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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 おたあジュリアの横顔 vol.2



朝~!神津島にいられるのは今日のお昼過ぎまで。限られた時間の中で、行くべき所に行けますように。郷土資料館と山の上に建てられた十字架には行きたいな。温泉も入りたい。時を惜しんで出発 ((((*´▽`*)))



民宿の朝ご飯


予想を裏切らぬ、民宿らしい朝ご飯。幼き頃の家族旅行を思い出します。海に行って泳いで、民宿に泊まって、波音に誘われるようにして眠ったっけ。

・・・いや、朝だね、今は。シャキッとせねば。部屋をチェックアウトして荷物だけ置かせてもらい、資料館へと向かいましょ☆


神津島郷土資料館


神津島郷土資料館は宿のすぐそば。建物新しくてきれいですね。税収が気になります(昨日から言ってる汗)。

島の主な産業は観光と農業だと聞きましたが、思いのほか栄えているように感じます。東京都だからでしょうか。

敷地内には島内の遺跡や遺物が集められ、常時見られる形で展示されています。海と共にあった民の様子と、古代からの人々の営みが伝わってきますね。




解説板

展示物

古い橋

館内


静かな館内には古から現代までの歴史を物語る遺物と民芸品がパネル解説と一緒に並んでいます。

建物は新しいですが、ワープロ打ちと手書きの混じる解説札を見ると、展示は20年以上は前に構成されたんじゃなかなーという感じ(分かりませんが)。

寄贈された物が多いので、こんなに並んでるのどう?と思うくらい日本人形が並ぶ一角があったりします。有名な人形作家さんなんでしょうけど、全体のバランスというものが・・・。古文書も展示されていますが、「神社の木の処分について」って、うーん (-ω-)

長野県佐久市とのつながりを説明する解説パネルを見ましたが、確かその地方にジュリアの墓と言われる二重方塔と同型の宝篋印塔があります。神津島は決して閉じられた島ではなく、昔から本州とつながりを有し、文化的影響を受けてきたんですよね。だから本州の宝篋印塔と同様の物がこの島にもある訳で。それなら、それはやはり宝篋印塔なのだと考えるのが適当だと思います。



民具

漁具

展示ケース


日本人形

漁具

佐久市とつながり

古文書

おたあジュリア関連の展示


おたあジュリア関連の展示もありました。この展示ケースは比較的新しいもののようです。

解説板は板に墨書きですけどね。気合入っているというか。

ジュリア祭の歩みや日韓交流の様子も紹介されています。ジュリア祭ももう50回を数えようとしているんですからね、その間の日韓関係を思えば、続いてきたこと自体に意味があると言っても過言ではないかと。厳しいときもあったに違いありません。


おたあジュリアの墓「発見」


ではどのようにして、おたあジュリアの墓が「発見」されたのか、最初にそう主張し始めた人の文章から辿ってみることにしましょうか。その人の名は・・・、正確を期すために名前出しますね、山下彦一郎といいます。この人が書いた「神津島古跡の解明」に、ジュリアの墓「発見」の根拠が述べられています。


それを読むと、彼がジュリアの墓と認定した根拠は四つ。
①「支那朝鮮風で二層方塔」
②「銘がなく、誰の墓か全く不明であること」
③「風格が有ること」
④「ジュリアは神津で終ったのにそれらしき墓が他に無い」こと、です。



これって、歴史学や考古学ではないですよね。自分の主観による推測、簡単に言うと個人の想像です。大体「支那朝鮮風で」はないし、「ジュリアは神津で終っ」てないし。銘が無くて風格があるからジュリアの墓と判断するなんて、「えーーーーっ!?って感じです。こんな主張が端緒になって、今に至っていると思うと空恐ろしくなります。


風習の改竄?


山下が言い始めた後、様々な人がこの説に興味を抱いて絡んでくることとなり、次第に島民の話題にも上るようになっていきました。そんなある日、流人墓地の掃除をし花を供えるなどしていた老婆の元へ一人の婦人が来て、墓地の二重方塔(のちにジュリアの墓とされる)には線香を十字の形にして上げてほしいと頼んだそうです。

老婆は荒れるままになっていた流人墓地の様子に心を痛めて草刈りをして、お供えをしていただけで、ジュリアの墓だという認識も全くなかったけれど、言われるままに翌日からは二重方塔にだけ線香を十字に組んで上げるようになったのだとか。

するとその後調査に来た島外の研究者たちは、そのお供えの仕方がキリシタンであるジュリアの墓である証拠と考えてしまい、話が更に進んでいくこととなりました。しかし島に住んでいた山下らは、老婆が最近になってそのように供えるようになったことなどを十分知っていたはずで、それを伏せ、ひいては援用したことは風習の改竄と同じです。


ジュリア祭の誕生


話を簡略化するため端折ってますが、山下だけでなく、この話には田村襄次、海老名雄二、田中英一という人物が加わってくることで、推理と推測が花盛りになり、ついにはジュリアをテーマとした祭をしようという話が出てきました。当時島にはこれといった観光資源がなく、夏に海水浴客が殺到するだけだったので、このアイデアが持ち込まれた神津島村役場では話に乗ることに決めました。

その際確実な資料もない以上、あくまでジュリアの墓というのは「参考墓」とすべきでしたが、村では郷土史家を自任していた山下や新聞記者だった田中の話に信憑性があると判断し、「ジュリアの墓」と書いた解説板を建てるようになりました。

また村役場の中に「神津島ジュリア祭執行委員会」が設けられ、祭に向かって始動し始めたのです。その開催時期を5月半ばとしたのは、ジュリアが来島したのは大体それくらいの時期だったのではないかということに加え、オフ・シーズンに観光客を集められたらという皮算用が働いていました。

こうして昭和45年5月からジュリア祭が開催されるようになりました。このような一連の流れを時系列で追った「考証 切支丹が来た島」を書いた津田三郎は、ジュリアの墓とジュリア祭を創出した郷土史家たちを「推理史家」としています。同感ですね。新資料が出てきたのに「ジュリアの墓」という看板を下ろそうとしない村の態度に疑問を覚えますし。



キリシタン人形

解説板

おたあジュリア

作られた物

書かれた本

ポスター

展示ケース

日韓交流

神社


資料館の隣には神社が。島民たちが昔から詣でていたんでしょう。緑は鬱蒼と茂っていますが、荒れた感じがしないのは、今も頻繫に訪れる人がいて、手入れがされているからかと。

昔から自然の脅威にさらされ、同時に多くの恵みを自然から受けてきた、この地の住人たちにとっては、神仏に願いを掛け、現世利益を求めることは当たり前の宗教観だったと考えられます。

私が言うのも何ですが、キリシタンが数年間島流しになって来たことを殊更にクローズアップして、「キリシタンの島」としてアピールするのがいいのかどうか。「キリシタンが流されて来た島」には違いないけれど、それ以外の要素がもっと大きく、キリシタンはほんの一片に過ぎませんよね。特徴ではあるけれど、ジュリアからキリスト教信仰が広がったわけでもないですし。

私はジュリアの名を冠した祭が日韓交流行事としてあってもいいと思っていて、是非続けてほしいと願うほどですが、「キリシタン」アピールする姿勢はもう少し調整するのが良いように思います。カトリック教会も足並みを揃えて。どうでしょうね(*'ω'*)?



境内


自然

石段

青い鳥


ふと見ると、地面に見たこともない青い小鳥が。珍しいんじゃないですかね。

当たり前のような顔して、鳥の方は歩いていますけど。

貴重な動植物と美しい風景に、ごく自然に会える価値――。ここが東京都だということまで加味したら、どんなに価値あることか再認識できると思います。

おたあジュリアの墓をメインにしたアピールから、暖かい日韓交流が行われている島というところに軸足を移して、自然環境と組み合わせた観光振興がされるといいのかもしれないです。ねっ、小鳥ちゃん。



青い小鳥

自然



巡回バス


民宿に寄って荷物を受け取って、港のよっちゃーれセンターへ。そこで待つのは島内を巡回する村営バス。一本逃すとイタイので、余裕をもって行き乗り込みました。目指すは温泉。

今の時期は海水浴はできないので、水に浸かりたいなら温泉がベスト。時間があればダイビングもできるみたいですけどね。

せっかく島に来たんだから、何かアクティビティがしたかったんですよね。入浴をアクティビティと言えるか微妙ですが (^▽^;)



よっちゃーれセンター

よっちゃーれセンター


神津島温泉保養センター


神津島温泉保養センター前のバス停で下りて、館内で水着に着替えて、早速露天風呂へ。

露天風呂の規模が旅館とかと違って、ほとんど外って感じで、有り体に言うと海に面した岩場なので、水着着てないと裸で外歩いてるみたいになっちゃいます。

そのため、水着着用が必須。持って来て良かったー。道路の上渡りますしね。

昨日晴れてほしいと祈ったからか、めっちゃお日様サンサンで、日焼けが気になってしまいました。人間ってほんと文句が多い生き物ですね。晴れても曇っても、あれこれ言って。でもやっぱり温泉は気持ちいいです。海の香りも風も爽やかで♪



神津島温泉保養センター

屋内

露天風呂

窓辺

お昼はそば


お昼はセンター内でそば。屋内の雰囲気は、都会にもよくある日帰り入浴施設と同じですね。窓から見えるのが、波打ち際の、正に「天然!」の温泉であることを除けば。

ここからタクシーを拾って、十字架のある山に行って、フェリーが出航する港までスムーズに行けたら満点。今日は船、揺れそうにないし。


山上の十字架


タクシー呼ぶのに若干苦労しましたが、何とか乗れて、気のいいおっちゃんと会話しながら山上の十字架を見に行くことができました。

白亜の十字架、輝いてますね。あ、「ジュリア終焉の島」って書いてありますけど・・・、違うからっ!

バチカン大使も来たみたいですね。司教のお祈りで祝別されたと黒御影石に刻まれています。それは大変なことですね。今更違っていたとは言いにくいことでしょう。でも訂正しなければと思いますね。こういったことを放置していくうちに、また誰かが勘違いして、もっと大変なことになるかもしれないので。



白亜の十字架

「ジュリア終焉の島」

バチカン大使

解説板

海と山


海の色は、浜辺の方は乳白色に濁っていて、岸から離れた所は青インクのようで、何とも素敵なグラデーション。

空までコラボしてキラッキラの光線で波を照らしています。

山の上は風が強くて、話し声も聞こえないくらいですが、それは人の声ではなく自然の声を聞けと言っているかのよう。ここは黙って、自然の中で語られる神様の言葉を聞きましょう。自分の心からは賛美を。「神様~、自然が本当に美しいですよー」と。







天上山


港に向かいながら聞いたところでは、神津島は若い世代の移住がしてきて、子供も生まれるので、都内では珍しく出生率が高い地域なのだとか。

島内の島は他にもあるけれど、人口が増加するまでしているのは神津島だけだそうで。そんなことがあるんですね。

島の中央にそびえるのは天上山。標高は572mしかないけれど、白くてきれいです。今度来たら登ってみたいな。四季折々の花も咲くそうで。





オブジェ

埠頭

見送り


無事フェリーに乗り、島民に見送られ、汽笛と共に出航。離れていく島影を見ながら、頭の中で神津島の良さを数えていました。自然、温泉、食べ物、歴史と文化・・・。

ジュリアの墓があると言っていることや、「ジュリア終焉の島」碑を建ててしまっていることは、認識を正して、しかるべき措置を講じるべきだと思います。

だけれど、キリシタンにかこつけて「マリア観音」やら「キリシタン地蔵」を捏造し、様々な石造物をキリシタン墓だと言って混乱をきたすようなことは、少なくとも私が見た限り神津島ではなされていないので、それは良かったと思います。

見慣れない形の石造物があっても恣意的にキリシタンと結び付けず、冷静に判断しているからかと。キリシタンが来た島だから、実はそういうこと言う人が出てきてもおかしくないんですよね。〇や×、+や各種の模様や戒名をキリシタン特有のものとして、キリシタン遺物認定してしまう人が時々いるのです。

是非その冷静さと判断力を生かして、古い説に従って建ててしまった碑や解説板を修正する勇気を発揮していただきたいところです。難しいとは思います。やりたくないことでもあるかもしれません。

でも、神津島で増えているという若い世代と子供たちのためにお願いします。正しい歴史認識で、島のことを誇りに思ってもらいたいじゃないですか。私の言っていること、そんなにバスター(退治する者)ですかね?笑



太陽



航路


 下田へ♪


下田


帰りは難なく海を渡ることができ、無事下田港へと到着。行きは急いでいたのでタクシーで移動しましたが、帰りは歩いて下田公園や町を回って、駅へと向かうこととしましょう。

港からの遊歩道にはスクリューなど航海に関するオブジェが置かれていて、散歩する人の目を楽しませてくれます。

私の夫は幼い頃下田に住んでいたことがあるので、「懐かしい」を連発。思い出に浸る姿に話を合わせるのも妻の務めでしょうか。静かに午後から夕へと空気が変わっていきます。



港から

下田港

下田公園

公園案内図

下田公園 開国記念広場


港から徒歩数分で下田公園へ。中にある開港記念広場に来てみました。

記念碑に解説碑、銅像に説明板と、公園内には下田の歴史的特徴を表すものがいっぱい。

元々はお城だったはずですが、今では屋外にある歴史博物館ですね。昨日までが黒船祭だったようで、その名残も残っています。下田と言えばアジサイですが、今はちょうどその盛りなので、アジサイだけ見に来てもいいくらい素敵です。



開港記念広場

記念碑

解説碑

説明板

レリーフ

アジサイ

記念碑

アジサイ

ペリー提督上陸記念碑


広場から下りてくると、ペリリン(ペリー提督)。ペリー提督上陸記念碑の隣には「ペリー上陸の地」「日本最初の開港地」という解説板があります。

ペリーの子孫がこの地を訪れたこともあるようですね。献灯できるように、風除けのついたロウソク立てが用意されていますが、そこまでする人いるんですかね@@?

黒船を率いたペリーが浦賀に現れたのは、1853(嘉永6)年のこと。幕府からの返事がすぐ来ないので、一度戻って行き、再び日本を訪れたのが一年後でした。様々な交渉の末、日米和親条約が結ばれると、1856(安政3)年初代駐日アメリカ総領事としてタウンゼント・ハリスが来日しました。


ペリーとハリス


ハリスと通訳官ヒュースケンは下田に上陸すると、玉泉寺を領事館とし、和親条約から通商条約の締結を目指しました。そんな最中、ペリーは1858年にニューヨークで死去していますね。ペリーとハリスはタッチ交代するみたいに、日本開国のミッションを果たしたと言えるかと思います。

ペリーとハリスが2人とも、アメリカ聖公会の敬虔なクリスチャンであったことは、私にとっては大きな注目点で、それがあるから明日は下田でハリスの足跡を辿ってみたいと思っていたりします。明日夫は仕事があるので、今日私を残して先に帰っちゃうんですよね。それはちょっとつまらないかなー。



ペリー提督像

ペリー上陸の地

日本最初の開港地

ペリーの小公園

下田の町並み


下田の町は開国時のことを思いながら散歩するのにもってこい。特にペリーロードと名付けられた界隈は、歩いているだけでも楽しくなるような雰囲気で、当時から残る歴史的景観を見ることができます。

一大イベントの黒船祭が終わって、町はちょっとひと息ついているような様子で、猫ものんびりしています。この脱力感が、逆いいなと思います。気合い入った感じよりも。

吉田松陰ゆかりの史跡もあるようですね。今夜調べて明日の旅程に入れようかな。私は初めて見たのですが、紫と白の花弁が愛らしいアメリカジャスミンという花があちこちに咲いていて、強烈な匂いで酔いそうなくらい。不快な香りではないけれど、匂いの強さにびっくりです。これも町の特徴か。匂いも、来てみなければ分からない味だと思うので、感謝ですね♪




ペリーロード


大砲

アメリカジャスミン

町並み

なまこ壁


カトリック下田教会


教会にも行ってみたくて、スマホで検索してカトリック下田教会へ。想像していたのと違った雰囲気です。

勝手にもっとロマンチックな建物をイメージしていました (^▽^;)

だけど国際的な感じがしますね。下田には開港時だけでなく、今も多くの外国人が住んでいるんでしょうか。




アジサイ

建物


町並み

水路

ベンチ

アジサイ

昔ながらの中華そば


駅までの道筋で、中華店に入って夕飯を。「ラーメン」と言うより、「中華そば」と呼びたいような、昔ながらの中華麺。狙ってないのにレトロになってる感じで。

味はなかなかですが、頭痛がしてきてツライです。私は偏頭痛持ちで、こういう気圧がアップダウンするときが苦手なのです。フェリーで緊張していたから、その疲れが出ているのもあると思われ。嗚呼――。


中華店

新田御陣屋跡

古地図



初めての一人宿泊


私は一人暮らしというものをしたことがなく、一人でホテルに泊まったのも一度だけ。それも朝までまんじりともできなかったというエピソード付きです。

一人で泊まることがなかったのは、経済的なこともあるけれど、それより怖がりであることが主な理由だったりします。お化けとか幽霊とか(同じやねw)、その類が怖くて一人で泊まれないだなんて、この年齢では天然記念物かもしれません。だけど・・・ダメなんです。

そんな私が、今回一人で一泊することにしたのは、ひとえに下田散策がしたいから。もっとターゲットを絞って言うならハリスの足跡を追いたいからです。下田には「唐人お吉」の話が広まっていて、その中でハリスはすごい悪役なんですよね。

でもそんなことない!というのが私の主張で、それを証明したい気持ちが大きいのです。一人で歩き回ったところで、覆せるほどの証拠は見つからないかもしれませんが、自分が納得できるような答えは得たいと思っておりまして。

そんな訳で今夜は眠れません。そう、怖いから! 寝てる間に誰か来たり、火事が起こったり、幽霊に髪掴まれたりしたら嫌だからっ(想像力がたくまし過ぎるか?)。朝まで電気つけて本読みますわ。それではアディオス (≧◇≦)ノ






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