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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 おたあジュリアの横顔 vol.3



予想に違わず、一睡もできずに朝を迎え(夫に「そこまで!?」と言われた)、頭の中カオスで出掛けます。もちろん体力ゲージはゼロ。朝からフラフラでどうなるんだろうと思いますが・・・。

待ってろよ~、ハリス!(なぜか仇みたいな呼び方になってる)
とりあえず無事で、佳い一日になりますように (∩´∀`)∩ハリシュー




下田駅


駅前のホテルに泊まっていたので、移動は楽。駅のコインロッカーに荷物を預けて、まずは玉泉寺を目指しましょう。

駅前ロータリーから「須崎・爪木崎行き」のバスに乗ります。うん、ここまでは順調。

日差しが強いので日傘持って来れば良かったなと後悔してますが、仕方ないですねぇ。



香煎通り

香煎通り解説板

香煎通り

黒船祭

吉田松陰像


バス停「柿崎神社」で下車して、吉田松陰像を見るため、三島神社に行ってみました。

「下田と言えば吉田松陰」というイメージは、私にはなかったけれど、結構こちらでは吉田松陰関係の史跡が観光スポットとしてお勧めされています。

吉田松陰ってファンが多いんですね。「二十一回猛士」(生涯に「二十一回」の「猛」を発する行為をするという意味)のエピソードは、NHKのヒストリアで見ました。解説板も新しくてしっかりしています。



三島神社

吉田松陰像

解説板

神社

玉泉寺


少し迷って玉泉寺に到着。

日本初の米国総領事館として使われた寺です。

総領事タウンゼント・ハリスや通訳官ヒュースケンらがいたので、彼らの遺品と各種の石碑があるのだとか。

また日本で亡くなったアメリカ人やロシア人水兵の墓などがある、とガイドブック等には書いてありますが、それよりも重要なことがあります。そ・れ・は、日本で初めてプロテスタントの礼拝が行われた所であること!!

1858(安政5)年8月1日のことで、ハリスはポウハタン号、ミシシッピ号両艦の乗組員を集め礼拝を捧げました。このとき歌われた讃美歌も分かっています。現在もよく歌われている讃美歌216「ああ うるわしきシオンの朝」。歌おうか?歌ちゃいましょう(小さい声でね♪)。

「ああ うるわしきシオンの朝 光ぞ照り染めける
闇に迷う国々も いざともに祝えかし」――。


この歌を歌いながら、ハリスは日本に新しい夜明けがきたことをイメージしていたんじゃないですかね。もしかしたら心の中では、「シオンの朝」を「日本の朝」に置き替えて歌っていたかも。刀を差した役人たちが眺めていたというから、ちょっと物々しい様子だったかと思いますが。



玉泉寺について

日本最初の屠殺場跡

米国総領事旗掲揚之地

カーター大統領来訪

記念碑

ロシア人の墓

解説板

アメリカ人の墓

解説板



境内

本堂


境内には、記念碑や解説板があちこちに建てられているので目移りするほど。

本堂は当時からのものには見えないけれど、場所的にはハリスらがここにいたと見て相違ないかと。

外国人は敵だと考える人も多かった時代なので、そんなに自由に町を歩き回ることはできなかったろうから、逆に境内はくまなく歩き回ったことでしょう。

本堂横手の解説板には、ハリスが地震に驚いたことや猪を美味しく食べたことが書かれていますね。こういう生身の情報が有り難いです。そういうのがないと、どうも「総領事ハリス」という記号になってしまうので。ここで息をして、ご飯を食べて、地震にビビったりもしながら、暮らしていたんだな。信仰深いクリスチャンだったので、日々祈っていただろうし。そういうことを思うと、不思議です。



本堂解説板

本堂

本堂横から

ハリスの日記

ハリス記念館


さて昨日から言っている「唐人お吉」の話とはどんなものかというと・・・

「お吉は美貌の芸者だったが、ある日湯屋の帰り道、アメリカ総領事ハリスに見初められ、役人によって婚約者の鶴松との仲を裂かれて玉泉寺へと送られ、そこでハリスの妾となった。しばらくしてハリスに飽きられたお吉は玉泉寺を出され町に戻り、鶴松と結婚したが、人々から洋妾(ラシャメン)と呼ばれて蔑まれ、酒に溺れるようになった。鶴松も去ってしまい生活が乱れたお吉は、悲観して川に身を投げて死んでしまった。そしてその場所はお吉ヶ淵と呼ばれるようになった」・・・というもの。


「唐人お吉」の真実


十一谷義三郎(じゅういちや・ぎさぶろう)の小説「唐人お吉」が有名で、同様のストーリーの作品がいくつかあり、舞台化や映画化もされているので、結構人口に膾炙した話になっています。しかしそれはあくまで小説で、ハリスがいたこと、お吉が玉泉寺に来たこと等わずかなこと以外は全部創作です。

実際はどうだったかというと、ハリスが身の回りの世話ができる女性を寄越してほしいと役人に頼んだことは事実です。できれば看護師のようなことができる人を送ってほしいと言ったのですが、それを聞いた役人の方が「女が欲しいんだ」と曲解しました。それでそれに適した女性を探したところ、お吉という美貌の芸者が候補に挙がったのです。

役人がお吉に高給を提示すると、婚約者の鶴松がその金欲しさに説得に加わり、お吉は妾になることを了承して玉泉寺に上がりました。しかし送られてきたお吉の様子が看護師のようではないと感じたハリスは変に思います。役人が妾になる女性を送って来たのだと感ずいたハリスは、3日でお吉を寺から去らせました。

町に戻ったお吉は大金を受け取って、鶴松と一緒に暮らし始めましたが、鶴松の蕩尽であっという間にお金は無くなり、世間の人々はお吉を異国人の手が付いたと女だと見下して冷たく当たりました。しばらくして鶴松は去っていき、残されたお吉は貸座敷などを営みましたが、病気と困窮の中で晩年を送り、50歳で稲生沢川に投身自殺を遂げました。

事実とかけ離れた物語が創作された背景には、日本人による外国人嫌悪、お吉が受け取った大金に対する世間のやっかみがあったと考えられます。それにしてもハリスにかけられた濡れ衣の酷いこと・・・と思っていたのですが、ここ玉泉寺でまさかの展開が待ち受けていました!


生涯童貞の誓願を立てていたハリス


ハリスとペリーはアメリカ聖公会の信徒で、敬虔なクリスチャンだったと昨日書きましたが、特にハリスは熱心な信徒で、神の前で生涯童貞・独身の誓願を立てているくらいでした。神に身を捧げるというと、牧師や神父になるというイメージがありますが、聖職者になるのでなく、俗世に身を置き、そこで与えられた仕事を神の御心どおりに行うことで、神に身を捧げる生き方をする人もいます。

ハリスはその選択をしていたのです。聖職者でも神父は結婚しませんが、牧師は結婚してもいいことになっています。聖公会は牧師なので結婚してもいいのですが、それよりも高い制約をハリスは自ら進んで自分に課していた訳ですね。だからお吉に横恋慕して妾にしたなどと、ハリスにそんな類の濡れ衣を着せることは、あってはならないことだと私は考えています。

ハリスが日本に来たのは通商条約を結ぶためですが、国家間にちゃんとした通商条約が締結されないと大変なことが起こるので、それを阻止しようとしたことがハリスの日記等から分かっています。大変なこととは密貿易が横行し、アヘンが国内に流入することです。アヘン商人のバックには実は大国がついていて、アヘンで人々を堕落させ、大国の意のままに国を乗っ取ろうとする狙いがありました。

国同士で正常な通商条約が結ばれれば、互いにその遵守が求められるので、非合法な取引やアヘンの流入を防ぐことができます。ハリスが神の使命として成そうとしていたのはその仕事でした。そのために下田で、早く条約を結ばなければいけないと、時には癇癪を起こして役人に交渉を迫ったのです。


玉泉寺住職の言葉


玉泉寺のハリス記念館に、あまり期待しないで入って見学していたときのことでした。一番大きな展示室の壁一面に玉泉寺住職の言葉が書かれていたので、普通の解説だろうと思って読んでいました。すると!上に私が記したのと同義のこと(通商条約に関して)がそこには書かれており、「日本にとって恩人と言ってもいいハリスに対して、異性関係の汚名を着せるだなんてとんでもないこと。恥ずべきことだ!」と力説する文章が(写真撮影不可だったので、概略ですが)。

我が意を得たりです、住職! ハグしてダンスしたいくらいです。ハリスの溜飲も下がることでしょう。いやもう、その前に私の溜飲、地の底まで下がりました(?w)。住職が言うから説得力あるし。これ日本中の人に伝えたいです。下田ピープルには是非、常識として刷り込んでいただきたいですし。

帰りに受付で、このことが書かれた本が売ってないか探したのですが、玉泉寺に関する一般的なガイドばかりで、この一番大切なことが書かれたものはありませんでした。残念。だけれど、分かる人はちゃんと分かっているんだなと、心が少し楽になりました。来て良かったよ、玉泉寺。ここでこんな展開が待ち受けていたとはっ。住職にも会いたかったな。



玉泉寺解説板

石造物


門前の碑

解説板

山門

地蔵尊

境内より


ハリスも上り下りしたであろう、玉泉寺の石段を下りて、海の方へ足を向けました。この辺りが昔の下田港だったそうです。今は数隻の船が係留されている桟橋があるだけで、とても静かで穏やかな風景ですけど。

遠浅に見えるので、大型船ではそのまま乗りつけられなかったでしょうね。その分海の幸は豊かに庶民の口に入ったんだと思われ。今日は海も凪いでいて、たまらなくいいです♪




なまこ壁

岸辺

海から

ハリスの小径


浜辺に沿った道を須崎方面に歩くと、ハリスの小径に出合います。

実際にハリスが思索にふけり、散策した所だったと解説碑に書かれています。遊歩道は整備されたものですが、見える景色は大きくは変わっていないでしょう。

ハリスの・・・祈りの小径だったかもしれませんね。生涯独身の誓いまで立てていたハリスがミッションとして果たそうとしていたのは、通商条約の締結と信教の自由の承認でした。

歴史が動く時には、二人の人が現れて、それぞれの分を果たすことで、一つの大きな事を成し遂げることが多いのですが、日本の開国に関してもそうでした。ペリーとハリスが、日本開国の立役者であったと言うことができます。ペリーの方が有名で、ハリスまで知っている人が少ないのは、先に出て来たのがペリーだからですが、実質的なことは後に来たハリスが成しました。


日米修好通商条約への道のり 


ペリーとハリスによって、ようやく開国するようになった日本ですが、ここで経済と宗教の問題を解かなければ、日本が強国の草刈り場になってしまう恐れがありました。ハリスはキリスト教をいまだに邪教扱いして禁止していることを憂い、これを必ず撤廃しようと願って来日したのです。

1856年8月下田に来航したハリスは、1857年、日米和親条約を補う下田条約を締結しました。同時に江戸出府要求も飲まれ、同年12月、江戸城に入って13代将軍 徳川家定に謁見。大統領親書を渡しました。また江戸滞在中に、ハリスは老中首座に就いていた堀田正睦と会見し、世界情勢やアヘン戦争の例を引き、時機を失わずに通商条約を締結するよう説きました。

堀田は条約締結を決心したのですが、将軍の跡継ぎ問題が勃発し、朝廷にお伺いを立てるも差し戻しとなり、堀田は失脚。結局大老の井伊直弼が1858年7月、勅許を待たずに日米修好通商条約調印を断行しました。その背景としては、1か月前の6月に、第2次アヘン戦争が英・仏軍の勝利に終わり、天津条約が結ばれたことがありました。


ハリスのこだわり、第8条! 


ハリスが来日して2年後の1858年、神奈川沖に停泊中の船の中でついに日米修好通商条約が結ばれました。この条約は14条から成るものなのですが、ハリスが特に神経を払ったのは、宗教の自由に関する第8条でした。ハリスが提案した規定はこのようなもの↓。

「日本にあるアメリカ人自ら其の国の宗法を念じ、礼拝堂を居留地の内に置くも障りなく、並びにその建物を破壊し、アメリカ人宗法を妨ぐることなし。アメリカ人、日本人の堂営を毀傷することなく、また決して日本の神仏の礼拝を妨げ、神体仏像をこぼつる事あるべからず。双方の人民互いに宗旨についての宗論するべからず。日本長崎役所に於いて、踏み絵のしきたりは既に廃せり」

この規定に関してハリスが言葉を選び、慎重に事を運ぼうとしたことが分かりますが、意外にも幕府側は簡単にこれを承認しました。それでハリスは喜んで本国にこのように書いて手紙を送っています。「学校を起し、英語を教え、貧しい人に施療する(医療を施す)ことなどが、伝道のために最も有益な働きになるでしょう」と。

ハリスがキリスト教禁止を撤廃させるだけでなく、新たに宣教することまで念頭に置いて働いていたことがうかがえます。日米修好通商条約は、日米間で結ばれるに留まらず、幕府はこれと同様の条約をオランダ・ロシア・イギリス・フランスと締結したので、全部合わせて安政五カ国条約とも呼ばれます。

この条約に基づいて、居留地内の外国人の信教の自由が認められ、横浜や長崎に教会が建てられるようになり、そこに潜伏キリシタンがやってきて「信徒発見」の大事件が起こるのです。昨今話題の潜伏キリシタンとその復活ですが、そのきっかけとなる条約を結んだのはハリス。ハリスの小径を歩きながら、祈っていたのではないかという私の想像も、あながち間違ってはいないかもしれませんよ (*´▽`*)



ハリスの小径

ハリス記念碑

解説碑

道しるべ

桟橋

ハリスの小径



弁天島


ハリスの小径から、今度は松陰の小径を通って、柿崎の弁天島へと向かうことにしましょう。方向としては引き返す感じです。

弁天島は、黒船来航時に海外渡航を企てた吉田松陰が弟子の金子重輔と隠れていた島。

遠めに見ても、どこか趣がある島ですね。弁天島っていうことは、弁天様が祀られているんだろうな。ここはのんびり歩こう。トコトコ。




民家


弁天島

風車


弁天島に着くと、石碑が林立する中に解説板がいろいろと置かれていて、その上風車で形作られた魚が二匹泳いでいたりで、まとまりないが感じ。

風が吹くとカラカラと大きな音がして、ちょっとびっくりというか。

たぶん吉田松陰を慕う人が、様々な時代にこれらを建てたんでしょうけど、少し整理した方がいいのかなと思いました。



遊び場も


石碑

解説板

地層

石碑

解説板

島より

弁天堂


解説板によると、松陰らが隠れていたのはこの島の弁天堂だとか。建て替えられたものだと思いますが。

さて、好んで「二十一回猛士」の号を用いていた松陰が、何回目の「猛」(たけきこと)をしたかは知りませんが、確実にそのうちの一つとなったのが、下田からの密航未遂事件。

これで捕まり、金子は萩で亡くなり、松陰は安政の大獄のときに小伝馬町牢で処刑されて生涯を終えます。どちらにも行ったことがありますが、小伝馬町牢跡はキリシタン殉教地でもあるので、何度も訪れ、その度に松陰の顕彰碑を見ています。



弁天堂

窪田空穂



弁天島より


松陰は1854年4月24日未明、下田に停泊中のペリー艦隊に、金子重輔とともに小舟で接近しました。

乗艦を許されると「アメリカに連れて行ってほしい」と懇願。

この際ペリーには会っていませんが、ペリーは乗組員を通して2人に「残念ながら二人を迎え入れることは出来ないと、答えさせた」と「ペリー提督日本遠征記」にあります。

しかしなぜ松陰はそのような企てをしたのかですが、外国に対抗するには、何よりもまず外国を知らなければならない。「夷(い)をもって夷(い)を禦(ふせ)ぐ」ためでした。愛国心ゆえに、外国から学ぼうとしたということですね。そして外国が脅威を与えてくるのなら、しっかり対抗するのだということで。



弁天島


解説板

弁天島

「踏海の朝」像


このときペリーが乗せてあげてたらどうなってたんでしょうね?

2人は渡航が拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、一旦伝馬町牢屋敷に投獄されました。その後国許蟄居となり、身分の違いで、松陰は武士用の野山獄、金子は足軽と農民用の岩倉獄に入れられました。そして金子は病死。

松陰は1855年に出獄して、杉家に幽閉されましたが、安政の大獄に連座して再び小伝馬町牢に送られて、享年30(満年齢では29才)で斬首刑に処されました。天才の人生は早送りで見ているみたいですね。誕生から世に出て、亡くなるまでがあまりに早くて。2人の姿を銅像にした「踏海の朝」は、なかなか良い作品のように見受けられます。



銅像

公園

解説板


下田駅へ


熱中症になりそうな日差しの下、ひたすら下田駅へと歩きます。バス来ないかなーと思い時刻表を見ますが、あと15分。。

停留所2つ分くらいは歩きましたが、これ以上無理ということで、バスを待って乗りました。バスって快適。涼しいし。玉泉寺で興奮して疲れを忘れてましたが、今日は体力ゼロからのスタートなのだから用心せねば。一人なのに倒れたりしたらどうしようもありません (;´Д`)


教会


石碑

道の駅


 バスに乗って☆彡


蓮台寺温泉へ


バスに乗る前に道の駅でお昼休憩すれば良かったのですが、何となくスルーしてしまい、駅でバスを乗り換えるときに店でも入って休憩すれば良かったのですが、何となく来たバスに乗ってしまい、蓮台寺へ。

温泉がある町です。ここらでランチでも~と思いましたが、そんな雰囲気が微塵もありません。飲食店やコンビニが無い所みたいです。どこにでもあると思っているのが、都会人の発想ですよね。

いかんいかん、ここは伊豆半島の先っちょ。下田からのバスも一時間に数本しかない所です。大体すごく判断力低下しているのがいけませんね。失敗の連鎖を引き起こしています。どこかで持ち直したいところですが。。(´;ω;`)



蓮台寺

山~

吉田松陰寓居処


想像していたのと違い、蓮台寺温泉には「湯の香漂う温泉街」っていうものがなく、一見普通の里山。

よく見ると高級そうな温泉旅館がありますけれど。

バスを降りて地図で確認しながら、やって来たのは吉田松陰寓居処。昔話に出てくるような茅葺き屋根の家は、県指定文化財だそう。村の古老とか出てきそうだなと思いながら覗いていると、半被を着たボランティアガイドさんに手招きされました。

バスでアクセスするような山間にあり、今日は平日とあって他に見学者もなく、ちょっと暇していたのかも。「よく来たねー」的に迎えてくれ、よく解説してくれました。何でも詳しく知りたい私にとっては、あっざーすな展開。



足湯

高級旅館

解説板

吉田松陰寓居処

吉田松陰が滞在


吉田松陰と金子重輔は、海外渡航に挑む前、松陰の皮膚病を治そうと蓮台寺温泉に来たのですが、夜陰に紛れて、この家の近くにある共同湯に入っていたそうです。

知りませんでしたが、この辺りはやはり温泉地ということで、表からは見えない所にいくつもの共同湯があり、それらは近所の数軒で管理して使っているものだそうです。

お金を払って温泉宿に泊まるのでなく、松陰師弟はそういった共同湯にタダで入り、そこに泊まろうと夜のうちに来ていたようなのです。しかしこの家の主人、村山行馬郎が2人を見つけて声を掛け、どんな事情があるのかと問うようになりました。

松陰師弟はたぶん焦ったと思いますが、幸い村山は理解がある人で、寝泊まりする所のなかった2人を家に泊めてあげることにしました。それがこの旧村山邸。今では床の間に松陰の肖像画が掛けられていますがね。

村山は医者で、長崎に遊学していたことがあったので、世界に出て海外の知識を学びたいと思っている若者の気持ちをよく理解でき、助けてあげたいと思ったのではないかと、ガイドさんは語っていました。



解説板

使っていた文机

解説

留魂録

松陰が使っていた部屋


細い階段を登って二階へ上がると、そこが松陰らが使っていた部屋。

今でこそ眺めのいい部屋になっていますが、昔は窓の外に松の大木が植えられていて、外からは全く見えない構造になっていたそうです。

しかも今登ってきた階段は取り外し可能。何かあったら、階段を外し、天井板を閉めると、二階があると分からないようになっていました。

吉田松陰らが自首して逮捕されたとき、この家の主人は罰せられることはなかったんでしょうか?と聞いてみたところ、奉行所の取調べは受けたものの罰せられることはなく、お咎めなしで放免されたのだとか。良かったですね。

もう一度階下に戻って、松陰も入ったお湯に触らせてもらいました。足湯はできなかったけれど、手湯。まろんとしたお湯のように感じました。この後の松陰を待ち受けたのは、渡航失敗と自首、投獄と幽閉、そして処刑でしたから、蓮台寺温泉で受け入れてもらえたことや、このまろやかなお湯のことを何度も思い出したんではないでしょうか。

一人の人の人生も、知れば知るほど・・・なんでしょう、深いなと思います (゜o゜)



階段

解説板

解説

松陰滞在の間


お湯

温泉

展示

蓮台寺バス停


他に見学者が来たのでお暇し、再びバス停に戻って下田市の中心部へ。まだ回りたい所が何か所かあり。

一時間に2~3本しかバスがないので、移動に時間がかかりますね。普段夫の運転で車で回ることが多いので、公共交通機関に頼らないといけないとこんなに大変なんだと痛感。

帰ったらもっと大事にしてあげないとね。あ、バス来た~☆



休憩所

蓮台寺

温泉旅館

宝福寺


下田駅に戻って今度は徒歩で、宝福寺へとやってまいりました。でっかい像があるけど誰だろうと思って近づいて行くと、なんと坂本龍馬!

「龍馬が飛び お吉が眠る 宝福寺」と書かれています。なんか映画の看板みたい。絵もキャッチコピーも。

下田に龍馬来たことあったんだっけ?と思いながら、とりあえず本堂を見て、有料の資料館「宝福寺唐人お吉記念館」へ。この寺にお吉の墓があるのですが、この記念館に入らないと見られないんですよね。まあ商売だから仕方ないよなって、商売・・・なんですかね?



唐人お吉記念館


唐人お吉の記念館なのだから、そりゃハリスは良く言われてないでしょうよと、予想はしていました。しかしそれを大きく上回るほどの酷さでした。小説に描かれた場面を等身大人形で再現しているのですが、湯屋を出てきたお吉を見るハリスの顔といったら、好色さと傲慢さが溢れた悪人ヅラで、変態そのもの。

可憐なお吉を見染てハリスが、権力にものを言わせて婚約者から引き離し、自分の妾にしたのだと書かれています。いやハリス、お吉を見染てないですからね。ハリスは潔癖な人だったので、日本では銭湯で男女が混浴しているのを聞いて、忌み嫌っています(ハリスの日記より)。実際混浴のせいで風紀が乱れ、女性たちが性被害に遭うという問題が起こり、禁止されたこともありました。

というか、お吉を婚約者から引き離して玉泉寺に送り込んだのは、下田奉行所の役人です。それは下田奉行支配組頭時代の伊佐新次郎だと言われていますが、こちらだと伊佐新次郎の書の横に「下田奉行」と書かれていますね。ハリスは看護師を求めていて、お吉が送られて来ることすら知りませんでした。


宝福寺と下田奉行所の役人


そう言えば! ここ宝福寺には仮の下田奉行所が置かれていた時代がありました。下田に奉行所が置かれるようになったのは、日米和親条約が結ばれて、ペリーが下田に上陸した1854(嘉永4)年のことで、最初に置かれた場所が宝福寺だったのです。翌年には他の場所に移るんですけど、下田奉行所が存在したのは横浜開港までのたった6年間。宝福寺の役割は小さくありませんでした。

よくよく考えてみたら、お吉を高給で釣った役人(伊佐新次郎)はここにいたことがあったんじゃないですかね? 6年の間、そんなにコロコロと役人は変わらないでしょうし。伊佐新次郎の書を展示しながら、彼がここで奉行所の仕事をしていたことを書かないのはフェアでないと思いますけど。

また小説はフィクションなのだから、史実と違っていても容認すべきだという人がいますが、実在した人物の名誉をあまりにも毀損するような場合は、「これはフィクションです」とことわるか、名前をもじって変えるかする必要があると思います。これ、アメリカ大使館員に見せたら抗議の嵐だと思います。国際問題にならないんでしょうか、これだけ初代総領事を貶めて。リアルな人形で再現までしているんですよ。



龍馬が飛び・・・

解説板

展示

お吉の写真

お吉のかんざしなど

展示

展示

謁見の間

山内容堂、勝海舟の謁見の間


展示室を進んで行くと、山内容堂に勝海舟が会ったという謁見の間が。説明文を読んで、「龍馬が飛び・・・」の謎が解けました。

龍馬が土佐藩を脱藩したことは重罪に当たることでただでは許されないことでしたが、勝海舟が弟子になった龍馬のために、そのことを不問に付してくれるよう、山内容堂に懇願しに来たのが、宝福寺のこの部屋だったということです。

つまり龍馬は来てませんね、宝福寺には。年表を見ると、龍馬が下田に来たようには書いてあるんですけど。まあ来ていたなら「龍馬が飛び・・・」とは書きませんわな。「龍馬が来た」と書けばいいので。だけど龍馬人気にあやかろうと、大きな龍馬像を建て、イケメン龍馬の顔を描いた看板を設置したということですね。

この寺にいた山内容堂や、そこへ会いに来た勝海舟のことをほぼほぼスルーして、龍馬龍馬で人目を引こうとするのは、失礼ではないんですかね。商売だからそんなものなかのな。商売...(-ω-;)ウーン



謁見の間

展示

年表

年表

お吉の墓


展示室を抜けた屋外が、ちょうど境内の墓域に当たるようで、そこにお吉の墓がありました。

もちろんここに設置された解説板にも「唐人お吉」の話が書かれ、「ハリスの侍妾」だったと、当然のように明記されていますね。

こうやって書いてあるから信じる人がいて、哀れに思ってお参りに来る人もいて、ますます広まっていき、やがて真実のように語られるようになるという、サンプルですね、「唐人お吉」の話は。フィクションだと、ことわらなかった人の罪が大きいですよ。

なぜこの寺にお吉の墓があるかというと、宝福寺15代住職が慈愛の心で、身寄りのないお吉に法名を贈り、境内に手厚く葬ったからだとか(宝福寺パンフレットより)。墓石などは、お吉の役を演じた有名女優や総代らによって新しくされたものだそう。


美談と悪役


いいですよ、哀れに思って手厚く葬ってもらって、お吉もさぞ喜んでいることでしょう。住職も立派ですよね、慈愛の心で。だけれどその美談のためにハリスを貶める必要はないじゃないですか。「妾になったのではないけれど、世間の誤解を受けて入水自殺した。住職が哀れに思って葬った」というだけでも、美談が損なわれる訳でもなし。実際それが事実なのだから、事実を書くべきですよね、解説板には。

その上で、そこから創作された「唐人お吉」の話があり、その話はこうですよと説明するのがいいのではないでしょうか。また、悪役がいないと面白くならないからと、小説で虚構の筋書きを作るのは自由ですが、悪役に据えた人物が実在するならば、相応の但し書きを添えて、誤解のないよう伝えなければと思います。日本に来た初代のアメリカ総領事で、大きな功績があるからです。


「ハリス条約」とアヘン戦争


日米通商条約は「ハリス条約」とも呼ばれます。ハリスがそれくらい奮闘し、粘り強く交渉して結ばれるようになったためです。これによってアヘン流入が防げたことは昨日書きましたが、それがどんな大きな意味あることだったかをもう少し書こうと思います。

アヘン戦争という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、これは1839年から、中国の清とイギリスとの間で行なわれた戦争です。原因はアヘン。イギリス商人がアヘンを中国人に売りつけ大もうけをして、これを国の危機だと思った中国側がアヘンを禁止するのですが、アヘンの密貿易が止まらず、清の大臣がアヘンを没収して捨てたのですが、そのことをイギリスは激怒して戦争の火ぶたが切られたのです。

悪いのはどう考えてもイギリスです。自国ではアヘンを禁止しているというのに、人の国には売りつけてアヘン中毒を蔓延させたのですから。しかし軍事力で勝っているのもイギリスでした。イギリス海軍の力により清は敗北。1842年の南京条約で、多額の賠償金の支払と香港の割譲が定められました。


歴史は「恩人」を語る


1997年に香港は中国に返還されましたが、当初は永久割譲するとされていました。要するに植民地です。この事件の後、約10年してペリーは日本にやって来ました。そしてバトンタッチしてハリスが通商条約の締結に向けて奔走。第二次アヘン戦争のことを知った幕府は、平和的に通商条約を結ぶことで、密貿易を防ぎ、アヘンなどが流入しなくなる利点があることを理解し、条約を締結しました。

だけれどこの一連の流れは、どこかでタイミングがズレでもしていたら大変なことなっていたと分かると思います。日本は小さな国で、しかも長い間鎖国していたので、自分たちが思うよりもずっと知識や技術が遅れていたのです。外国は敵だと全面的に戦争でもしていたら、日本全体が植民地になっていた可能性だってあります。

後世から見てみると、ペリーが来たのは非常にいいタイミングで、ハリスもしかりでした。しかも人選もばっちり。生涯を神に捧げたハリスの信仰があったからこそ、第8条が入り、居留地内に教会が建てられ、そこに二百数十年間も密かに信仰を守って暮らしていたキリシタンたちがやって来て復活したのです。

私たちは歴史を振り返りながら、自分たちの「恩人」をちゃんと知らなければならないと思います。ああ、玉泉寺の住職、ほんといい言葉を書いてくれました、「恩人」と。いつか会ったらハグしてダンスでも!(笑)



解説板

お吉の墓

石造物

唐人お吉記念館

吉田松陰投宿の跡


宝福寺を後にして、マイマイ通りを南下。「吉田松陰投宿の跡」へとやって来ました。

ここは下田に来た吉田松陰と金子重輔が初めに宿をとった旅館「岡村屋」があった場所で、現在も「下田屋旅館」という名で旅館が営まれています。

松陰ファンはここに泊まって史跡めぐりをするのかも。

少し歩くと「欠乏所跡」があります。「欠乏」という言葉にぎょっとさせられますが、貧しいイメージの所ではなく、簡単に言うなら日米貿易始まりの地といった感じでしょうか。詳しくは解説板をお読みください☆



吉田松陰投宿の跡

欠乏所跡

欠乏所跡解説板


吉田松陰拘禁之跡


続いて「吉田松陰拘禁之跡」。

密航に失敗し自首した松陰師弟が、下田奉行所の命により拘禁された宝光院長命寺の跡地です。

長命寺は廃寺となり、今は下田市立中央公民館が建っています。


吉田松陰拘禁之跡

解説板

観光案内図

松陰の歌

日本基督教団下田教会


「吉田松陰拘禁之跡」の前の道を進むと、見えてくるのが、とんがり屋根と十字架。

日本基督教団の下田教会です。

カラフルだけど落ち着いていて、小さいけれど風格を感じます。

教会HPに詳しい情報がなくて、建てられてどのくらい経つのか等が分かりませんが、たぶん歴史ある教会なのではないかと。誰か有名なクリスチャンも来たりしてるんじゃないですかね。私だって下田で教会来たかったのだから。中に入れないので外観だけ見て行くしかないですが、可愛らしい教会堂で、見ているだけでも癒されました (#^^#)



下田教会

下田教会

下田開国博物館

アメリカジャスミン

了仙寺


お腹すいたし疲れたなーと思いながら、了仙寺へ。

門を通る前から漂ってくるアメリカジャスミンの香り。

境内に入ると匂い立つ芳香に陶然とさせられました。

こんなお寺があるんですね。花だけでも十分訪れる価値がある所ですが、こちらは歴史的価値が更にドーン。日米和親条約を補完する下田条約が結ばれた地です。だからペリーがいたんですよね、ここに。寺はペリー一行の休息所となった訳で。その辺りのことを詳しく学べる博物館「了仙寺宝物館・黒船美術博物館」があるので入ってみましょう♪


了仙寺宝物館・黒船美術博物館


最近リニューアルしたとおぼしき館内には、開国時の様々な資料が展示されていて、原本や肉筆画が多数。「これってここに原本があったの!?」と驚きっぱなし。私は知りませんでしたが、「教科書やテレビで見る黒船やペリー、開国の資料の多くは了仙寺が提供して」(解説板パネルより)いるのだとか。結論から言いますと、ここかなりいいですよ!何がすごいって収蔵品が、そんじょそこらの宝物館や資料館とは全く比べ物になりません。

詳細は了仙寺HPに譲るとして、私のアンテナに引っ掛かったものを紹介しますと、一つは中浜万次郎が扇に書いた書があって、そこに「私は聖書を読めたおかげで今日の光栄を受けた。神を歌い続けよ、永遠に」と書かれていたこと。嘉永6年頃の書だとキャプションが付いていました。

ジョン万次郎に関しては、クリスチャンだったという人もいれば、日本帰国のために洗礼を受けなかったと書いている人もいて、プロテスタント教会で洗礼を受けたので踏み絵は臆せずじゃんじゃん踏んだという説も読んだことがあり、どれが本当かなと思っていたのです。だけど聖書を読み、神を称えていたことは確かですね。もっと調べてみなければ分かりませんが、ちゃんと自分で調べようと思うようになりました。


お宝の名にふさわしく


展示品の中には、お吉や伊佐新次郎の真筆(この2人のもの並べる?と思いましたが)、佐久間象山の書などもありました。勝海舟や吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作などの書もあるそうですが、数か月ごとに展示替えされるとかで見られませんでした。当然みたいに、ペリーの自筆手紙、ペリーやハリスから了仙寺に寄贈された品などもありました。いや正に、宝物館!

時代とテーマを一応絞っているんだと思いますが、多少飛び地的な展示品もあり、チベット仏教の曼陀羅や仏像、珍しいところでは「性と宗教」をテーマにした部屋もあって、大人の雰囲気・・・。「責め絵」で知られる伊藤晴雨のコレクションもあって、その中に「島原の戦前の松倉重政の異教徒弾圧」というものがありました。

あまり普通の美術館では見ることのない伊藤晴雨という画家(地獄絵・幽霊画はまだしも、得意とした女性の緊縛画などは昭和SMを代表するもので、下世話な週刊誌からも「変態性欲者」と罵倒されていた)の作品中に、キリシタン弾圧のものがあったなんて初耳(初見)なので、これは教えてもらったことだなと感じました。勉強は自分が考える範囲内でしていては足りないんだなと☆



了仙寺

了仙寺について

解説板

ジャスミンもりもり

当時の様子

境内

了仙寺宝物館

アメリカジャスミン

「ペリー陸戦隊了仙寺調練の図」


有料の宝物館の中だけでなく、境内の各所にはここでどんなことがあったかを語る展示解説があり、黒船に乗って来た画家ハイネが描いた「安政元年ペリー陸戦隊了仙寺調練の図」の複製も掲げられていました。

実際に目撃した人が描いたものなので、すごく正確なんでしょうね。安政元年とは1854年のこと。黒船で来航した翌年にはここにいたなんて、ペリリン働き者ですよ。

ペリー一行は昨日見た下田公園前のペリー像の所から上陸し、この寺までパレードしたんですよね。そして境内で閲兵式と戦闘訓練を披露したのですが、その様子を描いたのがこの絵。パレードは一般人も見学可能で、その中で軍楽隊による洋楽演奏が行われたのですが、これが日本初洋楽コンサートであったと説明されています。

「コンサート」というより、「披露」だったと思うんですけど、まぁいいか。洋楽の「披露」だとキリシタン時代に既に行われているので都合が悪いんでしょうね。


痛恨の極みの後日談...(>_<)


旅行から帰って写真を見ていて気付いたのですが、この寺の創建者は第二代下田奉行の今村伝四郎正長で、彼と四代目の今村伝四郎正成、五代目の今村伝四郎正信の墓である三基の五輪塔が境内に建てられているんだとか! 今村伝四郎正成って、千葉にある自分の所領地でキリシタン処刑を行わせた人です。

うそっ!!その墓を見逃しただなんて、痛恨の極み、大チョンボ(この言い方今でもする?)です。ちゃんとその場で解説板読めば良かったー。幕末の下田奉行のことは考えていたけれど、遠見番所が置かれていた1600年代の下田奉行のことはすっかり頭から消えてました。

そう、キリシタン処刑の記録が残っていたのも、下田の旧家に伝わる「豆州加茂郡下田町古来書留并伝承記」なので、それ見たとき「なんで伊豆?」と思った覚えが。下田奉行が千葉に知行地を持っていたということですよね。処刑の年は1632(寛永9)年だったと書かれていますが、誰がどこで処刑されたかは分からないんですけど。

それにしても、それにつながる人の墓ぐらいは見ておきたかったです。宝物館ももう一度行ってみたいし、了仙寺は再訪決定かなぁ。。



ジャスミン

アメリカジャスミン

山門

境内

ペリーロード


旅行中はそんなことも露知らず、了仙寺見終わった~と思って長楽寺へ。昨日通ったペリーロードですが、やっぱりいいですね、町の雰囲気が。水辺に柳、蔵になまこ壁。レトロでおしゃれ、それでいて気取っていない感じです。

あのなまこ壁のお土産屋が、昔廻船問屋の土佐屋だった建物ですね。吉田松陰が黒船に乗り込もうとする数日前に立ち寄って、兄へ日記を渡してほしいと依頼した所です。

このなまこ壁を松陰も見ていたと思ったら、感慨深いです。160年ほど前にペリーや松陰がそれぞれの思いで歩いていただなんて、何と言うか・・・(*'▽')ロマン



土佐屋


路地

長楽寺


5分ほどで長楽寺へ。日露和親条約の調印と、日米和親条約の推准書交換が行なわれたお寺ですね。そんなに境内は広くないようだけど、昔はもっと広かったのかな。

お吉観音があるそうですが・・・、もうお吉さんはいいデス ( ̄▽ ̄;)

この日露和親条約の第2条で、両国の国境が「今より後、日本国と露西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。(中略)カラフト島に至りては、日本国と露西亜国の間において、界を分たず是迄仕来りの通りたるべし」と初めて定められ、これに基づいて今も北方四島は日本固有の領土だという主張がされているのだから、北方領土問題はここに原点があると言えそうな。

歴史にはそれを決定づけた場所があったりするから興味深いですね。やっぱりそういう場所は訪れてみたいと思いますし。



長楽寺

解説板

長楽寺

石造物

再びペリーロード


再びペリーロードに下りてきて、あともう少しだけ町歩き。もう疲労困憊しているので外観だけ見て、ふうんという感じで流そうと思います。

橋のたもとには土佐屋。下田公園方向に歩くと旧澤村邸。今は無料休憩所になっているから休もうかなーと思ったのですが、何となく入って行けず通過。

一人だと、私のようなチキンは行動が著しく制限されるんですよね。店に入って行けなくて、朝マックで食べてから、今まで食事らしい食事も摂れず、休めもせず。はちみつ金柑のど飴と非常食のビスコでしのいでおります。時刻は4時。トホホです。



ペリーロード

土佐屋

旧澤村邸

大砲

安直楼


駅まで向かいがてら安直楼にも寄りました。お吉が営んだ料亭で、その後寿司店になり、現在も寿司店のものではあるものの、史跡として見学に供しているそうです。

「唐人お吉」の物語は、下田に染みついているようですね。下田にはもっと知るべき歴史がたくさんあるんじゃないかと思うんですが。

ハリスの名誉回復がされて、ペリーとの開国時の交渉過程や、日本で最初のプロテスタント礼拝などに注目が集まってほしいなと思います。だけど「唐人お吉」の間違った噂を修正して、ハリスの立ち位置を変えないとそこがうまくいきません。悩ましいです。。



安直楼

解説板

解説板


 またもやバスで


蓮台寺へ


「もう無理ー」と、体を引きずるようにして下田駅に至り、コインロッカーから荷物を取り出しました。どこかでご飯食べて伊豆急に乗って帰ろうと思って。

だけど気付いたら蓮台寺行きのバスに乗っていました。蓮台寺温泉には行ったけれど、お吉が淵には行ってなかったので。

コンビニで糖分が摂れそうな飲み物を買い、バスで蓮台寺へ。バス停下りてしばらく歩くと・・・、あ、あの辺がお吉が淵みたい。旅行カバン持ってるので体は更に重くなってますが、最後の力を振り絞りましょー(~_~;)ヨイコラセ



お吉ヶ淵


こちらが稲生沢川のお吉ヶ淵。お吉が身を投げた(自殺と事故の両方の説がある)とされる所です。

なぜここに来たかったか。ここに建てられているお吉地蔵が見たかったからです。

え、さっきはお吉観音を見ようともしなかったのに、どうしてお吉地蔵の方はそんなにまでして見たいの~? それはね、建立者が新渡戸稲造だからだよ!(疲れ過ぎて脳の中で会話が始まってる。。)


新渡戸稲造とお吉地蔵


武士道の著者として知られ、国際連盟事務次長も務めた新渡戸稲造は、1933(昭和8)年7月下田を訪れ、お吉の話を聞きました。日米関係の狭間で誤解を受け、命を絶ったお吉に深い同情を覚えた新渡戸は、石造店に地蔵を注文し、お吉が淵に建てるよう頼みました。

その際、地蔵の背面には、お吉の命日でなく、自身の最愛の母の命日にあたる「七月十七日」を刻むよう依頼したんだとか。だけど、裏に回って見てみましたが、摩耗してしまって、傷みたいな線しか確認できませんでした。ちょっと意図的に文字か何かが削られたようにも見えるんですけど・・・、なんでだろ?

さて建立を頼んだ新渡戸ですが、この地蔵を見ることはありませんでした。この年の10月、渡航先のカナダで倒れ、帰らぬ人になったからです。


新渡戸の思い


既に70歳を超えた新渡戸が、体調不良をおしてカナダを訪れたのは、この年の3月に日本が国際連盟を脱退し、国際社会から孤立していたので、それを緩和するためでした。国際会議に出席し、日本の立場を説明しようとしたのです。

もし国際社会からの理解が得られなかったら、孤立の先に、日本が戦争への道をつき進んで行くことが新渡戸には見えていたのかもしれません。新渡戸が死んで、実際その通りになりました。多くの人が死に、国中が焦土となり、二発の原爆投下で終わった戦争のことは、ここで語るまでもありません。

この地蔵は、日米の狭間で犠牲になったお吉のために建てたというけれど、日本と国際社会との狭間で犠牲になったのは、新渡戸自身だったのではないでしょうか。だから何だか、私にはこの像が新渡戸の影法師のように思えてなりません。新渡戸はクリスチャンだったから、地蔵はおかしいかもしれないけれど。



お吉地蔵

解説板

お吉地蔵

背面

稲生沢川


稲生沢川は護岸工事がなされ、今では「淵」はどこにもありません。大雨のときは増水しそうですが、今は穏やかな流れです。

伊豆急が停まる蓮台寺駅までは徒歩15分ほど。大荷物を持って、えっちらおっちら。まるでプチ家出。早くおうちに帰りたい。

いやその前にご飯食べたい。駅ならきっと飲食店とかコンビニとかあるだろうし、駅弁って手もあるかも。あ、ちょっと希望が見えてきた。明日は明るいぞ。空腹くらい、後で笑い話になるさ・・・。



稲生沢川

駅へ

稲生沢川

蓮台寺駅


期待に溢れて到着した蓮台寺駅には、飲食店やコンビニはおろか、売店も ありませんでした。えー、ここ駅だよね!?

駅員さんに噛みつきたくなる衝動を抑えながら、チケットを買い、自動販売機くらいあるだろうとタカをくくって中へ。ホームには屋根もベンチもありませんでした (ToT)アウ

電車が来るまで15分立ち尽くし、何度も空を仰ぎました。自分の計画性のなさと勇気のなさ・・・、あれこれひっくるめて愚かさを思うと、嘆かわしいやら悲しいやらで。だけど一日に回った場所の多さを考えれば、ご飯くらい食べられなくても当然かもしれません。

とりあえず行きたい所には全部行けたんだから、感謝かな。そうそう、車内販売くらいあるかもしれないし!(乗ってみて無いことが判明)
こ、こんな日もあるさっ♪(負け惜しみさっ~)



蓮台寺駅


ホーム

伊豆急


帰りは伊豆急で熱海まで行き、JRに乗り換えるルート。途中の網代は、駿府から追放されたおたあジュリアが通った所ですね。こんなに険しい山なんだ。海は見えるけど。

ジュリアはイエス様が十字架にかかるときカルバリ山へ裸足で行かれたことを思って、網代で籠を下り、自分も裸足で登ると言って山中の道を歩んだのだとか。

今回の旅はジュリアに始まったものなので、最後も彼女に戻るようにしてもらっているのかもしれないですね。おたあジュリアは朝鮮人で最初のキリスト教徒だと、私は考えているし、常識だと思っていたんですけど・・・。ここでちょっと言いにくい問題を書き添えますね。これを避けて終わるのも正直でない気がするので。


韓国初のクリスチャンは誰?


おたあジュリアが神津島を出てから長崎や大坂で暮らしていたことを示す新資料は、ルイズ・デ・メディナ神父の発見によるのものなのですが、1989年、神父の著書「遥かなる高麗」が韓国語に翻訳され出版されると、韓国のキリスト教会には衝撃が広がりました。そこには朝鮮へのキリスト教伝来が、従来考えられていた1784年ではなく、それより約200年も早いことが確実な資料と共に明かされていたからです。

単に200年も早かったというだけならば、歴史が長いことを知って歓迎する人もいたことでしょう。しかし朝鮮のキリスト教の起源が秀吉の朝鮮侵略によって連行された朝鮮人捕虜のキリシタンだったという事実は、韓国の人々にとって受け入れがたいものだったのです。ルイズ・デ・メディナ神父に対しては、韓国のキリスト教会はもとより史学界からも「植民地主義者」との非難が浴びせられ、これは今でも訂正されていません。


「自発的に始まった教会」という誇り


韓国のキリスト教会、とりわけカトリックには、自分たちの教会は「自発的に始まった教会」だとする誇りがあります。すなわち、1784年李承薫(イ・スンフン)が自ら進んで北京で洗礼を受け、自国に戻って最初の教会を建てたのだというもので、その教会が作られる前にはキリスト教が宣教されたことがなく、信者も存在しなかったことを意味します。

しかし「遥かなる高麗」では、1593年に宣教師セスペデスが韓国の地でミサを行ったこと、日本で洗礼を受けた朝鮮人捕虜が3000人にも達していたこと、彼らが戦後朝鮮に帰国して、初めてキリスト教を現地の民に教えたこと、更には宣教によって「美しい教会」と名付けられた教会が設立されたことが、当時の第一級史料である宣教師の報告書によって裏付けられています。

セスペデスが行ったのは日本人への授洗までで朝鮮人への伝道は行われませんでしたが、日本でキリスト教徒になった朝鮮人によって、朝鮮での宣教が開始されたことは確かです。つまりおたあジュリアのような人たちがたくさんいて、その中の誰かが帰国してキリスト教を伝えたのです。中身をしっかり吟味してみるならば、自分たちで朝鮮にキリスト教を伝え、教会を創始したのだから、これも「自発的に始まった教会」に違いありません。

しかしその教会が現代まで続くものにならず、中断したことと、日本の朝鮮侵略がきっかけになってもたらされたものであることが、韓国人のメンタリティとしてはどうしても受け入れがたいものとなるのでしょう。


ジュリアをめぐる二つの矛盾


日本で「おたあジュリア墓発見!」が話題になり、ジュリア祭が行われるようになった1972年、ジュリアの墓の土が韓国の切頭山聖地に到着しました。ジュリアを380年ぶりに里帰りさせてあげようという企画で、墓碑まで作って安置しましたが、のちに撤去されています。

それは彼女の存在が、韓国教会の考える「正当な」史観にそぐわないということが大きく影響しているとみられます。だけれどジュリアは朝鮮人で最初のキリスト教徒、彼女と同時期に他にも受洗者はいたので「彼女だけ」とは言えませんが、その中の一人で、幕府側の資料からも存在が確認できる唯一の人物です。

思うに、ジュリアのようなクリスチャンがいたことを、韓国教会が認めようとしないことが一つの矛盾、ジュリアの墓が神津島にはないことを認めようとしないことが、もう一つの矛盾ではないでしょうか。日韓両国に横たわるこの二つの矛盾を、歴史の前に下ろすことができるようになるのは、いつのことになるのでしょう――。




網代の辺り

伊豆急



自分で確かめる


今回自分で確かめることの意義を強く感じました。パンフレットや解説板に書いてあることを鵜呑みにするなら、おたあジュリアの墓は神津島にあることになり、タウンゼント・ハリスはゲスの極みのエロじじい。

だけれど現地に行くなどして疑問を疑問として感じ、粘り強くちゃんと調べれば、分かってくることだってあるのです。ネットで検索すると、誰かが書いたもののコピペばかりで、それが真実のように思わされてしまいますが、全くのウソがまかり通っていることもあります。

wikiのようなものができ、簡単に調べられるようになったことは感謝ですが、利用するのは一次的に大略を把握するに留め、詳しくは自分で確認してから信じなければならないのだと思いました。

誰かにどこかで濡れ衣を着せてしまわないように、「恩人」や功績者を見誤らないように。自戒を込めて、記しておきたいと思います。チキンな私に真実の欠片をキラリと示して下さった方に感謝と栄光を帰しながら...(*^^*)






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