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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 信濃路、秋薫る vol.3


本日は曇り。午前中だけ軽井沢に行って、都内へと向かいます。午後から夫の参加するサッカー大会があり、そちらに直行する強行スケジュール。夕方に終わって神奈川の自宅まで戻るんですが、足つらないか心配です。だけどせっかくの機会なので、「時」に合わせて行って来ます♪



ホテルから


昨夜の宿は佐久。長野県は広いので、高遠や松代を一回で回ろうとすると、長いドライブが必須になります。

だけど興味深い所が他にもたくさんあって、本当はもう一日二日滞在したかったです。次回以降に持ち越しですね。次がいつになるかわからないけど。。


星野温泉


出発したときは空いていたのに、軽井沢に近くなるにつれて車が増えて渋滞気味に。すごい人気だなと思ったら、アウトレットモールへ行く車たちでした。週末ですしね。

それにしても軽井沢人気は健在だなと思いながら、星野温泉へ。星野リゾートが開発を手掛けて話題になっています。

軽井沢といえば、とりあえずA.C.ショーと内村鑑三(←私にとってはw)。内村が愛した星野温泉もチェックしておきたかったのです。


軽井沢ヒストリー


ここでざっくりとですが、軽井沢の歴史をおさらいしておきましょう。江戸時代に寂れた宿場町だった軽井沢に注目が集まるのは、1886(明治19)年に宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー(Alexander Croft Shaw。正確にはショウとすべきでしょうけど、ここではショーとします)が訪れ、この地を「屋根のない病院」と絶賛してから。

2年後に軽井沢で最初の別荘を建て、それを機に外国人宣教師や在日大使館員、政治家や文化人が別荘を建てるようになり、次第に避暑地として知られていくようになりました。1893(明治26年)年、碓氷新鉄道の開通で町はさらに発展。明治後期になるとホテルもでき、大正期には別荘地の分譲が盛んになって、西洋文化の香り漂う町へと生まれ変わりました。

そんな西洋文化の中心にいたのが、宣教師や日本人キリスト者でした。内村鑑三は1921(大正10)年に「芸術自由教育講習会」を開講。後に「星野遊学堂」と名付けられ、北原白秋、島崎藤村ら当時を代表する文化人が集いました。

戦時中は活動停止しましたが、大戦後「軽井沢高原教会」と改名し再建されました(今回私は行けませんでしたが;;)。新渡戸稲造も1910年代前半に別荘(この跡地も今回は行けませんでした。。)を持ち、1910年代後半には軽井沢夏季大学を創設。こちらも戦争中、一時中断されましたが、現在も続けられています。

新渡戸は、別荘でアメリカ人飛行家チャールズ・リンドバーグら要人を迎えていました。避暑地であり、社交の場であり、時には政治の舞台ともなったのが軽井沢なのでしょう。



星野温泉

周辺マップ

石の教会 内村鑑三記念堂


温泉に入る時間はないけど、石の教会は行ってみましょう。

石の教会は内村鑑三記念堂と名付けられていますが、内村の頃には無かったもので、1988年にケンドリック・ケロッグが建築。自然に溶け込むこういう様式を、オーガニック建築というそうです。

小径への入口に内村の言葉を刻んだ石碑が置かれています。"I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God."
碑の上にカワセミがちょこんと乗っていて可愛いです♪



途中に休み場

石のベンチ

内村鑑三の言葉

内村鑑三について

石の教会への小径


教会へ至る小径は、見通しのきかない緩やかな曲がり方。自然と人生の道がこうだなと顧みるようになります。

導かれるみたいにゆっくり進んで行くと、空からの風の音、木々の上で鳴きかわす鳥たちの声が聴こえてきます。

それまでも聴こえていたはずなのに、こういう空間に入り込んでこそ、ちゃんと耳に入ってくるようになるんですね。そんな気付きを与えられる場としての「教会」が、本来の「教会」なのかも。

内村鑑三が提唱した無教会(主義)というのは、一般に教会という制度を否定したものと捉えられているけれど、本来の姿を取り戻したかったのかもしれませんね。人が祈りたくなったときに行ける場所、神と直接語り合うことができる場所、心がホームポジションに戻れる場所という意味での「教会」。

実は内村自身は、無教会(主義)を自分が提唱したとは考えていませんでした。内村は、「イエス・キリストは無教会主義者だった」とし、「預言者エリヤ、アモス、イザヤ、エレミヤも無教会主義者であり、宗教改革者として有名なルターも、最初は無教会主義だった」と言っています(内村鑑三信仰著作全集18)。

神学的にどうなのかは詳しくわかりませんが、教会という制度より、本来的な意味での「教会」が、すべての人に開かれているべきだという考えには賛同できます。



自分を振り返る・・・

マップ

祈りの小径に・・・

木々

石の教会


小径の先にようやくたどり着ける教会堂。

結婚式のとき以外は見学できるそうですが、今日は生憎;;

その点が急に現実に引き戻された感じですね。内村の思想から経済合理性が優位に立つ世界へと。そのギャップをオーガニック建築でラッピングして、同じ包装紙の中に入っているから一体だというふうに見せているんでしょうか。

だけど、経済に資することなしには、教会も思想も評価されないのかと、ちょっと考えさせられるものがあります。もちろん結婚式を挙げる人たちはハッピーでしょうから、ケチつけちゃいけないでしょうね。こうした形で教会が運営されることも一つの方便ですし。良し悪しでなく、こういうものなんだな、うん。

いや、でも・・・、教会制度における矛盾を否定した内村が、挙式をメインにした教会建設を、自分の思想と馴染むものとして肯定するのか疑問ですね。少なくとももろ手を挙げて賛成はしない気がします。教会堂は素敵で、祈りに導かれるような場があることも良いと思いますけど、少々引っかかりを感じました。



石の教会

葉っぱ

教会堂

軽井沢教会の幼稚園


軽井沢の観光地っぽいエリアに移動して、日本基督教団 軽井沢教会の付属幼稚園だけ見学。

ヴォーリズ建築の日本基督教団 軽井沢教会を見逃したのは痛恨のミスですね。下調べが充分でなく。。

軽井沢はヴォーリズ建築の宝庫で、現在ミカド珈琲店となっている所に、かつて近江兄弟社の軽井沢事務所があり、施主と建築の打ち合わせを行っていました。で、その隣に建てられたのが日本基督教団の軽井沢教会。

他にもヴォーリズ建築としては、軽井沢ユニオンチャーチや軽井沢集会堂、軽井沢会テニスコートクラブハウス、国登録有形文化財の亜武巣(あむす)山荘や旧鈴木歯科診療所などがあります。一日でサッとめぐるのは難しそうですね。場所は離れていないけれど、関係者以外立ち入り禁止区域などがありそうで。



軽井沢ユニオン・チャーチ


では軽井沢ユニオン・チャーチへ。こちらには無事着きました。

1906年に設立された超教派の教会で、別荘に住む外国人達や宣教師が集っていました。今も信徒は英語圏の人たちが多いようですね。

礼拝の他、音楽や演劇の発表会、日本語学校も開かれているようです。建物は素朴だけれど、信仰的な雰囲気と教会としての現役感が溢れています。

で、こちらを1918(大正7)年に建て替えて、現在の姿にしたのがウィリアム・メレル・ヴォーリズ。キリスト教伝道とその主義に基づく様々な事業展開をした人物として知られ、帰化して一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)を名乗りました。日本に親和性の高い西洋建築を残し、それがヴォーリズ建築と呼ばれています。はっきり言って私もファンです、ヴォーリズ建築。だっていいんだもん!(としか、言いようがない(;^_^A

教会HPを見ると、ここで賀川豊彦が講演したと書かれていますね。100年もの歴史の中で、誰がどんな話をしたのか、誰が集い、どんな祈りが捧げられてきたのか、興味が尽きません。



ユニオン・チャーチ

歴史

教会内

教会内

ショー記念礼拝堂


続いて、有名な軽井沢ショー記念礼拝堂へ。

こちらも午後から結婚式なので入れませんとのこと。

外から写真を撮れるだけでも良しとしましょうか。


冒頭でA.C.ショーが軽井沢発展の発端となったと紹介しましたが、この人が福沢諭吉と厚い信頼関係にあったこともポイントです。ショーはカナダ出身の聖公会の宣教師で、福沢家の家庭教師として3年間雇われたことで、日本での地歩を築きました。

やがて慶應義塾の英語教師にも就任し、英語だけではなく聖書も教え、1875年のクリスマスには、後に衆議院議員となる尾崎行雄を含めた8人の日本人がショーから洗礼を受けています。また1876年に芝に聖アンデレ教会を設立。教会員の大山捨松(「鹿鳴館の華」と謳われた)と演劇をやったというエピソードも残されています。

A.C.ショーは1902(明治35)年東京で死去し、墓は青山霊園に。日本の土となってくれた功績者ですね。



ショー記念礼拝堂へ

案内板

ショー記念礼拝堂

A.C.ショー

聖パウロ カトリック教会


教会めぐりラストはカトリック教会へ。軽井沢聖パウロ カトリック教会です。

この教会は、1935(昭和10)年、軽井沢在住のフランス人をはじめとする外国人カトリック信者によって建設されました。

見に来ている観光客がここは特に多いですね。。有名な建築家の作品だからでしょうか。入れるみたいなので、中に入ってまずはお祈りを~♪



カトリック教会

聖パウロ カトリック教会


聖像

聖像

銘板



聖堂内


こちらの教会を設計したのは、高名な建築家アントニン・レーモンド(Antonin Raymond)。

チェコ人である彼は、プラハ工科大学で学んだ後、アメリカへ渡り市民権を得、1919(大正8)年、フランク・ロイド・ライトが手掛ける旧帝国ホテルの設計監理者として来日しました。

ライトが去った後も、レーモンドは日本に設計事務所を開設して滞在し、戦前戦後を通して多くの作品を生み出しました。 この教会もその一つで、敬度なカトリック信者であるレイモンド夫妻は、この教会の設計と工事に報酬を求めなかったといいます。

レーモンドは1933(昭和8)年から軽井沢に別荘を持ち、夏の間はこちらで過ごしていたので、自分も教会を必要としていたのでしょうね。今もあるのかわかりませんが、夫人のノエミさんは切り紙をガラスに貼ってステンドグラスの代わりとし、石彫の代わりにセメントでマリア像を作ったのだとか。

別荘を所有するセレブというと、お高くとまったイメージがありますが、人の持つ信仰はいつも素朴なところに原点があり、それは誰でも同じだなと感じます。セメント製のマリア像、見たかったな。



聖堂内

天井

入口扉

アッシジのフランチェスコ

旧三笠ホテル


そろそろ軽井沢を発たなければなりません。少し立ち寄ってみたのは、国登録重要文化財の旧三笠ホテル。

政財界の要人・文人に愛され「軽井沢の鹿鳴館」と言われた木造純西洋式ホテルで、時間があったら見学したいところですが、今日は我慢の子。

見逃しも多いので、再訪を期すことにしましょうかね(このパターン多いなぁ。汗)

しかし本当に見たかったのは旧三笠ホテルではなく、有島武郎終焉の地で、そこがホテルの近くだと聞いたから。三笠ホテルの創立者 山本直良の夫人は有島武郎の妹で、三笠ホテルが白樺派のサロンとして利用されていたこともありました。また英国から取り寄せたすべての洋食器には、武郎の弟で画家の有島生馬が絵付けを行ったそう。


有島武郎のこと


だからたぶんホテルの離れみたいな所で心中したのかなと思ったんですけどね。でもよく考えると、ホテルの管理下にあったなら、遺体が一か月以上も経ってから発見されるなんてことなかったかも。・・・ここまで書いたら、もう少しちゃんと有島武郎のこと書いておくべきですかね。後味いい話じゃないけど。

有島武郎は内村鑑三に師事してキリスト教に入信したクリスチャンで、札幌農学校時代は新渡戸稲造の家に寄寓して学校に通っていたので、メリー夫人からも大変可愛がられて学生時代を過ごしました。卒業後に留学先としてハバフォードを選んだのも、新渡戸の勧めがあったから。

ハバフォード大学大学院、そしてハーバード大学で学び、更にヨーロッパにも渡ってニーチェなどの西洋哲学の影響を受け、1907年帰国。この頃から信仰への疑問を持ち、徐々に信仰から離れていくようになりました。1916年に妻と父を亡くしましたが、「カインの末裔」「生まれ出づる悩み」を書き、1919年には「或る女」を発表。作家として隆盛期に至りました。


不倫と心中


しかし1923年、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と知り合って恋愛関係になり、秋子の夫から脅迫を受けて苦しむこととなりました。そしてその年の6月9日、二人は軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死心中を遂げました。子供、三人もいたんですけどね。印税を残して、母や子供を頼むと兄に頼んで逝きました。

遺書には「永い永い思い出のみ残る。今朝は有難う。兄の熱烈なる諌止にもかかわらず私達は行く。僕はこの挙を少しも悔いずただ十全の満足の中にある」とありますが、どうでしょう。遺書の結びの言葉にも共感できません。「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此の瞬間まで思わなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」――。

今改めて調べてみたら、武郎が自殺した別荘 浄月庵は、別の場所に移築されて記念館になっているようです。いつか行ってみようかな。こちらは何となく「再訪を期す」とは言いにくいんだけど。



旧三笠ホテル

旧三笠ホテル

周辺の林

周辺の林

サービスエリア


一筆書きでぐるりとめぐらせてもらった信濃国。訪れた所を振り返ってみると、自分の考えていることが透けて見えるようで、いささか恥ずかしい気も。

観光地らしい観光地にはほとんど行ってませんね。「そこ!?」みたいなニッチな、ほとんどの人が見向きもしない所に行っています。

こんな旅行計画を立てた私を許容し、かつ同等の関心を持って(?)、運転してくれた夫に感謝。ここまで読んでくださった方がいましたら、その方々にも。感謝しつつ、ニッチな旅を続けていきたいと思います(╹◡╹)





「本物の教会」!?


「本物の教会」で結婚式を挙げるのが、最近のトレンドだそうです。本物でない、教会風の結婚式場はダサいと考えられつつあるようで。それで小さくても「本物の教会」で、「本物の牧師や神父」に式を挙げてもらえると素敵だという認識が広がっているみたいです。

結婚情報サイトにも、こだわり検索として「本物の教会」というのがあるし、キリスト教界では「ブライダル牧師」も、ネガティブな言い方ではなくなってきています。

そんな状況を是か非か論じようというのではなく、そんな「本物の教会」への良いイメージを誰がどう作ったかということにスポットを当ててみてはと思います。それって先人たちの行いと、営々と作り上げられてきた文化へのリスペクトですよね。ヨーロッパへの憧れも含めてですけど。

だから「本物の教会」志向を、皮相的な流行だ断じる必要はないと思います。それどころか、先達の功績と文化について自分がよく知らないせいで、彼らの志向をただの流行だと誤解しているかもしれません。

もしかしたら潜在的なアドバンテージを生かせないまま、世俗のことだと切り捨てていないか、もう一度考えてみてもよいのではないかと思うのです。

自分が信じているものの背景には、自分が知らずにいる良さがまだまだあると信じて、それを掘り起こしていくためにも、もっと駆けずり回って、学び知っていけたらと思う帰り道なのでした☆彡






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