本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 東のSAKURA!②   スマホ版は⇒コチラ

 東のSAKURA!②


さてツアー当日。駅前に集まったのは、大学生から社会人まで男女合わせて30人ほど。「史跡めぐり」なんて地味な企画にこんなに集まってくれると思いませんでした。それも若い人たちが。歴史に関心持つ人増えているのかな。それなら希望的です。コンビニでお茶買って、しゅっぱーつ☆



佐倉高校へ


まずは前回同様佐倉高校へ。自己紹介など聞きながら、トコトコと。こういう機会があるから出会える人もいるんだから、機会はすべからく賜物(プレゼント)ですね。

皆千葉県在住だけど、佐倉に住んでいる人はいないようで、佐倉高校出身の人もいませんでした。千葉も広いんですね。


校庭の木々


佐倉高校に着いて、記念館を見たりしながら、中庭でレクチャーを。館内に入ると集まって話がしにくくなると思ったので。

千葉のキリシタン史と佐倉藩について、それから展示品にちなんでヘボンさんの話をしました。

「ヘボンさん、めっちゃ好きになりました。すごくないですか?」「惚れる!」という感想が後で寄せられました。ヘボンさん喜んでいるかも。たぶんヘボンさんは佐倉には来たことなかったと思うけど (;^_^A



校章

鹿山文庫


鹿山文庫が展示されている部屋の、一つの壁面全部が長島茂雄コーナーになっていました。

佐倉一高だった時代の卒業生なんですね。頭良かったんだーと思いました。長島さんはクリスチャンではないけれど、奥様と息子の一茂さんが確かカトリック信徒ですよね。

「西の長崎、東の佐倉」と言われていたと説明すると、「それって本当に本当ですか?」「そう書いてあるのを読んでも、どうしても信じられない」という言葉が口々から。「すげーな、佐倉」という意見も。若い人の感想聞くのって面白いですね。正直だから、街への認識や人々の現況をダイレクトに教えてくれます。



堀田正倫年表

堀田正倫

当時掛けられていた

川瀬屋で語らいのときを


自分が案内しているため、今回は写真少なめですが、ここまでで午前中は終わり。ランチタイムはやはり老舗のそば店「川瀬屋」で。

予約して行ったら、店の一角を貸切みたいにしてくれ、心置きなく話をして過ごせて良かったです。今日も暑いので冷やしそばでクールダウン♪


油屋


店の前の旧道(佐倉街道。成田街道とも)を歩いて行くと、旧家が保存されていました。土日にはボランティアガイドさんが詰めているようで、「こんにちは~」と声をかけられ中へ。

「皆さん歴女ですか?」と聞かれて、女性たちが爆笑。若者は反応いいですね。これくらい笑ってもらえたら、ガイドさんも気分いいでしょう。私も昔はこれくらい愛想と愛嬌があったんだろうなと遠い目になりつつ、今は落ち着いた笑顔でこちらの「油屋」の説明を聞いておりました。



「駿河屋」解説板

内部

油屋の中


が、ガイドさんの話を聞きながら、何気なく部屋を見回していて、ちょいびっくりな発見を☆

ここに桂小五郎や山本覚馬が投宿してたですと!

桂小五郎は言わずと知れた長州藩の維新志士で、のちの木戸孝允。ファンの人も多いことでしょうけど、注目したいのは山本覚馬。新島八重のお兄さんでクリスチャンですし、この人の協力があったから今の同志社大学が建てられたと言っても過言ではありません。


山本覚馬とキリスト教


では行きがかり上仕方ないので、山本覚馬とキリスト教についてもお話しましょう(話したくてしょうがないw)。山本覚馬は会津藩の砲術師範の家に生まれた人物で、長じて佐久間象山の塾で学び、藩主 松平容保に従って鳥羽伏見の戦いで戦いました。

この戦いで薩摩藩に捕らわれましたが、幽閉中に口述筆記した「山本覚馬建白」(通称「管見」)が認められ、1870(明治3)年、なんと京都府顧問として迎えられました。人生正に塞翁が馬です。この頃東京に明治天皇が移り、京都も都として残すという「奠都」(てんと)が行われ、京都の衰退が危ぶまれていたのですが、覚馬は日本初の博覧会(京都博覧会)を開催するなど勧業政策に取り組みました。


同志社の陰の立役者


1872(明治5)年に来日した宣教師ゴードン(アメリカン・ボードの宣教師。ゴルドンとも)と知り合い、1875年彼から贈られた「天道溯原」を読んで感動し、キリスト教に深く共鳴。ゴードンを通して知り合った新島襄のキリスト教主義校設立の計画を知り、旧薩摩藩邸の敷地を学校用地として新島に安価で譲渡し、新島と連名で「私学開業願」に署名して、新島の同志社英学校設立に協力しました。

「同志社」の名も、覚馬の命名といわれています。新島襄が永眠した後は、同志社臨時社長を務め、その発展に寄与しました。死後、墓は若王子山上の同志社墓地に。こうして見ると、覚馬は同志社設立もう一人の立役者と言っても良さそうです。

受洗したのは1885(明治18)年ですが、妻や実母、娘たちに妹の八重と、全員がクリスチャンになっています。信仰深く、かつその実践においても抜きん出ていた覚馬の足跡に、ここで出合えるとは思っていませんでした。感謝~(*'▽')



解説パネル

桂小五郎

店内

敷地内


「裏に蔵とか井戸とかありますけど、見ますか?」とガイドさんに訊かれて、世話役の女性が私をチラリと見ました。時間を気にしたんだと思います。

私の答えは「蔵とか井戸とか見たいです!」(即答)。そういう古いもの、生活感のあるもの、大好物です。時間は多少押しても大丈夫。後で早く歩けばいいのデス。

という訳で店の裏手へ。蔵には着物や古い甲冑など。匂いもいい感じです。この匂いだけでタイムスリップしてしまいそうで。あぁ、もう行っちゃってもいいんだけど♪(帰って来られるなら~)



蔵の中

装束


庭の石造物


庭には様々な石造物が。灯籠だったり、装飾品だったり。この庭を桂小五郎や山本覚馬が歩いたんですかね。

旧家にはこういう石造物がつきものなんですが、「この形が〇〇で、この印は〇〇を表すものだ」と、何でも隠れキリシタンと結びつける研究家たちがいます。

その人たちにはこの庭は見せない方がいいなと思いました。また変にこじつけた解釈をされると困るので汗



石造物

井戸


井戸の深さは20メートル以上。桶で汲んだ水を投じると、しばらくしてからジャバッという音がします。それくらい深いんだと思ったら、覗くのも怖くなりました。

「スマホ落とすなよー」と互いに声を掛け合って、恐々撮りました。ほんと何か落としたらシャレになりません。自分が落ちたらと思ったら((((;゚Д゚))))ガクブル

だけど新島襄が山本覚馬の元に来て、初めて八重を見たとき、八重は暑いからと井戸の上に板を渡してその上に座って裁縫をしていたといいます。覚馬つながりでそれを思い出して、幕末明治の女性って肝が据わっていたんだなと思いました。



井戸を覗く

めっちゃ深い

復元された高札場


また少し歩くと、今度は復元された高札場が。

前回はこちらの道を通らなかったのですが、今回通って大正解!(というか、下見と違う道通るって、下見の意味あったのか...)

これを当時街道を通る人たちは見ていたんですね。五榜の掲示の第三札は「切支丹禁制」の高札でした。私が高札の内容が有効だった時代に生きていたら、きっと「キリシタンって怖いな。絶対に信じませんとも」と思ったてただろうなと思います。ええ、単純ですから。

高札場の隣には、佐倉のご当地キャラ「カムロちゃん」が描かれた自販機が。皆こっちを写メ撮ってました(よかよかw)。このキャラクターは400年前の妖かし(あやかし。=妖怪)が現代に蘇ったという設定なのですが、この400という数字が、禁教令から現代までの年数と重なって面白がれないのは私だけでしょうか。。(←おねーさん、気にし過ぎですよ)



復元された高札場

カムロちゃん自販機

日本基督教団 佐倉教会


思いもよらぬ出合いは尚も続き、日本基督教団の佐倉教会も見えてきました。創立は1904(明治37)年というから、100年超えの教会ですね。

教会HPを見ると、1911年から現在の場所に会堂があったそう。すごい歴史です。単に流れた年月が長いというだけでなく、どんなにたくさんの人が来て救われたのかを思うとたまらなく。


日本基督教団 佐倉教会

佐倉城址公園


そしてラストは佐倉城址へ。堀と土塁、礎石までは普通に通り過ぎましたが、堀田正睦とハリス像を見たら、日米修好通商条約から信徒発見までの流れを語らずにいられようかという感じで、熱弁を振るいました。

しかし・・・、自分の無力さを痛感しました。聞く人も一生懸命聞いてくれ、話す方も熱心に話すのに、なぜかうまく伝わっていかないのです。

実力不足ということもあるけど、やはりもっと資料や写真などを提示して、見せることをしないとなと思いました。どうしても実感が伴わないと、感動をよぶことができないんですよね。

自分一人で史跡めぐりするなら、自分の頭の中に入っている画像や資料があり、それに基づいて感動していればいいのですが、人を引率するときにはそれではダメなんだなと思いました。案内するのが初めてでもないくせに、今頃という感じですが、今後の課題にしようと思います。ちょっと反省(ちょっとかいっ)。



堀田正睦像

城址

本丸跡の芝生広場


本丸広場に出て、15分ほど自由時間。だだっ広くて何もない中でも、若人は音楽かけたりして各々楽しく過ごすんですね。

何か遊びを始めたり、座ってお菓子を取り出してシェアしたり(あ、くれるのね、ありがとう☆)・・・。若者の底力というか、すごさを感じました。

ゆとり世代とか、ゆとり教育の後の世代とか、いろんな言われ方をしますが、もしかしたらとても良い方向に行っているのかもしれません。時代の潮流というか、若者の風潮が。問題はいつの時代もあるけれど、若い人の意見をどんどん取り入れていくといいですよね。もっと信じて委ねていくといくことで、社会の閉塞感が打ち破られるのではないかと思いました。

で、こんな最後の最後になってしまったのですが、千葉のキリシタン史と殉教地についてもお話しておきましょうかね。「今更~!?」というツッコミが聞こえてきそうですが、何となくここまで書くタイミングがなかったんですよね ( ̄▽ ̄;)アハ

千葉のキリシタン!


まず千葉には1ヵ所殉教地があります。伊豆、下田の旧家に伝わる古文書に、「寛永9年(1632年)に下田奉行今村伝四郎正成の知行地の上総国(現在の千葉県)で1人のキリシタンが成敗された」と書かれていたことから、千葉にも殉教地があったことが発覚しました。

上総国で今村伝四郎正成の知行地だったということから、それは木更津の小櫃川(おびつがわ)の畔ではなかったかと考えられています。しかしどこの村の誰が、どのように処刑されたのか等は全くわかっていません。そもそも千葉でキリシタンが処刑されたことがあったということ自体、下田の旧家から古文書が出てくるまで全く知られていないことでした。

キリシタンに関する記録は、主に江戸の切支丹屋敷にあったのですが、ある時古いものを一斉に廃棄してしまったことから、記録がなくなってしまいました。記録すら消されてしまった殉教がどれほどあったのか、今となっては神さましかご存知でないことなのでしょう。

また同じ理由から、千葉にどのように福音が入っていき、キリシタンが暮らすようになったのかも分かっていません。ただ駿府キリシタンの中心人物、ディエゴ小笠原権之丞(ごんのじょう。家康の隠し子だとも言われる)の養父、小笠原広朝(ひろとも)がキリシタンで、上総国に住んでいたので、そこからキリスト教の教えが広がったのではないかと推察されています。

江戸から近く海にも面しているので、キリシタンの歴史が他にも何かあってもおかしくないのに、記録がないことがとても残念です。いつか古文書が発見されたりしたら、どんなにいいだろうと思います。以上、「今更~!?」の千葉キリシタン史でした。


芝生

本丸跡


分かってくれること


最近とみに思うのが、分かってもらえることの有り難さ。辛い思いをしているときに誰かが分かってくれると、それで立ち直れたり、新たな力が湧いてきたりします。だから分かってくれることは、ほんとに大きなことを私にしてくれているのだよと言いたいです。

分かってあげることも同じように、相手に力をあげられることなんでしょうね。でもどうしてなんだろう?どうして分かってあげること、くれることで、そんな作用が起こるのか。それは人間がそういう存在として創られたんだろうと、私は解釈するんだけど、心理学者には別の解釈があるんでしょう。

分かってあげてこそ、その人を大切にしているということが言えるだろうし、分かってあげてこそ、分かってもらえるのだろうということも言えそうです。これが人間関係のポイントではないかと思うんですよね。

今日は自分より若い人たちと歩いて、違いを感じることもあったのだけど、共通するところも多々ありました。互いに分かってあげてこそ、うれしく天国みたいだと、そのことは今日も何度も感じて。

この世では多くの人と接していくのだから、何気ない生活の中でこういううれしくなれるポイントをたくさん押さえて、共にあることを喜んでいけたらと思います (#^^#)




                                   NEXT >>