本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > FacataからBungoへ 4   スマホ版は⇒コチラ

 FacataからBungoへ 4


今日は竹田(たけた)へ。ここには「隠れ」キリシタンならぬ「隠し」キリシタンがいたと言っては、話題になっているのです。キリシタンで沸くミステリアスな城下町へ、いざ♪



竹田キリシタン研究所・資料館


竹田には以前も来たことがあるのですが、そのときは詳らかに見る時間がなくて、竹田城とキリシタン洞窟礼拝堂くらいしか見られませんでした。

その後クラウドファンディングで資金を集めて(私も参加しました)竹田キリシタン研究所・資料館もオープンしたので、これは再度行かねばと思い、やって来ました。

迎えてくださるのは、フェイスブックでも友達になっているGさん。竹田市の職員でこちらの館長さんでもあります。今日も今日とてHちゃんの運転で来たのですが、実はHちゃんは竹田でGさんに会うのが3回目だそうで、ベテランの域。今日は皆さんの胸を借りる気でまいりましょー (^▽^)/


竹田のキリシタン


さて、二度目の竹田入りをしたのは、他のキリシタン史跡を回りたかったのもありますが、きっかけになったのは、竹田市長の首藤勝次氏が市報「広報たけた」のコラムで述べていた言葉、「市内には、キリシタンの関連かどうかを調査してみたい物件がまだ多くある。そこで大切なのは、『可能性があるから断定しよう』ではなく、また『よく分らないから切り捨てよう』としないことが大切だ」――でした。

真贋が入り混じり、謎が多いのがキリシタン遺物の特性。だからこそ、どちらにも偏らないで事実を探究すること、自分の期待ではなく事実や物証によって判断することが必須です。その点を市長さんがよく理解をしてらっしゃるので、きっと信頼できるだろうなと思ったのです。

地域の観光振興だけを考えたら、我田引水的なことをやってしまいがちですからね。学ぶことも探すこともしますが、冷静な目が必要だったりします。私自身も冷静に見ていきたいですし。車を向かいの駐車場に停めさせてもらって、どうもお邪魔します☆



キリシタン資料室


キリシタン資料室は駅前商店街の空き店舗を改装したもので、キリシタン遺物とパネル解説、ルイス・フォンテス神父寄贈のイコンなどが展示されています。

「竹田」と一口に言っても竹田市の竹田町から現在の竹田市直入町と久住町の境である朽網までは多少離れており、そこで起こった歴史的事柄も違います。

竹田キリシタンについては、市報である「広報たけた」のGさんによる連載「ミステリアス!竹田キリシタン」(https://www.city.taketa.oita.jp/info/)が詳しいのですが、ちょっと歴史をまとめておきますと・・・↓


竹田キリシタンのヒストリー


ザビエルが府内に寄港したのが1551年で、そこから豊後(大分県)に福音が入り、1553年に朽網氏が治める朽網で布教がなされ、ルカス呼ばれる老人が入信。その一族郎党もキリシタンとなり、この地方の中心となりました。しかしおよそ30年後に朽網氏が滅びたため朽網のキリシタンは衰えました。これを竹田キリシタン史の第一期とすると、第二期となるのは志賀親次(しが・ちかつぐ。ちかよしとも)が岡城主として入城した1584年頃から。

志賀親次は大友宗麟の孫に当たり、自分の腕に十字架の入れ墨をしちゃうほどの熱心なキリシタン(入れ墨がいいかどうかは別として(^^;)。岡城下に宣教師を招聘し、布教活動を支援しました。その結果、1585年には藩内で6000人から8000人が受洗。親次は秀吉に改易されて1592年にこの地を去ったのですが、それまでに多くの信徒を生みました。

第三期の始まりは、1594年に中川秀成(高山右近の従兄弟の息子)が新しい藩主として入って来てから。秀成が受洗した記録はありませんが、キリシタンに親しみを持っていたのは確かで、伴天連追放令後の日本において、キリシタンを保護した領主がいたことは、宣教師たちにとって有り難いことだったと考えられます。

Gさんから「ミステリアス!竹田キリシタン」をまとめた本をいただいて感謝。竹田市の推薦図書となっている「ザビエルコード」もいただいたので、帰ったら読みます。竹田キリシタンのヒストリーとしては、朽網のルカス⇒志賀親次⇒中川秀成の流れを押さえておけばOKでしょう♪



キリシタン資料室

資料室展示物

ミステリアス!竹田キリシタン

ザビエルコード

へうげもの


山田芳裕のまんが「へうげもの」のポスターがあったので聞いてみると、古田織部(=重然。しげなり)つながりで竹田市とタイアップした企画が進行中なのだとか。

そっか、中川秀成の父、清秀は古田織部と義理の兄弟(正室が中川清秀の妹せん)でしたね。古田織部がキリシタンだったと言う人もいます(私は懐疑的ですが)。

また竹田で最も有名なキリシタン史跡と言えば洞窟礼拝堂ですが、そこに宣教師を匿ったのは岡藩の家老 古田重治(しげはる)で、この人は古田織部の末裔だったとされています(正史では古田織部の男系子孫は絶えたということになっている)。

何はともあれ、まんがが人気になることで、そこに出てくる人物たちにスポットが当たることは良いことですね。それによって掘り起こされる史実もあると思うので。期待しています☆



解説板

解説板

岡藩と古田織部

サンチャゴの鐘


では展示物を見ていくこととしましょう。まずはサンチャゴの鐘!・・・の複製(涙)。国指定重要文化財となっている本物は竹田市立歴史資料館に収蔵されているのですが、資料館が建て替え工事中で見られないそう。

複製ですが、その分触ったり鳴らしたりできるということで、なでなでしてからゴーン。いい音ですね。工事終わってからまた来るべし (*´Д`)


サンチャゴの鐘はなぜここにある?


考えてみたいのは、「1612年」「HOSPITAL SANTIAGO」の文字と十字架が陽刻されたこの鐘が、なぜここにあるのか? 元々長崎のサンチャゴ病院の付属教会にあったと考えられますが、1612年と言えば、幕府直轄地でキリスト教禁令が発布され、教会が打ちこわしになった年。

その病院付属の教会に設置されるはずが、ヨーロッパで鋳造して運んでいる途中で教会破壊の報を聞き、一時避難的に竹田に運び込まれたという説、長崎の教会からキリシタンロードを経て持ち込まれた説がありますが、Gさんから長崎奉行 寺沢広高の協力で唐津城を経て来たという説も聞きました。

その他、府内城主竹中重義が押収した鐘を府内に運び、それを中川久盛が竹田に持ち帰ったという説を定説みたいに書いてる文章も目にしましたが、これが一番信じにくいかなぁ。。いずれにせよ「謎」なのですが、この「謎」は確実な物証があるため単なる空想や想像の類ではない現実味があります。



サンチャゴの鐘

解説板

竹田キリシタン史

竹田キリシタン史

伝・聖ヤコブ像


ではもう一つの目玉へ。伝・聖ヤコブ像です(こちらも精巧な複製品)。

本物は発掘場所の主人の所有物だそうです。

以前はそこからいちいち借りてきて見せたりしていたのが、今は複製ができて常時見られるようになったから幸いだ、ということでした。しかし・・・。


ヤコブ頭像は誰のもの?


あのう、その所有者の方、これは公に供するべき文化財だと認識して市に寄贈してくれませんかね? 管理委託とか、所有権を移さなくてもいいやり方だってありますよ。大体元は岡城の不浄蔵にあったものが転げ落ちるか何かして、その家の裏庭の谷に放置されるようになったと考えられるので、岡城のものと言っても過言ではないかと。こういうことを、同地域に住んでる関係者は言いにくいと思うので、部外者の私から言わせてもらいますけど (~_~;)ドウ?

この石像は公的機関で成分分析をした結果、地中海沿岸の砂岩で作られたものである可能性が高いと判断されました。また彫刻を専門とする教授に見てもらったところ、髪の流線形は彫るのに非常に高い技術が必要で、当時の日本人には硬い石をこのように彫る技術はなかったはずだと語ったとか。ヨーロッパで作られたことはほぼ間違いなさそうですが、ヤコブかどうかはまだ検討が必要なようですね。


鐘と石像の合わせ技!


竹田にサンチャゴの鐘が伝えられていることからすると、ヤコブ(サンチャゴとは聖ヤコブのこと)像である可能性は大。特に一緒にもたらされたものであるなら。Gさんによると、サンチャゴの鐘は舌(ぜつ)の部分が削り取られているのですが、舌の無い鐘の内部に、ちょうどこの石像が収まるのだそう。普通なら鐘の一部を削り取ることなど考えませんが、一緒にコンパクトに持ち運ぼうとしていたら、そうしたとしても不思議ありません。

複製を作ったことからいろんな考察ができるようになったのだから、作ったこと自体は正解だったのでしょうね。それと並行して本物も見られるようになったら、更に良いのでしょうけど♪



伝・聖ヤコブ像

ヤコブについて

解説板

横から

山の神


ガラスケースに入ったもう一つの石造物は「山の神」。朽網で見つかったもので、鳥の姿をした男神と女神の像です。

しかも男神は三つ目、女神は一つ目、口はどちらも異様に大きいという・・・、これキリシタン遺物ですかね (@_@;)?

手や足がX型に交差しているところから、キリシタンが信仰に用いたのではないかと推理する向きもあるようですが、素直に頷けないものが。

朽網にはINRI石碑があるので、他の石造物も同様にキリシタンと関係があると考えられがちです。「キリシタン遺物かも?」と思って検討することは必要ですが、一概に言えないのは誰もが承知しているところでしょうね。キリシタンが栄えた数十年よりもずっと長く、仏教系神道系の信仰が広く民の心を集めてきたのですから。



「山の神」

解説板

鳥の姿

マリア像


壁際の展示ケースに目を移して、「ルルドのマリア」を拝見。これ、すごいです! 古民家を取り壊したとき、水屋の隠し引出しみたいな所から発見されたものだそうです。

完全なるキリシタン遺物でこれこそマリア像と言ってもいいかと。でも解説には「ルルドのマリア」と・・・。え、なんで「ルルド」!?

ルルドは、1858年に聖母が出現したというフランスの町で、今は世界的な巡礼地となっていますが、竹田にキリシタンがいたのはそれより200年前の17世紀です。世紀が違いますよね。しかも奇跡が認められてルルドがカトリックの公式巡礼地になったのは第二次世界大戦後。もう一つ世紀違いますから。

キリシタン時代に宣教師がルルドの話してる訳ないですし。誰が「ルルドのマリア」と名付けちゃったか知りませんが、そのネーミングさえ除けば、キリシタン資料室きっての一級品だと思います。


SAtO入りの瓦


個人的には、「SAtO」というアルファベット文字入りの瓦にも注目しました。江戸時代にアルファベットって珍しいし、tだけ小文字なのも何故?という感じで。入田の元庄屋の家にあったもので、この地域には十字の刻まれた墓碑なども多数あるそう。t小文字なのも、十字だとすれば納得がいきます。

展示品の数々はキリシタン時代の何らかの意匠を受け継いでいるものとみられますが、もう一歩踏み込む必要があるように思いますね。なので例えば、キリシタン墓碑や「SAtO」など確実に十字架の十字であろうものと、他の可能性があるもの(地蔵尊に刻まれたXや卍が刻まれた墓碑)を分けて考えてはどうでしょう。

前者はキリシタン史学者に見せても十分通用すると思いますが、それ以外のものと一緒くたにされると、どちらも想像の範囲内のミステリーに留まってしまいます。INRI碑は学究の対象ですけど、稲荷(INARI)になると眉唾というのも同じです。

その中にもキリシタン遺物がもしかしたらあるかもしれませんが、分けて検討することで信憑性が増し、貴重なものであると認められやすくなる思います。



マリア像

参考展示のマリア像

SAtO入りの瓦

SAtO

十字入り木製坐像


解説に「キリシタン遺物と断定はできないが」と断ってありますが、烏帽子に十字架が彫られた菅原道真らしき人物の木製座像も気になる一品でした。

取れてしまったのか、なぜか顔の部分が削り取られているのが、いかにもミステリアス。その上、納められている箱には「生月神社」の文字が。

「生月」と言ったら長崎県の平戸にある隠れキリシタンの島「生月島」が連想されますが、そこに祀られていたのかどうか。そこから竹田に来たのだとしたら、どうやって?

これは朽網地域の直入にあったもので、 直入で最大のキリシタン墓地そばの稲荷祠に祀られていたのだとか。宣教師が行き来していた時代なら生月と朽網がつながってもおかしくはないですね。でもこのような隠れキリシタン的なものが作られたのは禁教令下であろうと考えられるので、その時代になっても交流があったか・・・? しかし信憑性の高いものではありそうですね。



解説

十字入り坐像

稲荷社

万神様

ルカス!


壁には朽網宗暦の想像画が。この人が朽網のルカス老人である可能性が高いのですが、そうだとしたら「ルカス渋っ!」

絵を描いた人は三船敏郎をモデルにしたのだとか。聞けば納得です。もうちょっと好々爺のイメージでしたが、戦国を生きた人ですからね、ただの爺やにはならかなったかも。

解説パネルには中川クルスとカマボコ石のことが書かれていました。多くの大名家の家紋に採り入れられている十字紋については、キリシタンと無関係のこともあるので要注意です。カマボコ石の墓碑に干十字が刻まれていたら、キリシタン墓碑と考えても良さそうですが、カマボコ型の石だから、家紋の中に十字部分があるからという、単独のことだけでは認定は難しいかと。ヨーロッパとの関係も同様でしょうね。



朽網宗暦について

中川クルスと岡城

解説板

志賀親次


竹田キリシタンし第二期を担う志賀親次のイメージ画もありました。こちらは松田翔太がモデルだそうで、イケメンです。

伴天連追放令後も自領でナヴァルロ神父を匿うなどキリシタン保護に努めましたが、大友義統に従って海を渡った朝鮮出兵の際、義統に撤退を進言し、無断で戦場を離れたため秀吉の処分を受けました。

多くの信徒を残して岡城を去ることとなり、墓は山口県宇部市にあるそうです。解説板の家系図によると、親次の姪が細川忠興に嫁いで、その子孫が元総理の細川護熙だということです。細川護熙自身はテレビで自分は細川ガラシャ夫人の子孫だと言ってましたが・・・。私が口を出すことではないですね。

とりあえず、どちらの子孫だったとしてもキリシタンの血が流れていることになります。ガラシャ夫人か親次か。どっちも良いなと思ったりして☆



志賀親次について

十字架の入れ墨

解説

家系図

INRI石碑


そしてこちらも忘れちゃならないINRI石碑。豊後三大キリシタン遺物を挙げるとしたら、こちらとサンチャゴの鐘、伝・ヤコブ像でしょうか。

しかしこの「三大〇〇」とかいうのは、どこか言ったもの勝ちなところがあり、名付けた通りに流布されたりします。

一応もちろん一応根拠があるにはあるし、人々が「えー、そうかなぁ」と不審に思うようなら通らないんですけど。

そんなINRI石碑ですが・・・こちらも複製品ですね。ガラスケースに入って保護されていますけど。豊後三大キリシタン遺物がことごとくレプリカなのは、ここに来て急激に力抜けてきました。今時ネットで情報はいくらでも手に入りますからね。本物に会いたいからこそ現地まで来るのです (T_T)ナクワ

INRI石碑はルカスの墓の上に立てられた石製十字架の先端ではないかと考えられています。いわば朽網にキリシタンがいたことの生き証人。こういう確かな物証がなかったら、竹田キリシタンの存在はもっと漠然としたイメージだったことでしょう。美しいものですよ。正にキリシタン遺物。



解説板

複製

直入の集団墓地

墓地解説

垂水屋事件


家で「広報たけた」を読みながら、すごく興味を引かれたのが、垂水屋で起きたキリシタンに関する事件。

「垂水屋踏絵床抜け事件」と書かれていますが、どうか←の解説板をお読みください。

1738年、一階で絵踏みをしていたら、床が落ちて、地下に秘密のキリシタンの礼拝堂があることが発覚したという・・・あり得ませんよね。絵踏みをさせていた乙名(豪商)自身がキリシタンで、隠し礼拝堂を持っているくらいだったなんて。これを「竹田キリシタンならではの珍事」としています。

そんな珍事が起こった場所、跡地だけでも行ってみたいです。ここからすぐみたいなので後で教えてもらおっと。しかしこの垂水屋の主人、お咎めなしとはならないで、すぐさま長崎に送られ処刑されたもよう。珍事と言うべきか悲劇と言うべきか。笑っちゃっていいものではなさそうですね。


竹田キリシタンならではの珍事その2


「竹田キリシタンならではの珍事その2」とされた、「踏絵レプリカ無断鋳造事件」については、頭をひねってしまいました。竹田にキリシタンが多かったのは、藩ぐるみで「隠し」ていたからで、長崎などの「隠れキリシタン」とは違い、「隠しキリシタン」の歴史があったのだというのが、どうやら竹田市の推進したい考え方のよう。

だけれどもう少しちゃんと立証しなければ、根拠の薄さが指摘されて、却って否定的な言われ方をするのではないかというのが、私が危惧しているところです。「ミステリー」で押し通せる線もあるでしょうが、学術的な指摘に耐えられなければ叩かれて終わることもあり得るのです。

早めにキリシタン史の専門家とタッグを組んで、物証から証明した確実な線で竹田のキリシタン史を提示できるようにしてはどうですかね。それはスケールとロマンでは「ミステリー」路線に劣るかもしれませんが、後代の遺産になると思うので。ちょっとお願いしたい気分です。



珍事その2

クエンカ地図

解説

アズレージョ

神戸の牧師からの寄贈品


キリシタン資料室の真ん中に据えられた展示ケースには、神戸の牧師から寄贈された「キリシタン遺物」が並んでいます。

しかしこれがこの資料室最大の難点だと思います。否定的なことしか言えないので、不快に思われる人もいるでしょうから、コメントは書きません。

「これなんてすごいでしょう!」と言われる物に限って・・・です。竹田には正真正銘のキリシタン遺物がちゃんとあります。正にキリシタン遺物!と言える一級品が。それを、神戸から寄贈された物と一緒にする必要がないですし、その牧師に遠慮して、竹田の物を壁際に置く必要は更に全くもってないです。


生意気ですが・・・


だけど、寄贈者がどう展示しているかここまで確かめに来るようでは気を遣うしかないですよね。もらうっていうのも善し悪しです。私は壁際の「ルルドのマリア」、SAtO瓦が真ん中でいいと思いますよ。INRI石碑やサンチャゴの鐘、伝・ヤコブ像は世界に誇っていいレベルだと思いますし。

竹田のキリシタンをもっと信じてもいいと思うくらいです。キリシタンに関係あるかどうか不明な物や「こうだったかもしれない」というロマンで増幅しなくても、遺された物自体が語る、圧倒的な素晴らしさがあります。こんな山里に、ヨーロッパとのつながりを明示する水準高いキリシタン遺物があること自体がミステリーなのですから。

数が少なくてもいいですし、他地方の物で水増しする必要はありません。生意気ですが、本心からの意見です<(_ _)>



ルイス・フォンテス神父のイコン


展示室奥のスペースには、ルイス・フォンテス神父が寄贈したイコンが。

フランシスコ・ザビエルの兄を祖先に持つ、スペインのバスク生まれの神父さんで、日本に帰化して泉類治という日本名も持ってらっしゃいます。

竹田にキリシタン資料館をオープンさせることはフォンテス神父たっての願いでもあったと聞きます。叶って良かったです。

現代の人が作った物や高札、レプリカなどの寄贈品がケースに収められています。キリシタン時代を感じられるようにということで並べられているのでしょうね。



三代藩主 中川久清


こちらの肖像画は三代藩主 中川久清。大船山をこよなく愛し、天和元(1681)年江戸からの帰りに容体が悪くなり当地で亡くなると、遺言のとおり大船山に儒葬されたのだとか。

この大船山と鎌倉の大船、その近くにある光照寺の中川クルス紋に関して、関連性を示唆する話をGさんから聞きました。

久清が南蛮人とのハーフではないかという話や、竹田にはそのように異国的な美貌の人たちがいて、こぞって優秀でもあるという話も。Gさん自身もダンディですし、私からすると九州の人は全般的に顔立ちが濃くてイケメン&ビューティーです。

描かれた容貌を根拠に「南蛮人の血が流れているかも」と言われましても・・・。「南蛮の姫の墓もありますよ!」という言葉に、「発掘調査したんですか?」と聞いてしまう私は、ロマンの欠片もない朴念仁ですね。可愛げがなくてスミマセン (;´∀`)



三代藩主 中川久清

十字

手水鉢

石仏

異相地蔵


展示室の一番奥に置かれているのが、Gさんが山を歩いているときに見つけた地蔵尊。南蛮文化振興室長として長年フィールドワークをしながら、埋もれた遺物を発見してらしたことに頭が下がります。

所有者のおばあさんに「これキリシタンのものじゃないですか?」と聞いたら、「先祖がキリシタンだなんて、そんな訳ない!」と叱られたそう。

しかしその後檀那寺に確かめたら、「おばあさん家は昔から信仰深いキリシタンでしたよ」と言われて、おばあさんもびっくりだったと聞きました。そういう生(ナマ)の話がすごいですね。キリシタン遺物が現代においても発見されているという事実が。


竹田とは別の地域の話ですが


一方で、竹田とは別の地域の話ですが、同じ大分県内の国東市内に点在するキリシタン遺物を調べた市教委専門家委員会が、「INRI祭壇石」などと名付けられた16点について「全てキリシタン遺物と認められない」という調査結果を明らかにしたこともあります(2016年)。

調査はキリシタン石造物研究の第一人者 大石委員長ら5人によって行われ、時期的矛盾や神仏モチーフとの混同などを確認して判断されました。国東市も行政や民間団体が解説板を立てたり観賞ツアーを開いたりしてキリシタンで町おこしをしてきたので、学術的裏付けを期待して行った調査が裏目に出て、関係者は対応を迫られたと聞きます。

国東半島もペトロ岐部などキリシタンで知られる地域なんですけど。繰り返して言いますが、竹田とは別の地域の話です。だからそことは違うと言うこともできます。しかしキリシタン遺物には足を取られやすいポイントがあり、それを覆されるとそれまでの努力が無駄になることもあります。

はっきり言って、ウィークポイントは意匠(デザイン、模様)です。そこに頼ると怖いということは肝に銘じておかなければと思います。



異相地蔵について

異相地蔵

キリシタン洞窟礼拝堂

解説

竹田の町を


展示室を見てお話をうかがうだけで、あっという間に時間が過ぎ、お昼になっていました。

お昼ご飯に向かいますが、歩く道々がとても楽しいですね。古い町並みの風情がたまりませんっ。

カメラの腕があればSNS映えする写真も撮れそうですが、腕がないのでベタな写真でご容赦を。

安くて雰囲気の良いゲストハウスもできたそうなので、若者よ是非カモン。女子旅にも良さそうです♪



神社

川口自由堂

ゴスペルハウス


散策マップ

散策マップ

大分のエリア紹介

イコンの本

旧家と蔵


岡城は少し離れていますが、この辺りが竹田の城下町と呼ばれる地域。穏やかでしっとりとしています。

歴史ある町ならではの細い道は、車移動よりは歩くのが◎。その面倒くささが体感時間を変えてくれます。

路地には蔵があり、旧家の御客屋敷も。マリアではないかと言われている置物も見かけました。「・・・と言われている」という言い方は便利ですが、問題含みですね。




御客屋敷

解説板

マリア?

チキン南蛮定食


お昼はチキン南蛮定食。「南蛮」がらみはわざとなんでしょうか。Gさんおすすめの店だけあって美味しいです☆

大分は鶏が有名ですね。鶏の天ぷらとか。Hちゃんがめっちゃ推してました、鶏と温泉。

これにキリシタンをプラスして三大推しメンとしたいところですが、歴史認識とロマンの狭間で、うーん悩むなぁ。

実のところ私は、竹田には「隠しキリシタン」の可能性があって、迫害によって生まれた「隠れキリシタン」とは違う、明るく平和なキリシタンの姿を見ることができるのではないかと期待してやって来たのです。それが今、私の中で逆の方向に転換しつつあるのは、どうしてだろう? 「推し」の強さによるものかもしれませんね。



姫野一郎商店


店を出て、キリシタン遺物が発見されたという姫野一郎商店に行ってみましたが、定休日で超残念。

椎茸と佃煮を扱っているお店だそうで、それだけでも行きたいくらいです。そう言えば椎茸などキノコ類も大分の名産でしたね。

帰り道に見かけたのは、観光用に整備している駐車場(建物もできるらしい)と、先ほどの異相地蔵の話に出てきたおばあさんの檀那寺。電線の地中化も進めているそうです。それは良いですね。



姫野一郎商店

駐車場工事中

檀那寺

とある店先

垂水屋跡


キリシタン資料館に戻り、Gさんが自分の車を取って来てくれるまでの間、垂水屋跡へ。このビルがある場所が垂水屋の跡。カリヨンがシンボリックに建てられています。

元文3(1738)年、数十名の者が役人立ち会 いの下に絵踏みを行っていたところ、あまりの重さに床が抜け、役人もろとも床下に転がり落ちました。

するとそこは地下室になっていて、奥にはマリア像が置かれた祭壇が設けられていたという・・・あの事件はここで起こったんですね。

Gさんが付近の商家を調査すると、現在でも古い地下室のある商家を3軒も確認することができたそう。それらが礼拝堂であったかどうかは不明ですが、垂水屋と同じ目的で設けられたものが他にもあっても不思議ではありません。だからと言って、「町割奉行や藩がそれを知らなかったはずがないから、藩ぐるみの『隠しキリシタン』だった」とは言えないと、私は思いますが。

結論を急ぐより、しっかり見ることですよね。証拠があれば集め、精査すべきですし。「隠しキリシタン」は一つの仮説であるにも関わらず、示唆が強すぎて、却って「そうかなあ?」と思わせてしまうきらいがあります。少なくとも私にとってはそうです。示唆通りに信じるイージーな人間だったら、感動しきりで帰るんでしょうけどね (^^;)



カリヨン

解説板

南画館

竹田駅


 キリシタン洞窟礼拝堂♪


キリシタン洞窟礼拝堂


では殿町にあるキリシタン洞窟礼拝堂へ。ここが見たくて大分に来る人もいるだろうというくらい、神秘的でビジュアル的にも惹かれる史跡です。

以前は洞窟礼拝堂の周囲にもっと竹が生い茂っていて、「ここ入って行っていいの?」と思うような小道を通りましたが、訪れる人が増えたためか刈られていますね。

江戸期にはもっとずっと隠れ場所っぽい様子であったことは間違いなく、付近には5か所の見張所があったのだとか。礼拝堂の下には清水が湧き出ている泉があり、横手には集会ができそうなもう一つの洞窟。洞窟礼拝堂の白木の柵は後に作られたものです。


岡藩家老 古田重治って?


この場所は岡藩家老であった古田重治所有の土地であったのではないかという説があり、彼はヨハネ・ディダーコという洗礼名を持つキリシタンだったと言われていることが、洞窟礼拝堂だったとされる理由です。

古田織部がキリシタンだったとは私は考えていませんが、「古田織部がキリシタンだから、その血を引く古田重治もキリシタンでしょう」と言う人もいます。重治が織部の血を引いているかどうかも、私は懐疑的ですけれども、それでも重治がキリシタンであった可能性は十分あると思います。

そしてこの設(しつら)え・・・、周りを竹藪に囲まれた隠れた空間に礼拝堂と集会場、ミサに用いる水を得ることができる泉が揃えば、潜伏キリシタンの礼拝場所として完璧です。



向かいの崖

下には湧水

周囲は刈られて

竹藪

洞窟礼拝堂


こちらがキリシタン洞窟礼拝堂。何かただならぬ雰囲気を発していることは、こんな朴念仁(私)でも感じます。

これはやはり礼拝堂、込められた祈りのある場だろうと思わずにはいられません。

「入ってもいいんですけどね。あ、カギ掛かってるなぁ」とGさん。え、中に入ってもいいんですか!?
聞けばHちゃんも入ったことがあるそう。下の柵を外して入ればいいと聞き、喜び勇んでGo!
壁のくぼみ、ドーム型になっている天井・・・。ローマのカタコンベを思い出しました。

カタコンベは墓ですが、石灰岩を掘り進んで生活できるようにしてあり、中に礼拝堂も設けられているのです。その礼拝堂と雰囲気が似ています。ローマの迫害期に作られたカタコンベと、潜伏しなければならなかったキリシタンの礼拝堂が似ていることは、影響があったというより、必然的に似てしまったと言うべきでしょうけれど。動画も少し撮りました↓☆彡





洞窟礼拝堂入口

解説板

壁のくぼみ

天井

外を見る

階段

前の庭

洞窟礼拝堂

隣の洞窟


隣の洞窟は50人ほど入れるスペースがあり、昔は上の崖がもっと前面に出っ張っていて、中の空間が広かったのだとか。

集会場にぴったりですね。

「宣教師さんはここに住んでいたんですか?」と聞くと、「宣教師が住んでいたのは山の反対側です。後で行きます」とのこと。車を出して案内してもらい、感謝です。VIP待遇ですね!(皆に良くしてくださっているようです☆)




パジェス「日本切支丹宗門史」によると


ここにいたとされるのがフランシスコ・ブルドリノ神父。レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」では、1617年の記述で、ブルドリノが豊後の洞窟に隠れていたと示唆し、「殿の1人は、神父の居所を知りながら目を閉じていた」と記しています。それでこれをもって「隠し」たとする意見もあります。

しかし当地を訪れ、直接その話を聞いた(Gさんによるとよく頷いて聞いていたという)服部英雄教授(歴史学、特に天草島原一揆の第一人者)は「史料がなく積極的に『隠し』と言えない」と述べています。ただ、「サンチャゴの鐘が見つかったことを考えると、江戸初期に藩がキリシタンを黙認していた可能性はある」と。

私もこれと同意見です。性急に「隠しキリシタン」推ししなければ、研究者が忌憚なく意見を述べることができ、その様子を見た各分野の専門家が協力する体制も生まれます。いい形で研究が進めば、結果的に岡藩がどの程度の寛容さを持っていたのか、学術的にも確かな線が徐々に解明されていくと思います。




集会場だった?

崩落の危険

前のスペース


久土稲荷


では車に乗って久土稲荷へ。殿町のキリシタン洞窟礼拝堂と酷似した洞窟(土地所有者によるといつの間にか稲荷社になっていたという)があると聞き、是非連れて行ってほしいとお願いしたのです。

トンネル脇にあるその稲荷社には、崖をよじ登らねば行けないということで、鎖が設置されています。「いきなりアドベンチャーやん!」と思いながら、鎖を掴み、へっぴり腰でどっこらしょ。



久土稲荷


こちらが件の久土稲荷。人工の五角形をした入口といい、中にある祭壇のような彫り込みといい、確かにそっくり。上部の凹みの十字架だけが後に置かれたものだそうです。

Gさんが城下町にある稲荷を片っ端から訪ね歩いたところ、他にもこことよく似た稲荷が100か所ほどもあり、洞窟とセットになっている所も多数あったということです。

そこでバチカンのチェノットゥ大使が竹田を訪れた際にも、こちらをご案内したんだとか。その様子がバチカン新聞にも載っているというのは初耳。記念植樹までされていますね。竹田頑張ってるな。フォンテス神父のネットワークとコネが大きいと聞きました。



久土稲荷

久土稲荷内部

バチカン大使

バチカン新聞

バチカン新聞

中のくぼみ

天井はドーム状

隣の洞窟


久土稲荷の隣には多くの人を収容できそうな洞窟(天井は低いが、側面にくぼみ有)があり、かつては地続きだったトンネル向かって左手の洞窟には水の湧く泉があります。

キリシタン洞窟礼拝堂の構成要素を完備していますね。人工の洞窟のことを防空壕だと言う人もいるようが、戦時中より前からあったのなら、それは通らない話。

このような稲荷が100か所あるというのは、礼拝堂としては多すぎて、逆に信憑性が薄いですが、多くの稲荷社の中に礼拝堂を隠したというのなら頷ける話。洞窟とセットになっている所は礼拝堂だった可能性もあるかと思います。しかし可能性があるからこそ、冷静に見るべきでしょうね。

道を挟んだ反対側の山には、人為的に宗教的なものが彫られた石があるのだとか。未調査らしいですが、大分なら磨崖クルス的なものとかあってもおかしくないですね。



隣の洞窟

集会場?

洞窟内部

トンネル向こうに泉

反対側の山

稲荷からの景色

岡藩主おたまや公園


では次は岡藩主のお墓へ。現在は「岡藩主おたまや公園」となっています。ここは元々英雄寺というお寺で、隣にある碧雲寺らと合わせて3つの寺院が並んでいました。

これは江戸時代の寺請制度により、キリシタンが檀那寺を持たなければならなくなり、寺が足りなかったので、一気に3つもできたという話を聞きました。

墓碑にキリシタンっぽいデザインやマークが刻まれているので、それらを見せようと連れて来てくださったようです。入って行くと、まず広い庭がキレイですね。季節の花が咲く頃はまた格別なんでしょう (o^^o)



公園



鬼瓦

ダイヤ


こちらが灯籠の上部を外したときに現れたダイヤ模様。墓碑や灯籠に刻まれた丸はマリヤを表し、卍もキリシタン墓碑にある特徴だと聞きました。

私としては――、そういう風に言っている人たちがいることは承知しています。そのような隠れキリシタン研究家の人たちが、毎年各地でキリシタン墓碑を新しく「発見」していることも。

だけれど私の考えは、「そうと限らない」ですね。私はどんな説にも耳を傾けることにしていますし、説明も真摯に聞いているつもりです。しかしそれを受け入れるかどうかは別。Gさんも、そんな頭の固い人間がいるのをご承知のことでしょう。結論づけて言っている訳でもないので。



灯籠の裏にダイヤ


赤い〇

戒名


カマボコ石

戒名がキリシタン?


灯籠


仏教にしてはおかしい(?)、キリシタン風の戒名がついている墓碑も多数見せていただきました。「これはこういう意味になる」という解釈も。

周囲を取り囲む山に家臣団の墓も多くあり、十字を彫ったものや、「帰空」「赤心」「理安」などの戒名を持つものがあるそうです。

「理安」は今でも洗礼名リアンとかあるのでキリシタンだろうなと思うのですが、他はいささか疑問。たぶんキリシタンを研究している人がそうだと言ったので、そう説明してくれているのでしょうけど。

実際キリシタン研究者も様々で、「×」はアンドレアクルスだからキリシタンだと言って、×が刻まれた地蔵尊をキリシタン遺物としてカトリック教会に安置しちゃう人もいます。大学とかに属して学術的な研究している人でなければ、どんなにキャリアを積んでようと、本を出してようと、信用するのを避けた方がいいと思います。

灯籠の火袋が月をくり抜いているのはマリアを象徴するという話、刻まれた漢字がキリスト教的であるという話、偶然かもしれないけれど、灯籠の寄進された年月日にやけに「十」が多いこと、「十」が十字架に見えなくもないということを聞きました。断言している訳ではなく、可能性を示すという言い方で。私的にはどうだろうなーという感じです。



火袋に月

刻まれた文字

慶長年間

十字架に見える十

藩主のお墓


歴代藩主のお墓は、独立した墓域内にそれぞれ柵に囲まれてありました。こちらは岡藩初代藩主 中川秀成のお墓。

去年賤ヶ岳で中川清秀の墓に参り、彼と高山右近の生死を分けたものが何だったのか考えましたが(旅行記北国の使徒たち9)、秀成は清秀の息子(次男)だったんですね。

父の家督を継いだ兄・秀政が文禄の役で朝鮮にいるとき暗殺され、家を継ぐことになった秀成が、生まれ故郷の三木城から移封されて来たのが岡城でした。

過酷なのは、秀吉の命により父の仇である佐久間盛政の娘・虎姫を嫁に迎えたこと。中川家中の者、特に母(清秀の妻) である性寿院はこの憎い仇の娘を許さず、虎姫は領国に入ることなく、死ぬまで京都で離れて暮らしました。「人に歴史あり」と思い、墓の前でおさらいしてみました☆


六代藩主 中川久忠のときも考えてみよう


垂水屋事件が起こったのは、六代藩主 中川久忠のときになりますね。城下で大火災が発生し、続いて旱魃と風水害、旱魃に立て続けに見舞われて、領民の救済と財政再建のために奔走したと歴史書に書かれています。苦労したんですね。庶民はもっとだったでしょう。そんな中ですがるように礼拝していたのではないかと思うと、「珍事」とは言えない気が。

大体、最初の大火災が起こったのは殿町で、侍屋敷34軒、町や242軒が消失したと記録にあるので、あの殿町の洞窟礼拝堂、古田氏の屋敷も燃えたと考えられます。その際どうしたんでしょうね。久忠の時代のことをもっと知ることができたら、信徒の暮らしぶりや願っていたこと、キリシタン摘発の背景などが分かってくるかもしれないですね。

(↓の藩主の戒名を刺している指は、戒名のキリスト教的解釈を講じてもらっているものです)



初代藩主 中川秀成

初代藩主 中川秀成

二代藩主 中川久盛

二代藩主 中川久盛

四代藩主 中川久恒

四代藩主 中川久恒

五代藩主 中川久恒

五代藩主 中川久恒

カマボコ石


ふと見ると、歴代藩主の墓域の左端に2基のカマボコ石が。一見キリシタン墓碑に似ているなと思ったので尋ねてみると、戒名や没年月日が一切、彫られていない謎の石なのだとか。

これを墓碑と考えて、初代藩主である中川秀成と正室虎姫のキリシタン墓ではないかと言う研究者(!)がいるらしいですが(「確証はない」と公式サイトに書かれています)。

とりあえず秀成や虎姫、中川氏の歴代藩主が洗礼を受けたという記録は無いので、彼らのものとは考えられません。私も一瞬「キリシタン墓碑かな?」と思ったのですが、下のサムネイルに挙げた写真をご覧ください。藩主の墓の柵(低い石塀)の上部に用いられているのが全てカマボコ石。

竹田ではカマボコ石がとてもポピュラーで、岡城の石段、石塀などの上部もカマボコ石で覆われているのです。 そんな石材としてのカマボコ石のいくつかが、墓域やどこかに残されていて、後に何か意味がありそうだと墓域の隅に置かれたとしても、不思議はないかと。

もしキリシタン墓碑ならば、見えなくなる下部にでも十字などを刻みますよね。他に堂々といろんなマークや文字を刻んだ石がここにはあるのですから。〇や卍、十なら見える位置でも良い訳です。

あくまで私見ですが。「藩主夫妻のキリシタン墓ではないか?」と言ってしまう研究者に比べたら、遥かにロマンのない解釈ですけど (;^_^A



カマボコ石

カマボコ石

藩主の墓の柵

上部にカマボコ石

周囲の山


周囲の山に、藩主を守るように建てられているという家臣団の墓碑。その中にキリシタンのものがあるだろうことは、信じてもいい「線」だと思います。

だけれど、そのような一定の信じるに足る根拠のある「線」を大きく逸脱したことは、考えを留保して、冷静に扱った方がいいと思うのです。

素人が自分の意見を言うのは自由ですが、少なくとも行政や、地方自治体の関係団体では。もちろん竹田キリシタン資料館の解説や公式サイトではそのような断言は避けた表現に留めています。「広報たけた」においても、ミステリーの域に留めた表現で記されています。

だけれど、実際に話を聞いたり、説明を受けると、そちらにリードする「圧」が結構あります。導く先が「隠しキリシタン」です。それを感じると、全てはそれが言いたいがためのものだったように見えてしまいます。

すると歴史を真摯に紐解き、本来の姿を見たいと考える歴史ファン、キリシタンファンは気持ちが離れるしかないのです。示唆が過ぎることがないように、またトンデモ研究者ではなく学術分野と連携するように、是非お願いしたいところです。



藩主の墓域


変わった文字

間違った漢字


 竹田のキリシタン殉教地


鏡処刑場跡


では次は殉教地に。岡藩の刑罰場だった鏡処刑場跡です。

ここは絶対に来たかった所。

記録によるとここで44人のキリシタンが処刑されたのだとか。

ここにもバチカン大使がいらっしゃり、その後カトリック教会によってミサが行われたそうです。Gさんはそのどちらにも参加し、大使をご案内したそうで、その時に起こった不思議な出来事について語ってくださっています↓。クリスチャン的に言うなら「証」に相当するお話ですね。

途中で、ローマ教皇の来日された年を私が「1988年!84年だったかな」と言っちゃってますが、正しくは1981年です。お恥ずかしいミスですが、そこだけ音声を消すこともできず・・・。



供養塔

刻まれた文字

鳥の顔に見える?

何かの文様?

供養塔

横にも

バチカン大使


大庄屋 大津家


次に連れて行ってくださったのは、元大庄屋の大津家。現在は「お食事処 大津」が盛業中で、Hちゃんは前来たときはここでご飯を食べたそう。

大きめの普通の民家に見えますが、注意して見ると鬼瓦にくっくりと刻まれた十字紋!

この辺りでは十字紋と椿を外から見えるように植えることで、一家がキリシタンあることを示し、婚姻を結ぶときに役立てたのだとか。キリシタン同士でないと結婚できないから、ということで。異教徒との結婚は「禁止」というより、それが望ましかったんでしょうね。家同士の付き合いもしやすいでしょうから。



元大庄屋

十字紋

鬼瓦

お食事処

宣教師が暮らした洞窟


こちらが宣教師が暮らしていたという人工の洞窟。大津家の敷地内、屋敷の左手の方にあります。

洞窟は三つあり、一番左がトイレ(後述)。

ここに誰かが隠れ住んでいたとしたら、匿ったのは大津家しかあり得ませんね。こちらに宣教師が住んでいたのではないかとGさんは推測しています。なるほど。


洞窟は三つ


では三つある洞窟を右から見ていきましょう。右端の洞窟は五角形で、中には祭壇になりそうな段差が。横手に前面からは見えない小さなスペースがあります。大津氏の話によると、これらの洞窟は三代目当主の弟がキリシタンであったことから、禁教下でキリシタンを匿うために掘られたのだとか。

Gさんはそれを、キリシタン信徒ではなく、ヨーロッパからの宣教師だったの ではないかと考えています。その理由は、明治初期までここに火薬工場があって弾を製造し、岡藩が大砲で試し撃ちを行っていたので、火薬の製造に詳しいヨーロッパ人の宣教師が関与していたと考えられるからだそう。

以下はGさんの説です↓
「戦国時代の大名は火薬の原料となる硝石を南蛮諸国から競って輸入したが、江戸幕府になって硝石の輸入を禁止された諸藩は火薬の製造に苦労した。しかし岡藩では「久住方式」と呼ばれる独自の方法で、久住硫黄山の噴煙の中から硫黄を取り出し、硝石も人糞、尿を利用して製造した。さらに、鉄砲の弾になる鉛は尾平、木浦の両鉱山から豊富に産出された。火薬や弾の原料には事欠かなかったようだ。

だが、当時の日本人にこれらの原料を駆使して火薬を製造する化学知識は無く、南蛮渡来の知識と技術に頼らなければならなかった。だからこそ、 この洞窟に隠れ住んだのは日本人ではなく、岡藩内で火薬製造の技術指導を行うことを目的として隠れ住んだ南蛮人宣教師ではなかったかと思うのだ」



裏を取ってこそ信憑性あるものに


信憑性のある話ですが、裏を取らないと賛成も反対もできないですね。宣教師は「火薬製造の技術指導を行うことを目的として隠れ住」むことはなかったと思いますが。宣教師が目的とするのはあくまで布教なので、火薬製造の技術指導は少なくとも目的ではないですね。

でも、それを達成するために一つの手段として技術指導をした可能性は否定できません。簡単に言うと、匿ってもらう代わりに技術提供したかもしれないということです。しかしそれなら、仮説を裏付けるエビデンス探しをするべきではないでしょうかね。

火薬製造工程に出る残渣や南蛮人の遺骨などの遺留品の調査を。竹田のキリシタン史は今や仮説によるミステリーから、エビデンス探しへと移行しなければならない段階なのだと思います。



三つの洞窟

右端の洞窟

脇にスペース

祭壇になり得る段差

二つ目の洞窟


二つ目の洞窟は長方形で、奥行きの浅いもの。住居にしては狭いかなと、現代人は思ってしまいますが、昔はもっと違う様子だったのでしょうか。

左端の洞窟がトイレ。結構リアルです。糞尿を外に出せる穴が設けられています。

人が実際に住んでいたなら、土中に染みたり、埋められたりして、何か残留物がある可能性はあると思いますがね。なかなか発掘調査や検査までは予算がつかないのかなぁ。



長方形の洞窟

洞窟入口

見えない角度にトイレ

排泄物を出す穴

洞窟より


洞窟の前には広い庭があり、その向こうには学校か役場のような建物が見えます。今は庭を隠す木々もなく、見晴らし良好なのですが、誰かを匿っていたなら、当時は木で目隠ししていたことでしょう。

そう、やはりそろそろエビデンスを出して、証明していく方向に舵を切る時期じゃないかと思います。もう既に伝・ヤコブ頭像は材質の分析とかしているので、やれる物からやっているのかもしれませんけど、もうちょっとハリーアップというか。

お金になるかどうか分からないものに予算が付きにくいのは理解しますが、広報活動より、結局残るのは証拠です。「ミステリーとして楽しもう」という、「ミステリアス!推し」はそろそろ限界を迎えているのではないかと感じます。「ミステリアス!推し」路線がダメとかではなく、そこから少しずつ、実際にどうであったかを解明する動きへ転換していってはということです。

その方が息の長い観光資源になるということは間違いないと思いますので。今の路線のままだと、例えば仮説の一つが誤りだと指摘され、証明されたら、他の仮説も連鎖的に否定される雰囲気になってしまいます。

すると竹田キリシタン全体が信憑性の低いものと判断される危険性があります。キリシタン的だという紋章や戒名の一つ、「キリシタン遺物」としている物の一つでも、です。エビデンスを備えていくことは、大きな崩れを防ぐ砦のようなものではないでしょうか☆



前の庭

見晴らし

石造物

大津家


 原のキリシタン墓碑を求めて( ̄▽ ̄)


原のINRI碑へ


それでは、大変お世話になったGさんにお礼を言って竹田キリシタン資料館を後にして、どうしても一目見たくて仕方ない原のINRI碑を求めて直入町の原地区へ。

資料館でレプリカは見たけれど、それがどんなに精巧なものであっても、レプリカからは物語を感じにくいんですよね。

それにせっかく現地まで来たのに、現物が見られないだなんて、何をかいわんや(※何とも言い様がない)です。

資料館からは車で30分ほど。書いてもらった地図通りに行くと、スマホのナビにも出てきて、ありました! あの覆い屋の下にあるはず~(*'▽')



見えてきた

墓地から少し上がる

書いてもらった地図

カッコいい紙袋

原の地区


思わず走り出しそうになる心を抑えつつ、年齢に即した落ち着きと冷静さを保って、一歩ずつ覆い屋の方へ。

少し丘になっているので転ばないよう、あわてんぼうマダム(私)には、注意が必要です。

ああでも心は走っちゃってます。ルカスー!



原のINRI碑


こちらが正面から見た原のINRI碑。

朽網にいたルカス(資料館では三船敏郎風に描かれていた)の墓碑の一部と考えられています。

干十字の上の部分ですね。

実際に見たら、なぜかレプリカより小さく見えます。周囲との対比で見るから、ガラスケースに入れられた状態とは受ける印象が違うようです。「思ってたのより小さいぞ」と、自分の感想が持てるのがうれしいですね。動画も撮ってます↓





小石に囲まれて

横からINRI碑

解説板

解説板

朽網~!


日向塚という所にも、原のINRI石碑とほぼ同型の十字架上部が残されているようですが、そちらにはINRIの文字は入っていないそうです。

本物のキリシタン遺物が一杯ですね。いいなぁ。

こちらにもバチカンのチェノットゥ大使が来ているみたいで、標柱が建てられていました。バチカンも注目しているのだから、やはりミステリーの次元では終わっちゃいけないですし、終わる必要ないですよね。ばんばん研究費投入してほしー!



バチカン大使

覆い屋

朽網

岡にある

長湯温泉


長湯温泉も私の憧れの場所。宣教師が入ったに違いない長湯の温泉にも入って帰れるなんて! こんなにいいことが一日にたくさんあって、鼻血出ないかなと思うくらい(この際出そうかw)

道の駅みたいな所で地元のお菓子を買って、すっかり湯治気分。

この前の道、宣教師が通って行った道かな? 府内から朽網を経て熊本へ、九州横断の旅ですよ。この後阿蘇の外輪山と内輪山を次々と越えていく前に、温泉に身を浸し、信徒とも交わって一休み。宣教師のリラックスポイントだったんだな、ここ。

あの人たち現代でも起伏の激しい難路を何往復したんだろう。九州横断に4日くらいしかかけないで、めっちゃ歩いてる。車なんてないし、馬に乗ったのでもなく。宣教師アルメイダは仲間から「生ける車輪」とかあだ名されていましたね。今風に言うなら、「人間タイヤ」。「お前タイヤかよ!」っていうくらい、難路を物ともせずちゃっちゃか歩いてずんずん進んで行ったのでしょう。・・・ちょっとウケる (;^ω^)






日帰り温泉 御前湯


それでは日帰り温泉 御前湯へ。渓谷の眺めを楽しめる露天風呂が人気なんだとか。入浴料500円って、関東では信じられないです。

お湯は炭酸泉。炭酸ガスが多く含まれているので、それが毛細血管を拡張し、血液の循環をよくするようです。

つまり美人の湯!(勝手にそう思って入湯)



御前湯

御前湯

入浴後の休憩


お風呂から上がって休憩室でお茶。飲食物持ち込み可。ここで酒飲んで騒いだり、人に迷惑かけたりとか全然想定していない緩さが素晴らしいです。

規則が多くなるのは問題が起こるからなので、緩さは安全さの目安でもありますね。長湯のキリシタンたちも、規則で縛るのではない自律でもって、緩く平和に生きていたんじゃないかな。






時間が過ぎ去るように


時間は、じっとしていたら速く過ぎて行き、走ったり動いたりすれば、ゆっくり過ぎて行くようです。目は覚めたんだけど、ぼーっとしていたら、すぐに10分が過ぎてました。寝ぼけ頭で考え事をしているうちに二度寝してしまい、1時間過ぎてたことも・・・(;^_^A

これ、人生も同じだったら大変なことですね。日々の生活に追われるばかりで、何か積極的に動いたことがないと、いつの前にか大量の時間が流れ去っていき、え、もう人生終了ですか?みたいな。カラオケ店のように延長もできないし。

時間が目に見えるものならば、砂時計のように減っていくのが見えて、「こりゃいかん」と気付けるでしょうけど、そうでないから速く過ぎ去っていく時間を惜しいとも気付けません。だけれど時を止める術はないのだから、走り、動くべきなんでしょうね。

家であれこれ考えているよりは、こちらに来てみて良かったです。下調べする時間がなかったから準備不足で来てしまいましたが、機会が与えられたら、とりあえずでも九州に来るのは、キリシタンに関心がある者にとって、走ること、動くことになるのだと感じております。

あと一日ですが、とことん歩いて、長い旅だったなと思えるようにしたいです♪






                                  NEXT >>