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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 東のSAKURA!番外編


柏で行われるライブに行くことになったので、ついでと言ってはなんですが、以前から柏でめぐりたかった所へ参ります。柏は八木重吉が最も多くの創作をした街なのです。「東のSAKURA!」ではないけれど、番外編として「Kashiwaで重吉!」行って来ます♪



柏神社


迷子にならぬよう、まずはキーになる史跡地へ。柏神社にやって来ました。この近くに、兵庫の御影から引っ越して来た重吉一家が最初に住んでいました。

小さな子供たちを連れて、重吉もここに来たことがあったのではないでしょうか。当時の柏は今のような開発はされておらず、自然そのものの光景が広がっていました。

この街で生活していくのだなと、若い夫婦は新鮮な希望を抱いていたことでしょう。それでは八木重吉の詩から一つ・・・。


「金魚」

桃子は
金魚のことを
「ちん とん」といふ
ほんものの金魚より
もっと金魚らしくいふ




柏神社

境内

周辺地図

八木重吉仮居跡


柏神社から道を一本隔てた辺りが、重吉一家が仮居した場所。現在はうどん屋さんが盛業中です。

教職員住宅に移るまでのわずかな期間でしたが、この地の暮らしに慣れるのに役立ったのではないかと。

八木重吉の生涯はたった29年と8か月という短いものでしたが、死ぬまでの5年間に3000もの詩を残しました。

素朴だけれど純粋で、非凡な光を放つ重吉の詩は今もファンが多く、私もその一人。特に信仰的なものと内省的なもの、そして家族をうたったものに心が惹かれます。少し生涯を振り返ってみましょうか☆


八木重吉と柏


八木重吉は、1898(明治31)年2月9日、今の町田市相原に生を享けました。長じて鎌倉にあった神奈川県師範学校に入学し、鎌倉時代から教会に通い始めました。洗礼を受けたのは1919(大正8)年のこと。この頃は東京高等師範学校の英語科で勉強していました。在学中の1921(大正10)年に将来の妻になる島田とみと出会い、この頃から詩作も始めます。

卒業後は兵庫県の御影師範学校(現在の神戸大学)で教鞭を取り、1925(大正15)年から千葉の東葛飾中学校(現在の千葉県立東葛飾高等学校)で英語教員を務めました。初の詩集「秋の瞳」を発表するのはこの頃なのですが、翌年体調を崩し、それが結核のためだと判明しました。

そこで1年ほどの柏での生活を後にし、茅ケ崎の南湖院で療養を余儀なくされ、死期を悟った重吉は最後のときを家族を呼び寄せて同居しました。その自宅療養中に第2詩集「貧しき信徒」を制作していましたが、完成を待たずして亡くなりました。重吉の詩が読む人の心を打つのは、その短い生の一日一日を切実な思いで生きたからなのかもしれません。



八木重吉仮居跡

八木重吉仮居跡

東葛飾高校


では重吉が教員をしていた東葛飾高等学校へ。

重吉の時代は旧制中学校で、そのとき使われたいた玄関がモニュメントとして残されています。

それが左の写真。大通りに面した通用門から脇の道へ進むと、外からも見ることができます。



「草にすわる」

わたしの まちがひだった
わたしのまちがひだった
こうして 草にすわれば それがわかる





通用門

構内

東葛飾高校

詩碑「原っぱ」


道幅の広い6号線に戻って塀に沿って進むと、重吉の詩碑「原っぱ」が、解説板とともに置かれています。

丸っこい重吉の文字のまま碑にしてあるのが素晴らしいです。彼の字と絵は独特の味わいがあるので。

重吉が赴任して来た頃の柏は、東葛飾郡千代田村柏であり、江戸時代の軍馬養成の名残りの残る「小金牧」「小金ヶ原」と呼ばれた広い野原。林や森の中に田畑が点在するという景観で、簡単に言うと寒村でした。正に「原っぱ」ですね。

そこに1923(大正13)年に東葛飾中学が創設されるようになり、翌年モダンな新校舎が完成すると、学校近辺は一気に賑わうようになりました。それでも今とは大違いでしょうけれど。何となくですが、「原っぱ」時代を想像できるような気がします。

重吉は柏の野の自然を愛して、娘の桃子を連れたり、息子の陽二をおぶった妻を伴ったりして、野原のあちこちを散歩しました。その頃の詩を読むと、自然万物を呼びながら、その先に神さまを呼んでいるように感じます。これは重吉の中心テーマだったのではないかと思います (*´ω`)



「原っぱ」

ずいぶん
ひろい原っぱだ
いっぽんのみちを
むしょうにあるいてゆくと
こころが
うつくしくなって
ひとりごとをいうのがうれしくなる





詩碑「原っぱ」

解説板

外から

東葛飾高校

東葛飾高校正門


正門は大通りとは反対側に。かなり静かな佇まいですが、こちらに立っている松が創設当初からのものだということで、見に来ました。

この木立を重吉も歩いたのでしょうか。重吉一家が暮らした家はこちら側から近いので、通勤時に通ったのは正門だったかと思います。

家族団らんの幸せを満喫し、詩作もピークを迎えていた重吉ですが、死に至る病を得たのも、柏時代のことでした。当時結核は、栄養を摂って休むことが肝要だとされていたので、重吉は学校を去らなければならなくなりました。


八木重吉と再臨論


最後の授業の締めくくりに言ったのは、「我はキリストの再来を信ず」のひと言。教師が生徒に贈る言葉としてはちょっと不適切な気もしますが、当時重吉は詩作のピークと同時に信仰的な高揚期を迎えていて、その根幹を成していたのが「キリスト再来」への思いでした。一番言いたい言葉、言い残したい言葉を贈ったということだったのかと思います。

これは内村鑑三の唱えた再臨論から影響を受けてのものでしたが、多くの再臨論者が説を引っ込める中、重吉は堅固にその思いを抱き続けました。ただし、他の再臨論者は「いつどこに再臨する」などと言っていた(人によっては日本に再臨するとか言って耳目を集めていた)のに対し、重吉はそういう憶測は口にしませんでした。ただ待っていたし、ただ信じていたんでしょうね。

そのひと言を言って教壇を静かに下りた重吉は、恐らくこの門を通って去って行き、二度と戻ることはありませんでした。


秋はあかるくなりきった」


 この明るさの奥に
 しずかな響があるようにおもわれる





正門

正門と松

八木重吉住居跡


重吉一家が暮らした教職員住宅は大体この辺り・・・なんですが、家屋が立ち並んでいてどこだか分かりませんね。

当時の共同井戸がどこかのお宅に現存しているみたいですが、本やネットでは名前とか公表されてないので、現時点ではこれ以上は知る術がなく。

でもこの辺りだというだけでも十分です。当時は家の前に3万坪の野原が広がっていたというから、もしここに重吉が来たとしても、あまりに変っていて自分の住んでいた場所を示せないかも。

ただこんなに住宅が建っていても、だだっ広い野原だった様子を思い描くことができるから不思議ですね、柏って。いや、今も田舎っぽいとか、そういうことを言うつもりは全然ないんですけど (^▽^;)



「冬日(ふゆび)」

冬の日はうすいけれど
明るく
涙も出なくなってしまった私をいたわってくれる






重吉が住んでいた辺り

重吉が住んでいた辺り

重吉が住んでいた辺り

重吉が住んでいた辺り

柏第一宣教バプテスト教会


こちらにも寄ってみました。外観だけですが、柏第一宣教バプテスト教会へ。ここの牧師先生が、八木重吉の顕彰活動をしていて、ゆかりの地を整理してくれています。

「八木重吉の詩を愛好する会」という団体があり、先ほどの詩碑「原っぱ」も、この会が詩碑建立委員会を組織して実現したものなのです。

「八木重吉の詩を愛好する会」のサイトには八木重吉に関する情報がたくさん載っているので、興味のある方は是非のぞいてみてください☆



「なかよくしよう」

 花がちる
 花がさいた
 きれいな そら
 みんな そら





柏第一宣教バプテスト教会

柏グローリーチャペル


時間に間に合って、ライブの行われる柏グローリーチャペルに到着。女子大生のボーカルユニットちるうたが出演します。

様々なゴスペル歌手やグループを招いて、定期的にライブを行っているようですね。教会の一階部分がカフェになっているのが、素敵なアイデアだなと思いました。

地域の人たちとの交流も図れることでしょう♪



「桜」

綺麗な桜の花をみていると
そのひとすじの気持ちにうたれる




柏グローリーチャペル
一階はカフェ

ゴスペルカフェ


ケーキと飲み物を選んで、ゴスペルを堪能。ちょっと遠くまで来ましたが、その価値あったなという感じです。重吉めぐりもできたし。

重吉が聖書を読み祈り、詩を書いて神さまを思っていた柏に来て、ただ帰るのでは味気なかったと思うので、教会に来られて良かったです。


柏福音キリスト教会


帰り道には柏福音キリスト教会の前を通りかかりました。新しいですね。車のナビでは他にも教会マークが示されていました。

人口が多いからというのが第一の理由だとしても、第二か第三の理由としては、先人の祈りが挙げられるのではないかと思います。

重吉の素朴な詩が、ずっと頭の中に明滅していたような一日でした☆彡




信仰と神頼み


八木重吉の詩にこういうものがあります。

「祈り」

ゆき慣れた路の
なつかしくて耐えられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい



普通のときならばこの心境を理解できますが、重吉が幼い子供を残してこの世を去らなければならなかったことを思うと、このような詩の入った詩集を簡単には出せなかっただろうと思います。このことから、重吉が持っていたのは信仰であって、神頼みではなかったということが分かります。

神頼みならば良い事だけを願い、叶わなかったならば諦めるのでしょうけれど、信仰は違います。神に最善を願いつつ、それが自分の思い通りにならなかったとしても、意味があるだろうと信じて受け入れるのが信仰です。

神頼みをする人は多くても、信仰を持つ人は少ないように思います。だから理不尽な不幸に見舞われると、人は「どうしてこんなことを神は自分に課すのか」と文句を言ったり、神を否定することが多いのです。

だけれどこの信仰にこそ、救いがあることも確か。温かいタッチの詩画集で知られる星野富弘氏は、八木重吉の詩に励まされ、生きる勇気と喜びと安らぎをもらったと語っています。群馬の富弘美術館には星野氏が口でペンをくわえて書いた「金魚」が飾られていました。ええ、あの「ちん とん」です♪

私は何不自由なく暮らさせてもらっていますが、それでもどうせ持つなら信仰を、と思います。とっても僭越な言い方かもしれませんが・・・。信仰の強さを持って、私も祈りのみちをつくりたいと思います (#^^#)




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