本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > エヴァーグリーンの杜 chap.5   スマホ版は⇒コチラ

 エヴァーグリーンの杜 chap.5



今日は帰るまでの時間だけお散歩を。15時くらいまでしかいられないので、コンパクトに。仙台と言えば伊達政宗とずんだ餅、そして大橋のたもとのキリシタン殉教碑でしょうか(ワタシ的には)。暑いけど歩くぞー(≧◇≦)ヨッシャー



瑞鳳殿へ


まずは伊達政宗が眠る瑞鳳殿へ向かいましょう。仙台駅からるーぷる仙台バスに乗り、「瑞鳳殿前」で下車。車内は平日なのに混んでて、観光都市としての仙台人気を感じます。

しかしバス停「瑞鳳殿前」というのが曲者で、ここから緩い坂道、続いて急傾斜の坂道が続き、入場口はどこだーい?という感じ。


鹿児島県人七士の墓


坂の途中、左手に墓があると思ったら、鹿児島県人七士の墓でした。西南戦争に従軍し、敗れた後宮城県の監獄に収容された人たちが305人もいたんですね。

獄中で没した13人のうち、引き取られていない7人の墓が今も残っているそうです。知らないこと多いなぁと思ってしまう。


鹿児島県人七士の墓

正宗山 瑞鳳寺


瑞鳳殿を目指していたら、その手前に瑞鳳寺がありました。見学順路といった感じでしょうか。

二代藩主の伊達忠宗が、藩祖政宗の菩提を弔うために建立した寺だとか。

詳しくは解説板に譲るとして、緑陰で少しクールダウンさせてもらいましょうかね☆


解説板

鐘楼

解説板


花塚

高尾門

高尾門解説板

境内案内図

石段が続く


坂を登り切ったと思ったら、今度は石段。足の悪い人は無理かもしれないですね。

約70段あるのは、伊達藩の石高に合わせたとも言われています。前を歩いている人が遠い。。

さて境内に入ったことですし、ここで伊達政宗とキリシタンの関係をまとめておきましょうかね。

政宗が一時期キリシタンに好意的に便宜を図り、「(自分も)キリシタンになってもよいと考えている」と書状に認めていることは確かですが、私は「伊達政宗キリシタン説」を唱える人には与しません。うちの近所の地方自治体の美術館では「伊達政宗はキリシタン大名だった」と解説に書いて、政宗の絵を展示してるんですけどね(嘆くわ。定説になってもないのに;;)

キリシタンと関わりがあったからと、その人物までキリシタンだったと考えてしまう人は少なくなく、誤解と混乱を引き起こしています。何でもフリーメイソンなどと結びつけてしまう陰謀論者のように、誰でもキリシタンに仕立ててしまう「皆キリシタン論者」。一つの方向からしか見ないからそういうことが起こるんだと思うんですけど。



伊達政宗とキリシタン


記録で確認できる、仙台における伊達政宗とキリシタンの最初の邂逅は、1611(慶長16)年10月のこと。セバスチャン・ビスカイーノの太平洋沿岸測量に随行して、フランシスコ会のルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父とボナベントゥラ・ディエゴ・イバニエス神父、日本人同宿3人が仙台入りし、城下に滞在したときです。

政宗は完成したばかりの仙台城本丸大広間に2人の神父を招いて対談しました。そのとき政宗は、キリシタンの教義やローマへの旅程を尋ねたりしたのだとか。そして彼らに好意を示して、仙台領内でのキリスト教布教を許し、城門や城内のあちこちに「キリシタンになった者を重用する」という旨の張り紙をさせました。

また市内に二ヶ所キリシタン寺を建てることも許可。測量を終えた一行は、10月末に江戸に戻って行くのですが、多くの収穫を得てホクホクだったでしょうね。ソテロ神父は翌1612年に早速5人の同宿を仙台に送っています。

しかもこの年は幕府直轄地でのキリシタン禁令が出された年。江戸での布教が困難になった矢先に、新しい宣教地が与えられたことは、彼らには神のご計画のように感じられたのではないかと。ここまでは割とスムーズないい関係性のお話。



涅槃門


涅槃門に到着。間違って日光東照宮に来ちゃったんじゃないかという感じです。建てられた時代が一緒だから様式が同じなんでしょうね。そう、安土桃山様式です。

瑞鳳殿は、政宗の遺言により経ケ峯に築かれた政宗の霊廟。第二代忠宗の廟である感仙殿、第三代藩主綱宗の善応殿も境内に建てられています。

これらは国宝指定を受けていたのですが、第二次世界大戦末期の仙台空襲で焼失。1979年にこの涅槃門を含めて、いくつかの建物が再建されました。今は国宝ではないけれど観光資源としてはお宝級。残った写真や資料からこのように立派に蘇らせたことは、また別の意味で評価されるべきことだと思います。



解説板

焼失前

涅槃門

安土桃山様式

石段と灯籠


本殿に行くにはまたもや石段が。30段ほど登らなければなりませんが、両脇に置かれた石灯籠を追って登ると飽きません。

こちらの9基の石灯籠は、政宗の重臣たちの寄進したもの。うー、片倉小十郎~とか、宗門奉行の石母田~とか思いながら、伊達藩のキリシタンの盛衰に思いを馳せましょう!(ましょう!?)

政宗が支倉常長らを慶長遣欧使節としてローマに送ったことはよく知られていますが、その直前にはこんなことがありました。



政宗と宣教師


江戸でキリシタン狩りが始まったばかりの1613(慶長18)年、江戸の修道院にいたソテロ神父は逮捕されて小伝馬町の牢に入れられてしまいました。これを救出したのが政宗。二代将軍秀忠に頼んで、ソテロ神父を解放してもらいました。

助け出された神父らは仙台に行き、約一ヵ月を過ごした後、慶長遣欧使節と一緒に月の浦からイスパニアに向かって出帆しました。元々この使節派遣は、野心家で計略家でもあったソテロ神父が政宗に提案して実現するようになったもので、ここでソテロ神父に欠けられては困る状況だったのです。

1613(慶長18)年9月に出発した一行は、太平洋を横断して今のメキシコに到達し、そこから更に旅を続けてスペインへ。マドリードでスペイン国王フェリペ3世に面会して通商を求めましたが認められず、スペイン国王を動かすために教皇からのアクションを引き出そうとローマへ。1615(元和元)年11月に教皇パウロ5世に謁見しました。

支倉らはそれまでの過程で洗礼を受けてキリシタンになり、政宗がキリスト教の保護者であるとアピールしましたが、結局美味しいことは何も引き出せずに帰路につくことになりました。やれることは全部やったのに、タイミングが悪かったんでしょうね。それより数十年前に行った天正遣欧使節の4少年は各地で大歓迎を受けフィーバーを起こしたのと大違い。


慶長遣欧使節の後始末


1620(元和6)年に一行は帰国しましたが、国内状況も一変していました。徳川の世はがっちり固まり、キリシタン禁令はその重要方針。貿易の約束もできず、キリシタンになって帰って来た支倉常長は藩の厄介者でしかありませんでした。

蟄居を申し付けられた支倉は、2年後に死没。キリシタンだから処刑されたという説もありますが、どうか分かりません。ただ跡を継いだ嫡男 常頼は、まず召使いの夫婦がキリシタンだった廉で吊るし殺され、その後その責任を問われてか、自らもキリシタンだったらかは分かりませんが、弟の常坊と共に斬首されています。

ソテロ神父は1624(寛永元)年に大村で殉教しました。神父は後に福者に列せられ、仙台市内の光明寺には顕彰のための墓が建てられています。傍らには伝・支倉常長の墓も。今となっては分からないことが多くあることは確かですが、伊達藩のキリシタン政策が政宗の時代に保護から処刑へと転換していることから見て、彼がキリシタンだったとは到底思えないですね。



瑞鳳殿解説板

重臣が寄進した灯籠

石段

石灯籠

拝殿


石段を登ったら本殿かと思いきや、拝殿でした。祀られているのは政宗ですから、それを拝するとは神扱いですね。霊廟とは言うけれど、実質的に神として祀っているのかと。

それは東照宮に祀られている家康と同じです。ただこちらは幕府の手前、「死んで神になりました」とは言いにくいので、霊が眠る霊屋(おたまや)ですよ、ということで。

瑞鳳殿は仙台城に正面が向かうよう西向きに作られているのですが、それは政宗が見守っているということを意味しているのでしょう。ちなみに第二代第三代の霊廟は、正面を瑞鳳殿のある方向に向けて、東向きに建てられているので、神を仰ぎ見ている感じでしょうか。



解説板

焼失前

瑞鳳殿資料館


いよいよ瑞鳳殿だ!と思いましたが、左手に資料館があることが分かり入ることに。

瑞鳳殿には宣教師らによってもたらされたヨーロッパ伝来の品々があると、何かの本で読んだことがあるのですが、それが収蔵されているのはここではないかと思い。

でも写真だけでした。鉛筆と金属製のブローチ、それからロザリオが二つ。実物が展示されたら目を引きそうですけどね。

政宗の遺髪と遺骨は本物が展示されていました。骨から復元された実物大人形も。大名の墓としては初めて発掘調査が行われたため、詳しい記録が残っており、そこからの科学的調査も本格的です。そこで分かったことは、政宗の身長は159.4センチで血液型はB型、面長な顔立ちだったことなどです。2代、3代藩主の墓からの発掘品も多数展示されています。

展示室内にエンドレスで流れている映像が面白そうなので、Vol.1と2、各17分を腰を落ち着けてじっくり鑑賞。一人旅は自由度高くて良いです。その中で言っていたのが、「仙台」の名の由来で、千年を表す「千代」に「仙人の住む高台」の意味を掛けて、「仙台」としたのだとか。

「永久(とわ)の都を目指した千年の街づくり・・・」とナレーションで言っていました。ちょっとびっくり。文物からはキリスト教を感じませんでしたが、地名には(偶然の一致ですが)キリスト教っぽさがあったんだなと。



以前は御供所

建物

唐門


では瑞鳳殿へ!と思ったら、今度は唐門。随分ともったいつけてきます(こういう様式なんだねー)。

向こうに瑞鳳殿見えてますが、一応唐門や橋廊下も見ておきますかね。それから資料館も見て益々確信するようになったので言いますが、やっぱり「政宗キリシタン説」はないなーと思います。

従来あった「政宗キリシタン説」は、政宗がソテロを助け教皇にも親書を送った⇒だから隠れて洗礼を受けていたに違いない。そう、政宗はキリシタンだ!といった感じの安直なものでした。海外に目を向けていたところが政宗らしいとか、少なくともキリシタンの理解者だったと言う人もいて(キリシタン処刑もバンバン命じているのに、ロマンで空想広げる人はちゃんと調べないんですよね。。)

でも最近「キリシタン将軍 伊達政宗」(大泉光一、2013年、柏書房)という本が出されて、新たな説が展開されるようになりました。大体こういう本を、訳の分からない人が書いていたらスルーするところですが、名の通った研究者が書いているので読んでみたんですね。で、もちろん書名の通りのことを主張しています。


「キリシタン将軍 伊達政宗」


内容を端折って紹介しますと、「政宗の遣欧使節派遣は貿易狙いではない」「政宗はキリシタン帝国を築き、その王となることを夢見ていた」「キリシタンと手を結び、幕府に謀反を起こそうとしていた」⇒だから「キリシタン将軍になろうとしていたと言える」という論理です。新説なので「えっ!?」となりますが、従来の安直な説とは一線を画して、一定の信憑性があります。

しかしそんな大泉氏でも、「政宗は最初からキリスト教の洗礼を受ける考えなどは毛頭なかったのに、あたかも洗礼志願者のように振る舞い、(中略)スペイン国王やローマ教皇を欺こうとしたのである」とし、政宗がキリシタンだったとは言いません。つまり目的は信仰はもとより貿易でもなく、パワーであると。

政宗はキリスト教保護をエサにヨーロッパから信任を受け、それを使って国内のキリシタン勢力を自分側につかせ、その力で幕府を打倒しようとしてはいたが、信仰的にキリスト教を受け入れることはなく、洗礼も受けなかったというのが、大泉氏の説。

「キリシタン帝国」や「キリシタン将軍」という言葉の奇抜さが災いして、主張するところが誤解され、却ってアンチが増えそうですが・・・。私としては、早く安直なキリシタン説が淘汰されて、「キリシタンではなかったことは事実だけど、ではどうしてキリシタンと手を結ぼうとしていたのか」というところに論点が進むといいだろうなと思っています。



橋廊下

橋廊下

唐門

昔の写真

瑞鳳殿


今度こそ瑞鳳殿へ。ゴージャス。でもゆっくり眠れなさそう;;

発掘調査後、新しい墓室に入れられた政宗の遺骸は、元の場所に埋め戻されました(他の2人の藩主も)。

だから今もこの下に眠っているはず。なんか不思議です。

正面に立ってみますと、軒下の左右にまず阿吽の獅子、その内側に阿吽の瑞鳥。阿吽というのは修行の始まりと終わりを意味するものですね。廟の扉の上に天女が3体で、これが四面だから計12体。華頭窓には鳳凰が左右対称に飛んでいます。これらがメインの装飾で、それを引き立たせるために黒塗りの木材に金色の金具が取り付けられています。

引き締め効果のある黒と金に、鮮やかな色彩の造形物を組み合わせて、それだけでは誰の廟なのか分からないので、他では使ってないブルーで金色の「瑞鳳殿」の文字を浮かび上がらせています。単に豪華というだけでなく、考え尽くされていますね。

こういう建築技術、工芸技術を、廟という形で保存し、見せていることに価値があると思います。だから文化財として良い物だなと思います。でも政宗にあやかろうと参拝している人たち(意外と若い女性が多い)には、ちょっとクエスチョンマークですね。どうして人を拝んじゃうんだろう。。



解説板

昔の写真

瑞鳳殿


阿吽の獅子

天女

側面

獅子

殉死者供養塔


瑞鳳殿の脇には、殉死した家臣たちの墓がずらり。発掘調査で分かったことですが、彼らの亡骸はこの下にはなく、それぞれの家の墓所に埋葬されていて、並んでいるのは供養塔だとか。

それでも殉死自体はあったのだから・・・ねぇ。これも政宗がキリシタンでなかったことの証拠になります。

キリシタンは自殺を禁じており、自分の死に際して決して殉死をせぬよう家臣たちに申し付けていましたから。

それでも「後では棄教したかもしれないけれど、キリシタンだった時期があるかもしれない」と、「政宗キリシタン説」を唱える人がいるかもしれないので、それをしっかり封殺すべくもう少し説明しておきますね。人生のいずれの時期においても政宗がキリシタンであった可能性がないことを。


政宗はキリシタンではない


さて「政宗キリシタン説」に対しては、割と簡単に反証を挙げて否定することができます。日本を発った一行は、太平洋を渡りメキシコを経由してヨーロッパに到達し、スペインに上陸してそこからはほぼ陸路でローマに至りました。ヨーロッパではまずスペイン国王フェリペ3世に謁見し、支倉常長は「我が君、伊達政宗は奥州の強大な国王であり(中略)、自ら洗礼を受け、自らの臣下をことごとく(キリスト教に)帰依させることを欲している」と述べたとされています。つまり出航以前の政宗受洗は無いということです。

またローマに入り、今度は教皇パウロ5世に謁見できることになったのですが、そのもようは天正遣欧使節の場合と大いに異なりました。天正遣欧使節のときは、主君の大友宗麟、有馬晴信、大村純忠がいずれもキリシタンであったので「帝王の間」で教皇に謁しましたが、今回は非キリスト教徒から派遣された者だということで、バチカン宮殿の中の枢機卿会議室で引見されたのです。

また教皇が使節に持たせた政宗宛ての返書には、「朕が望むところは、卿が異教徒の迷信を脱し、すみやかに洗礼を受けてキリストの教会に入ることである」とあり、聖書の「たとえ全世界をもうけても自分の命を失っては何の益があろうか」という言葉が添えられていました。


政宗はむしろ迫害者


これを見ると、交渉のラストステージである教皇謁見までに、政宗がキリシタンにはならなかったことが分かり、支倉常長が日本に戻ったときには既に迫害し始めていたので、キリシタンになっていた時期がないことは明らかです。

この反論として主張され得るのは、「密かに洗礼を受けていたので、記録がないのだ」という、「皆キリシタン説」論者のお決まりの言説なのですが、これもここではその可能性を排除できます。ソテロ神父らは直接ローマに行き教皇に会っているのだから、もし政宗が受洗していたらならそこでそれを伝えられたからです。そうしたならば、上掲のような内容の返書を教皇が政宗に送ったはずがありません。

もう一度言いますが、やはり政宗はキリシタンになったことはなく、信徒に向かってしたことからすると、むしろ迫害者です。



左右に殉死者供養塔

解説板

解説

人名

七夕飾り


仙台の風物詩、七夕飾りが橋廊下に置かれていました。伝統的な七夕飾りは奥ゆかしさがあります。

下る際にも通る石段脇には重臣たちが寄進した石灯籠。こちらの石母田(大膳)宗頼が、仙台藩の宗門奉行。キリシタン禁制を城下に公布したり、キリシタン捕縛、処刑を担当しました。

伊達藩でのキリシタン捕縛と処刑が始まったのは1619(元和5)年からのことで、これは支倉常長が帰国する1年前です。この頃他藩ではまだあまりキリシタン処刑は行われていませでした。政宗が一層厳しくキリシタンを取り締まるよう命じたのは1623(元和9)年のこと。

新将軍になった家光に挨拶に行き、そこで領内のキリシタンについて尋ねられてからです。これを「政宗キリシタン説」論者は、「政宗は家光に厳しく問い詰められて、仕方なく迫害に踏み切った」と言うのですが、政宗は常長が帰ってくるより前から、他藩より率先してキリシタン詮索と処刑をしているので、成り立たない話です。

ちなみに石母田宗頼は、1636(寛永13)年に政宗が死去したとき殉死していませんね。死んだのは1647(正保4)年。伊達藩でキリシタンが処刑されたのは、記録で確認できる最後が1644(正保元)年。

それ以降は、逮捕したキリシタンを江戸送りにしたからです。だから伊達藩でのキリシタン処刑は、おおよそ全て石母田宗頼の下で行われたことになります。

もう一つついでに言うと、政宗は死ぬまで藩主をしていて、死ぬまで自領内のキリシタン処刑を命じていましたね。水沢城下の福原での処刑も、広瀬川で行われた水牢での拷問と処刑もこの人のときに行われました。後でまた触れます。



七夕飾り

手作り

石母田宗頼の寄進

重臣たちの寄進

戊辰戦争 忠魂碑


2代、3代の廟に向かっていると、柵に守られた塔が建っていました。戊辰戦争で散った命を弔う忠魂碑だそうです。

瑞鳳殿の域内は・・・、というか瑞鳳殿のある経ケ峯全体が、鎮魂のための霊域のようですね。古くからそう言い習わされた山だったのでしょうか。


戊辰戦争 忠魂碑

解説板

瑞鳳殿案内図

経ケ峯

森閑とした域内


2代、3代の藩主が眠る、感仙殿と善応殿は同じ場所にまとめて築かれているのですが、そこまで行くにはまた長い石段。

でも苦痛には感じませんね。深い森の緑陰に覆われて、落ち着いた気持ちになります。

少し冥界をめぐっているような気にはなりますけど。死者を訪うショートトリップのような。それもあながち間違ってはいませんね。



解説板

石灯籠

感仙殿


来ました、感仙殿。政宗が死んだことにより、38歳で2代藩主となった忠宗の廟です。

一見、瑞鳳殿とほぼ同じに見えますが、阿吽の獅子がいなくなり、華頭窓の上部を飾っていた鳳凰が省かれていますね。

初代に遠慮して、目立たない程度に装飾を減らしたようです。

殉死者の供養塔は、政宗のときは廟の両側にありましたが、こちらでは片側だけ。それでも10基ほど並んでいます。自分が死んでそれに続いて10人もの人が切腹するって、どんな気がするものでしょう。今の感覚で考えてはいけないかもしれないけれど、キリシタンでなくてもやめてほしいと思う人がいてもおかしくないと思うんですが。



解説板

写真

殉死者の供養塔

感仙殿

妙雲界廟


感仙殿の左手にも墓域があるので見に行くと、9代、11代藩主とその夫人たちの墓でした。

解説板(少し誤字が気になる;;)によると、4代目からは伊達家の葬法が変わったのだそう。

明治になってからは、仏式から神式へと変えたので、現在このようになっているということです。その時代ごとのメジャー路線に合わせたということですかね。



解説板

伊達家の墓

伊達家の墓

伊達家の墓

感仙殿の向こうに善応殿


感仙殿の左手方向には、あら、「殉死者供養塔」とは書かれていないけれど、それと同形の石造物が並んでいますね。これも殉死者のものなんでしょうか?

うーん、数は7基。殉死者のものだったらそう書いてあるだろうし、初代に慮って廟をシンプルにしたなら、殉死者数も減らしただろうから、こちらは殉死まではしなかった家臣たちの物かもしれません。分からないけど。



石造物

善応殿との間


善応殿


善応殿は3代藩主 綱宗の廟。2代藩主 忠宗の六男で、父・忠宗の死により家督を継いたところまでは父と同じ道を歩んでいますが、たった2年で藩主をやめさせられ、隠居しています。

跡を継いだのは2歳の息子。大人が2歳の幼児に劣るとは普通なら考えられないので、よほど暗愚だったのか、謀略があったのか。

恒例の装飾チェックをいたしますと、父の廟にはあった阿吽の瑞鳥と3体の天女の姿は消え、紅白の椿と瑞雲になっていますね。あ、扉の上に瑞鳥が1羽。華頭窓と扉は感仙殿と変わりませんが、逆に考え無しにコピーしたような安直さがあります。

それから扁額の色が、初代、2代と異なっていますね。初代、2代は高貴さを表す深いブルーだったのに、こちらは若草色です。未熟さを表しているようにも感じられたり。両脇はすっきりしていて殉死者供養塔は1基もないですね。たった2年の藩主生活でその後長生きしたので、殉死する家臣はいなかったようで。それは良かったかもしれません。



解説板

写真

善応殿

善応殿

善応殿

善応殿

無縫塔

板碑

長い下り道


たっぷり見学して帰ろうとすると、行きとは違う長い石段が。歩幅に合わないことを除けば、下りなので歩くのはラク。

途中に西南戦争での戦死者を弔う石碑があって、ほんとにこの手の弔魂碑が多い山だなと思いました。

それから国宝だった時代に建てられた「国宝」の文字入り石碑も。もう随分前に国宝指定を解かれたのに、石碑だけでもと残して見せているのが物悲しいです。



弔魂碑

解説板

「国宝」

解説板

御子(みこ)様!?


「御子様御廟」と書かれた道標があって、「御子(みこ)様!?」とびっくりしましたが、御子様(おこさま)でした。そりゃそうですよね、聖三位の御子(みこ)が祀られているはずもなく、ましてや御廟がある訳もなく。

御子様(おこさま)とは若くして死んだ藩主の子供たちのことのようです。文字への条件反射って怖いわーと思った瞬間でした。疲れてるのかな。ここは省いて、先を急ぐとましょう。



解説板

御子様御廟

解説板

周辺地図


 殉教地へ行きましょうか!


炎天下~


瑞鳳殿の域内を出ると、完全に炎天下~(;´Д`)

覚悟してたとはいえ、真夏の旅はやっぱり厳しいです。周辺地図を見ると、仙台キリシタン殉教碑まで行くには、地下鉄に乗るより歩く方が早そう。い、行くか。。



評定河原橋


歩いて向かったお陰で、もう一つの殉教地も通ることができました。評定河原は昔伊達藩の牢があった所で、牢死したキリシタンもいるのです。

だからこの橋の向かって右手の野球場辺りが殉教地。伊達藩の刑場は17世紀に2回移動しているので、私も混乱してて、ここ数年頭を悩ませています。

前回来たときは、この橋の左手がキリシタン処刑地ではないかと考えていたのですが、それは訂正した方がいいと思うようになりました。水牢の拷問が行われた仙台大橋の下が、当時の刑場で、水牢以外のキリシタン処刑もそこで行われたのではないかと。

最初そう考えたんですが、仙台市博物館のガイドさんの話を聞いて、こちらかと勘違いしてしまったんですよね。あ、ガイドさんはちゃんと話してくれたんでしょうけど、私が間違って聞き取ってしまって。いずれにせよ、帰ったら宮城の史跡案内を書き換えようと思います(いつになるやら・・・)。

歴史的事実って、定まっているようだけどそうではなく、研究し続けないとダメなところがありますね。でも研究し続ければ、少しずつ見えてきたりもするので、希望はあると思います☆



評定河原橋

東北大グラウンド

野球場

周辺地図

サルスベリ


民家の庭先から顔を出す花に励まされつつ、体力を秒単位で奪う猛暑の中を仙台城方面へ。城への登城路が広瀬川で分断される所が殉教地。

大橋と呼ばれる橋がかけられており、そのたもとに水牢という拷問施設を作ってキリシタンを凍死させたのです。

今牢屋から大橋へ向かっているので、牢から引き立てられた信徒たちは、この道通ったかもしれませんね。川を小舟で遡るのは大変そうだし、河原を歩かせるより人目に付く道を歩かせた方が、市中引き回し的な効果があるだろうから。分かりませんけど(いや、調べるべきだな、これも)。



大橋

大橋

大橋

地図

仙台キリシタン殉教碑


大橋の手前から右手に下りて行くと、仙台キリシタン殉教碑。

ここに来るのは2年ぶりかな。でもその間に碑がリニューアルされたと聞き、早めに見に来たいと思っていたのです。

どんなふうにリニューアルしたのかなと思って。解説板が新しくなっていたらチェックしたいですし。ああ、マニアって大変!(マニアだったのかw)

台座が新しくなり、元の解説板に加えて各国語の解説板も作られ、そこにはめ込めまれたようです。解説文が変わってないので大きな違いはありませんが、少々古びて見捨てられた雰囲気が漂っていたので、新しくなったことで人目を引いて良いかと思います。

映画「サイレンス」以来、キリシタン・ブームだと言われているのですが、その影響が東北の地まで波及してきて、いろんな変化をもたらしているみたいですね。





三人の像

解説板

各国語版

昔の解説板

大橋


殉教地の大橋下。当時の橋はもう少し上流に架けられていたので、この右手になりますかね、水牢が設けられたのは。

今の暦だと2月の一番寒い頃です。キリシタンや宣教師が凍るような水に浸けられたのは。入れては引き出し、棄教を迫りました。

それで棄教せずに凍死したので、遺体をバラバラに斬って流しました。バラバラにしたのは、「キリシタンは復活する」と言われていたから。復活とは、そういうことじゃないんですけどね。迷信の中で恐ろしがられ、理解されることなく殺されていったことを思うと・・・。



殉教地

大橋の下

広瀬川

大橋

大町西公園駅


9年前に初めて仙台キリシタン殉教碑を訪れた際はなかったのですが、地下鉄東西線が延伸され、今は徒歩3分で「大町西公園駅」です。便利~(*'▽')

巡礼しやすくなるよう駅まで作ってくださってありがとうございますと、神さまに勝手に(?)感謝しております。

今日は行かなかったけれど、東北大学川内キャンパスにある支倉常長像へも「国際センター駅」から楽々アクセスできますね。やっぱ神さまだな、こりゃ♪




西公園

荒町商店街へ


地下鉄に乗って、ご飯を食べに荒町商店街へ。SNSでよく見るお店に行ってみたくて。

想像した通りの、昔懐かしい感じの商店街なんですが、あちこちに史跡がいっぱい。由緒あるお寺に私の知らない偉人、東北福祉大学もここが発祥地だとか。

なぜだろうと思い検索してみたら、ここ昔の奥州街道なんですと―!!

えー、そうなのそうなの!? 東北のキリシタンたちが江戸送りになるとき通って行ったあの奥州街道だなんて!(興奮し過ぎ) いやでも、興奮しますよね。食べ物目当てに来たのに、キリシタンゆかりの地に来ることができて。古川からつながってるんやん。

それどころか宮城以北の逮捕された信徒たちは、この道を通って江戸へ上って行き、ほぼ全員が死んで遺骨となってしか戻れなかった訳で、殉教路ですよ。長い長い道で、カルバリの丘へ登って行くような最後の試みの道だったことでしょう。



解説板

荒町商店街

お寺

郷土の偉人

昔の町名

東北福祉大発祥地

遅めのランチ


商店街から一本入ったお店で海鮮丼。店の佇まいも良いです。汗だくで着いたので、ポットのお茶飲み尽くしそうな勢いです。ご飯美味しいしリーズナブルで大満足。又来ようっと。

だけどそれまでに、奥州街道と古地図、それから明治大正昭和にかけてのキリスト教主義校のあった場所ももう一度調べなきゃ。踏むたびに深まりますね、史跡めぐりというものは。


店構え

店内

店内

仙台駅東第一地区


そろそろ帰りましょうかと仙台駅へ。アンパンマンがいて(作者のやなせたかしさんはクリスチャン)、東北福祉大学があり、樹齢150年以上とされるオリーブの木がありました。

この木はスペインからきたもので、支倉常長と一緒にヨーロッパに行った一行のうち、現地に残った人がスペインでハポン姓を名乗っているという説が、解説板で紹介されています。

どうなんでしょうね。DNAを調べれば、血のつながりがあるかどうかは分かると思いますが、つながりがあったとしても、それが慶長遣欧使節団のときのことだとは言い切れないですよね。それ以外の形でスペインに渡った日本人がいるでしょうから。


歴史ロマンと現実


私が懸念するのは、仙台に語り継がれるロマンが、もしかしてロマンでなかった場合、それを受け止める心の余裕が仙台人にあるかということ。伊達政宗への評価も同様ですね。昔の殿様に対する愛着と尊敬心があるのは当然なんですが、それが強すぎて歴史的事実を否定するまでいくと行き過ぎです。

キリシタン研究のレジェンド松田毅一氏が、仙台で行われた伊達政宗のシンポジウムに招かれ、そこで少し政宗に関して否定的なことを言ったら、他のパネリストが怒り出して大変だったそうです。それで郷土の英雄への思いが強すぎて歴史研究を阻害することがあるが、仙台はその傾向が特に強いと思うと書いています。

30年ほど前の出来事なので、今は少し緩和されているように感じますが、どうなんでしょうね。政宗で観光振興、支倉常長関連資料も世界記憶遺産に認定されたし・・・という流れだと、政宗はキリシタンに好意的で海外に使節を送った英明な藩主というイメージで行こう!ということになりませんかね。

だけどここまで書いたように、それは事実と異なります。政宗はキリシタン処刑を命じた藩主で、戻ってきた支倉常長を蟄居(毒殺の可能性も)させ、捕えた宣教師や信徒を見せしめの拷問の末死に至らせたのです。仙台はキリシタンが安心して過ごした場所ではなく、殉教地です。

これはロマンにはなり得ませんが、ちゃんと正しく認識する意義は大きいと思います。いい方向に舵を取ってほしいものですね。このキリシタン・ブームのときに。



アンパンマン

東北福祉大学

オリーブの木

樹齢150年



もし伊達政宗が現代に生まれていたら


もし伊達政宗が現代に生まれていたら・・・と想像をしてみることがあります。しかしあの時代にあの環境に生まれたからこそ、政宗は政宗になれたのでしょう。現代に生まれたら、格別なことができたかどうかは分かりません。

それをひっくり返して自分に当てはめてみるなら、私はこの時代この環境に生まれたからこそ、私なんだということになります。格別なことができるかは不明ですが (^^;)

ただ平等なことは、いつの時代どんな環境に生まれるかを、誰も選べないということ。誰かのように生まれていたら良かったのにと言っても、誰も替えてもらえないことです。つまり与えられた環境で最善を尽くすしか。

自分以外の者にはなれない中で、毎日迷い選びながらリハーサルのない人生を生きる・・・。それでは失敗しないはずないですね。だけど失敗してなお、「最善を尽くした、かけがえのない私の人生」と言えるようにしてきたいです。

酷暑の夏、仙台を訪れてみて感じたのは、人は自分と対峙して生きているんだなということ。自分が知りたいことのために動くとき、同時に自分がどのような人間なのかが表されていくように思います。この人生の軌跡を「最善を尽くした、かけがえのない私の人生」言えるのかな。そうであるよう願いつつ――。





                                    旅行記一覧へ >>