大手門跡から進むこと数分、 佐倉城址公園へと入城しました。土塁や空堀が緑に覆われていい感じの丘陵となっています。

大手門から城内へも結構ありましたが、城内は更に広くてびっくり。もちろんお殿様たちだけが住んでいたのではなく、藩の行政機関も曲輪に配されていたんでしょうけど。

歩いて横断するのはかなり骨だなと感じました。ツアーの時はどうしよう?皆歩いてくれるかな。



城内図

空堀解説板

空堀

堀田正睦とハリス


この2体の像は必見! 本丸へ続く道の両脇に立っているのは堀田正睦とハリスです。

「信徒発見」につながるきっかけとなった日米修好通商条約の立役者2人組です。

開国に関してはハリスよりもペリーが、条約に関しては堀田正睦よりは井伊直弼が有名ですが、実際の草稿を練り上げたのはこの2人。佐倉ではそれを分かって2人の像を並べてくれていて、私としては溜飲が下がる思いです。

「いい風景だな~」と思っちゃう。あまり知られてなくても、大きな働きをしている人って、いますよね。そういう人にスポットが当たるとき、うれしかったり。まあ、私の場合はそういう陰徳を積むことをまずしなければなりませんが (;^_^A



タウンゼント・ハリス

解説板

堀田正睦

解説板

佐倉城の礎石


こちらのゴロゴロと放置されている石は、最初に佐倉城が築かれたときの礎石。築城者は土井利勝でした。

土井利勝は、幕府の老中を務め、絶大な権勢を誇った人物。佐倉藩の後は、古河藩へ初代藩主として赴きました。

家康から家光まで三代の信頼は厚く、大名家の改易などの国内政策、対外的な鎖国政策・キリシタン弾圧など、全ての重要政策に関わっています。


土井利勝とキリシタン


土井利勝は古河藩でキリシタンが処刑されたときの藩主なので、それで墓を見に行ったことがあります。古河では1630(寛永7)年に棄教しなかったキリシタン95人が処刑されています。処刑は見せしめのために、人通りの多い街道筋で行われましたが、この数が、見せしめにしては(見せしめにしても?)多すぎるんですよね。

見せしめのために江戸や京都、長崎でも一度に多くのキリシタンが処刑され、これを「大殉教」と呼んでいるのですが、人数はどれも50人前後です。それと比べても、古河のキリシタン処刑は「大殉教」としてもっと知られてもいいかと思います。茨城県民は驚くかもしれませんが、それくらいキリシタンに苛烈な処断を行ったことを知る方が、正しく歴史を学ぶのに役立ちますよね。

いくら老中で幕府の権威を示す立場にあったとしても、その裁量でいくらかのことはできたと考えられます。権力を持ったとき、その人がどうするかを見れば、その人となりが分かると言うんですが、土井利勝はキリシタンに憐憫を示さなかったようです。

礎石を見ながらこんなこと考える人いないでしょうけどね。でも、だからこそ考えてみるのがいいのかもしれません。歴史は今を見る鏡にもなるもので、今だってそういう現象がきっと起こっているのでしょうから。



礎石解説板

佐倉陸軍病院跡

位置図

二の門跡

広い本丸跡


本丸跡はだだっ広い芝生公園に。ここに、2段の土塁に片側を掛ける造りで、本丸側から見ると4階建に見える天守が設けられていたそうです。

あまりにも何もなくて、実感が湧きません。お天気も良くて、フリスビーでもしたいなとしか浮かんでこなくて。

土塁に上って銅櫓跡に来ましたが、こちらにも遺構らしきものはなく。


江戸城から来た銅櫓


でも銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領したもので、江戸城から移築されたものと書かれていました。元々造ったのは太田道灌だとか。えらく歴史あるものを拝領したことですね。

一旦土井利勝に目が行ったら、その関係の情報がよく入ってきます。江戸城から移築する意味は、どこにあったんだろう?権威かな。それとも信認を得ているというお墨付き?

江戸城の櫓を持ってくることで、それくらい幕府中枢と関係性が密であり、江戸城の出先機関同様の立場であることを誇示しようとしたのかもしれませんね。遺構や史跡はただそこに過去の欠片があるだけですが、いろんなことを語ってくれる気がします。



本丸天守について

土塁

銅櫓解説板

銅櫓跡

国立歴史民俗博物館


広い城内を北へ抜けると、国立歴史民俗博物館が見えてきます。これくらい歩けば半日散歩は終了でしょうね。あとはバスに乗って出発地に戻るだけ。

館内のカフェにどんなメニューがあるかをチェックして、今日の下見は終了です。お疲れさまでした。当日も晴れて、それでいて・・・ちょっと涼しいといいな♪(無理?




多様な「答え」


人を評価する上での「答え」は、数学の公式のように一つではないようです。

例えばきれいで美しい人も、ある時はきれいに見えないで、普通に見えたり。これは状況によっていろいろな「答え」があるから。化粧のせいだったり、その時の顔つきのせいだったり、あるいは心配、悩みで顔が曇っているからだったりして。

また、見る人がその人の本質を見通して、美醜を見分けるときもあるでしょう。それから、何を美しいと認識するかによっても、違って見えることでしょう。つまり「答え」は多様であるということです。

歴史を見ていくときにも、同じようなことが起こります。私の認識観によって美しく見えたり、本質が見えて醜く見えたり。でも肝心なことは多様な「答え」があるということ。今の自分にそう見えるからといって、それが正しいとばかり思ってはいけないんですよね。

自意識を持って生きる限り、自分の水準で判断することは免れ得ないけれど、謙虚でなければいけないなと思っております。ああ、佐倉。この町のことを、ツアーで私はどんな風に人に話してしまうんだろう。

多様な「答え」の一つでしかない自分の考えを、出来るだけ透明に伝えたいと思います。頼まれると引き受けてしまうタチですが、意外と難しいことなんじゃん?と気付く帰り道なのでした ( ̄▽ ̄;)汗





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