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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 エヴァーグリーンの杜 chap.4



今回の宮城旅は、東北学院大で行われる公開講座を聴くのが目的。だけど、それならついでに以前から気になっていた所へ行ってみようということで、あちこち回ろうとしています。

仙台は東北地方の首都のようなものだけど、東北のキリスト教史でも重要な位置を占めています。その理由を探ることができたらなと、少々遠大な目標を掲げて、行って来まーす (^^)/




古川駅到着


着いたのはJR古川駅。仙台を通り過ぎて来ましたが、間違いではありません。午後の講座の前に、先に古川で吉野作造ゆかりの地をめぐろうというのが密かな目論見で。

宮城県は広いので、街をはしごして回るのは困難。ならば来るたびに一か所ずつ攻略すべしということで、今回は古川を選んだのです。

予想はしてましたが、ちょっと静かな街ですね。駅のキヨスクくらいしか、お店が開いていないのが誤算でした。朝ごはんでも食べてひと息ついてから街歩きに出ようと思っていたのですが、行くかー。行くしかないかー。



駅前

駅周辺

沿道のひまわり


通勤者もまばらな朝の街。だけど気温はすでに33℃を超えています。今年は猛暑で連日36℃超の気温が関東では続いていますが、東北もそのようで。

もう少し涼しいかと思っていたんですが、なめてましたね。東北だって夏は暑いんだ!

賀川豊彦が特別伝道集会を開いた日本基督教団の陸前古川教会を目指しましたが、 どんなに探しても見つからず、断念することに。

しょっぱなからツイてません。ちゃんとチェックして自作地図に落としてきたんだけどなぁ。前途多難感が押し寄せてきますが、沿道のひまわりに励まされて次なる目的地へ向かうことにしました。



古川聖書バプテスト教会


古川高校に行こうとしていたら、その手前に古川聖書バプテスト教会を発見。随分と栄えている感じがする教会です。

サイトを検索してみましたが、まだ工事中でどんな歴史を持っているのかは分かりませんでした。明治の初めに古川で活動したバプテスト派の宣教師ポートとつながっているんでしょうか?

アップされている写真を見ると、若い人が多そう。良いことですね。



古川高校


こちらが古川高等学校。去年創立120周年を迎えた名門校で、吉野作造の弟 吉野信次も出ています。

労働者のための共済組合「友愛会」を立ち上げた鈴木文治もこの学校の出身ですね。鈴木文治がクリスチャンであったため、この会はキリスト教精神に立脚していました。

いつか鈴木文治ゆかりの地である栗原郡の金成町(かんなりちょう)も行ってみたいと思っているんですが。



奥州街道


では古川高校の先を折れて奥州街道へ。 奥州街道と言えばキリシタンですね!(え?w)。キリシタンであることが発覚し、江戸送りになった者たちは、皆この道を通って連行されていきました。もちろんここより北に住んでいた人たちですけど。

現在は32号線の方に「奥州街道」の名が付けられていますが、昔の奥州街道は1号線の方です。「旧奥州街道」と呼ぶ方がいいのかもしれないですね。来てみると、道路の舗装は新しいけれど、やっぱり街道の面影が残っていますね。



西宮神社

旧奥州街道

奥州街道跡の石碑


しばらく行くと、右手の三日町公園内に奥州街道跡の石碑が建てられていました。これが証拠ですね。正しい道を歩けて良かった♪

実はこれらの情報は、以前から一緒に殉教地めぐりをしている仙台在住のMちゃんが教えてくれたもので、彼女が先に歩いてメモをくれたのです。ありがたやー☆



奥州街道碑

三日町公園

三日町公園

ラベンダー

緒絶橋


またしばらく進むと、左前方に柳の巨樹が。遠目にもいわくありげで、「ここで何かありましたよ」という雰囲気が漂ってきます。

これは行くしか。こんなに史跡感出てたら、東北を往来する人たちは皆見ていったんでしょうね。それでは私も。



緒絶橋のたもと


解説板によると、柳の下にあるこちらの橋が緒絶橋(おだえばし)というもので、万葉集にもその名が記されている歌枕なのだそう。

この大崎の地は古来よりたびたび川が氾濫し、そのたびに流れが大きく変わりました。そのために以前の川筋が切れてしまうことがあり、川としての命脈が切れたものを「緒絶川」(命の絶えた川)と呼んだことから、その川筋に架けられた橋ということで「緒絶橋」と名付けられたのだとか。

またこの物悲しい名前には、恋が叶わず身投げした姫のストーリーが絡められ、「悲恋」や「叶わぬ恋」を暗示するものとなったようです。松尾芭蕉はこの地を訪れようとしたけれど、道を誤って辿り着けなくて残念がったとも書かれています。ふむ、それくらい昔から知られていた所なんですね。



緒絶橋

緒絶橋

緒絶橋

解説板


さて、ここが重要なのは芭蕉が来られなかった歌枕だからではありません。

この緒絶橋の下を流れる川の水で、1880(明治13)年、バプテスト派宣教師ポートが洗礼を施したことが、私的にはもっと注目したいところ。

1880年って、高札撤去から10年も経っていなくてかなり早い時期ですよ。仙台でのプロテスタントの本格的伝道が始まったのも1880年。それと同じ年に古川(大崎市)では、カトリックもプロテスタントも最初の洗礼が行われているのです。

それは当地が宿場町ではないものの、昔から様々な人や物が往来する奥州街道の沿いにあり、川での舟運も行われていたことが関係しているのだと考えられます。城下町ですし。吉野作造など明治大正の日本を引っ張っていく人物が出たことも、こういう街の歴史と無関係ではなさそう。街を歩くと見えてくるものがありますね。



川沿いの蔵


純心幼稚園

古川一小


川沿いの小径を、散歩気分で進み、ひょいと曲がると古川第一小学校が現れます。ここが古川城址で、吉野作造の出身校

正門脇には巨大な石碑と解説板が建てられています。吉野作造については、私が書くよりこちらの解説を読んでいただくのが一番ですね。

「当時の古川が日本における少年文学の盛んな土地の一つであったことが、後の博士の思想形成に大きな役割を果たしたといっても過言ではないだろう。」と、若干のお手盛り感は拭えませんが (^▽^;)



正門脇

解説板

古川城址

吉野作造

正門

校庭に土塁の跡

大崎市役所


小学校が古川城址だったなら、ここも城内だったろうなと思う所にある大崎市役所。旧奥州街道が、市役所の前で右に直角に曲がっていることからもそれがうかがえます。

江戸時代はこの辺りに土塁が築かれていたのかもしれないですね。おっと、大崎市の何かが世界農業遺産に認定されたのだと、看板に文字が躍っています。今も頑張っている街なんですね。



世界農業遺産

吉野作造生誕地


次第に強くなる日差しに負けじと、10分ほど歩いて吉野作造生誕地へ到着。黄色いポストが目印です。

そろそろカフェとかで休みたいところですけど、飲食店が全くないですね。開いてないというか。

マックやドトールくらいあるだろうという、都会人の発想がいけませんでした。初めての街に来るたび、固定観念を捨てるべし、自分本位の常識を捨てるべしと思うのですが、なかなか。しかしまぁ、目的地には着いたのでベンチで休みましょうかね。もう真昼みたいな熱気ですから水分補給もしないと。。

ではここでちょっと吉野作造のライフストーリーを紹介いたしましょう。


吉野作造の生涯


1878(明治11)年、現在の大崎市古川十日町に生まれた吉野作造は、古川尋常小学校を経て宮城県尋常中学校(現、仙台一高)に進学し、仙台にいたときに尚絅女学校校長アンネ・S・ブゼルの聖書研究会に参加するようになり、20歳のときに受洗しました。

このブゼル宣教師の影響でクリスチャンになったのは、吉野だけでなく、のちに一緒に活動していく内ヶ崎作三郎や、文学者の島地雷夢がいます。1900年に東京帝国大学法科大学に入学して東京に移ると、海老名弾正の説教に感銘を受け、本郷教会に通いました。

大学院を卒業すると中国に渡り、袁世凱の長男の家庭教師を務めたこともユニークな経歴。1915(大正4)年から古川学人(ふるかわ・がくじん)というペンネームを使用し、評論「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」などを発表。これによって大正デモクラシーの代表的な論客とみなされるようになりました。

1933(昭和8)年、55歳で死去。子供の頃から体が弱かったようですが、たくさん無理もしたからでしょうか。少し早い死が惜しまれます。



黄色いポスト

記念公園

吉野作造について


吉野作造生誕地は小さな公園になっていて、一番奥に解説板と本の像(「像」というんだろうか?)が置かれています。

吉野作造像ではなくて、著書の像というのは賛否両論あるかと思いますが、私はいいと思います。吉野はクリスチャンだったので、自分が像になったりするのを喜ばないと思うんですよね。

「民本主義」「大正デモクラシー」という言葉と一緒に語られることが多い吉野ですが、クリスチャンだったことも彼の人生で大きなウェイトを占めていたと思います。解説板にはその辺のことが書かれてないので、ちょっとまとめておきましょうか (*'▽')


吉野作造とキリスト教 その1


1897(明治30)年、吉野は旧制第二高等学校へ進学するのですが、ここで出会った仲間たちが、のちに吉野が大正デモクラシーをけん引していく際に貴重な人脈になりました。中学時代から押川方義(おしかわ・まさよし)の演説に足を運んでいた吉野は、尚絅女学校(今の尚絅学院)初代校長アンネ・S・ブゼルの聖書研究会にも参加。

そこに栗原基や内ヶ崎作三郎、小山東助(おやま・とうすけ)らが参加していました。この3人は吉野と共に東大へと進み、本郷教会に通うようになります。吉野は盟友に恵まれていたんですね。

さてブゼルの感化を受けた吉野は1898(明治31)年に仙台浸礼教会で中島力三郎牧師から洗礼を受けていますが、この教会を建てたのはバプテスト派の宣教師ポート。緒絶橋の所で洗礼を施していた人です。ちょっと不思議な縁ですけど。

ついでに言うなら、東北学院の創立者 押方正義が東北伝道を始めたのもポートと同じ頃で、1883(明治16)年からは古川で伝道開始していました。そこから発展して建てられたのが、現在まで続く古川教会(日本基督教団陸前古川教会)です。やっぱりあの教会見逃したのは痛かったなー(´;ω;`)



本の像

著書

解説板

カトリック古川教会


吉野作造生誕地から徒歩5分。カトリック古川教会に到着しました。吉野の実家からはカトリック教会が近かったんですね。

幼少期や帰省の折に、カトリックに触れるなんてこともあったかもしれないなと思ったりして。

こちらは大崎市内で唯一のカトリック教会ですが、歴史は古いです。先ほど緒絶橋のところでフライングして書いてしまいましたが、1880年には既に古川に進出しており、受洗者を出していますから。

1880年パリ外国宣教会のプロトラン神父から古川地区の13名が受洗したことが記録されています。高札撤去からわずか7年。因習深い地域なら、まだ「切支丹バテレン」への偏見が根強く残っていたことでしょう。そんな国内状況の中で、カトリックでもプロテスタントでも受洗者を出している地域は限られますから、やはり地域性に着目する必要があるでしょう。



聖堂内


中に入って行くと、信徒の方が朝のミサの準備をされていました。挨拶をしてお祈りをして、しばし言葉を交わしたところ、ご高齢の神父様が半時間ほどするといらっしゃるとのこと。

そこまでいられなかったのでお暇しましたが、信仰の火を守り続けている様子がうかがえました。



カトリック古川教会

カトリック古川教会

聖堂

大崎市民会館


吉野作造記念館へ行きたくて、少し進んで行くと、ただ者ではないと一目で分かる建築物が。大崎市民会館(旧古川市民会館)です。

「誰誰?このモダンな曲線は丹下健三~?」と思いながら、ネットで調べると、設計者は武基雄(たけ・もとお)という人でした。うー、さすが。モダン・ムーブメントの巨匠っす。

建築とアートのサイトによると「この会館は、丹下の設計による国立代々木競技場と並ぶ吊り構造の傑作」なのだとか。いい建築物を修復しながらちゃんと残してくれていて、大崎市ポイント高いです☆



大崎市民会館

吉野作造記念館


そこから20分は歩いたでしょうか。吉野作造記念館にたどり着きました。

午前中なのに気温は35℃を超え、今日も危険な暑さ。さぁさ、中に入りましょう。

来館者が私だったのと、ちょうど学芸員さんが詰めている時間帯だったことから、企画展を担当した学芸員さんからマンツーマンで解説を受けられるという幸運に恵まれました。吉野作造とキリスト教に関する事柄を中心に知りたい旨を伝え、Mちゃんお勧めの企画展示目録が欲しいとお願いを。

すると吉野に関する映像を観ている間に目録を数点揃えておいてくれ、時間と要望に沿って案内してくれました。ほんとに感謝でございます。資料館や記念館は学芸員の優秀さと熱意によるところが大きく、収蔵品を生かすも殺すも学芸員次第。

企画展が良ければ評判が上がり、地域振興と観光にも寄与するので、学芸員は街の観光資源と言っても過言ではありません。ここは以前からネットでチェックしていたのですが、来てみてやはりなと思いました。吉野が決して古びておらず、今という時代に語りかけてきます。学芸員だけの力とは思いませんが、それにしても価値ある展示と活動をしているなと。

ではもう少し吉野とキリスト教の関わりを振り返っておきましょう~。


吉野作造とキリスト教 その2


仙台ではバプテスト派の教会に通った吉野ですが、実のところ若干の違和感を拭いきれなかったようで、上京して本郷教会に通い始めてからの方が、水を得た魚のように躍動し始めます。海老名弾正の下で教会誌「新人」に携わったのもその一つ。

しかし海老名と考え方が全て同じだったわけではありません。海老名が中心となっていた日本組合基督教会(組合教会)は、日本に併合された朝鮮に対し、精力的に伝道活動しようとする立場でしたが、吉野はそう考えてはいませんでした。

組合教会も一枚板ではなく、柏木義円や湯浅治郎は日本による朝鮮人の「臣民化」に反対していて、吉野の考え方もそれと軌を一にするものでした。吉野は朝鮮統治を否定しませんでしたが、各国のナショナリズムにも敬意を払うべきだと考えていたのです。

しかしながら本郷教会の人脈は多岐に広がり、吉野を支えるものになったことは間違いありません。現在のライオン株式会社の創始者 小林富次郎もその一人で、「新人」の刊行費の多くを出していました。

また特定の教会の枠を超えて協同することもありました。1920(大正9)年には森本厚吉、有島武郎らと共に文化生活研究会を結成し、関東大震災の際には賀川豊彦の活動を支援。彼らは皆キリスト教者でした。



吉野作造記念館

記念碑

記念碑

記念館のマスコットキャラクター


記念館入口には、シュール過ぎるマスコットキャラクター「ライ造君」が。日本のお米と民主主義を守る紳士だそう。

館内は撮影不可ですが、ここだけ記念撮影ができるようになっています。ま、それはそれとして・・・。

最初に観た映像からして、吉野がキリスト教と出会い、その影響を受けて活動を展開していくという流れで描いていて、吉野とキリスト教は切っても切れない関係であることが分かります。


吉野作造生誕140年記念展


私が行ったときには、吉野作造生誕140年記念「働く人の権利を求めて」という企画展が開催中でした。労働運動まで関心の範囲を広げる気はなかったので、食指が動かないなーと思いつつ見ていたのですが、次第に考えが改まるように。吉野の次女 明(あき)が、労働運動に邁進していたことを知り。

また1912(大正元)年に設立された労働者団体の先駆け友愛会は、吉野と一緒に「新人」の編集をしていた鈴木文治が立ち上げたもので、片山哲、安部磯雄、松岡駒吉らその関係者たちは、皆クリスチャンで吉野の仲間。

私はクリスチャンという方向からだけ物事を見て、考えていましたが、どうやら逆方向から捉えてみる必要があることに気付きました。労働運動と普通選挙の実現、政党政治の定着にはその時代の多くのクリスチャンが関わっていて、その一人が吉野だということです。

つまり、もうちょっと関心の範囲を広げないとダメなんじゃないかということですね。学ぶことが多すぎて頭パンクしそうですけど・・・、まあボチボチと。とりあえずは東京の友愛労働歴史館には行ってみようかなと思いました☆




 それでは仙台へ♪


東北学院大 ホーイ記念館


記念館を後にして、古川駅11時発のバスで仙台に向かい、いろいろしくじりながら何とか13時の公開講座に間に合いました。

飲食店に出合うことができず、お菓子くらいしか食べられずに来てしまったので、集中して聴けるか心配。私には有りがちな展開ですけどね (;´д`)トホホ



東北学院大学公開講座


聴講したかったのは東北学院大学公開講座の一つ、川島堅二教授による「出口王仁三郎『霊界物語』とキリスト教」。タイトルから想像していたのは「日本人の霊性をキリスト教的観点で解く」話や「キリスト教の大本教への影響」みたいなことだったのですが、それを遥かに上回るラディカルな説でびっくり。

聴きに来なかったら、簡単には聴けない話だったろうと思いました。キリスト教を「超越と土着」という観点で読み解くこと自体が私には新しいのですが、「大本教は日本に土着したキリスト教である」と提示されたところで驚いたのは私だけではなかったと思います。

誤解を恐れず拙い要約をするならば、大本教は王仁三郎の時代にキリスト教を換骨奪胎して取り込むことによって、ちょっと読むだけでは弾圧されない教理に自己変革し、土着に成功。かつ「万教同根」の考え方を推進して、積極的にキリスト教やイスラム教との対話を進め成果を得ているというものです。

このことを通して、まとめとして川島教授が言っていたのは、そこから何を学ぶかということでした。これが抜けると批判だけされてしまいそうなので強調したいのですが、結論は「大本教がどうこう」ということではないのです。

そこから何を学ぶべきなのか? そこから学ぶことで、キリスト教の未来、ポストコロニアル時代のキリスト教がどう進むべきかが見えてくるのではないかということでした(たぶん)。


神学の意義


今や世界の果てまで宣教は及び、そこでは、改宗すれば死刑となるイスラム教と接しています。ならば、もはや宣教と改宗の対象ではないイスラム世界とどう付き合うのか。対話し共存し、その中で自分たちの宗教を説いていく必要があるのではないか。

神学者シュライアマハーが「人類に画一性を求めることほど宗教的でないことはない」と述べているけれど、その言葉の今日的意味を考えるべきときに来ていると、川島教授は言っているように聞こえました(たぶんたぶん)。

そんな普段考えてもいない超絶高レベルな話を聴いて、脳内で思考の千本ノックを受けているような感じでしたが、自分と世界に必要な話だということは分かりました。そして神学というのは、難解なことを何百年もかけて考えている机上の学問ではなくて、世界の未来に関係する学問なのだと知りました。

それでちょっとだけ神学というものの意義と面白さが理解できるようになりました。今まで知らずに敬遠してたことを思えば、これも大きな収穫です♪



やっとお昼


外に出てMちゃんと待ち合わせして、「ご飯が食べたい」と所望して韓国料理店へ。健康食が体にしみます。あー、生き返る。

さすがに仙台は食堂もカフェもいっぱい。しかもオシャレ。街もキレイだし。


東北大学


栄養摂って体力ゲージを回復したので、ちょこっと街歩きを。東北学院大土樋キャンパスのお隣の東北大学キャンパスにやって来ました。

魯迅が留学中に使用していた教室があると聞き一度見てみたいと思っていますが、リサーチ不足でどこか分からず、今回も断念。入っちゃいけなさそうな感じでもあり。

門前に建てられている石碑によると、この辺りには上級武士の屋敷が並んでいたようですね。奥州街道から脇道に入った所だと刻まれています。ん・・・(旧)奥州街道か、奥州街道と言えばキリシタンです(何度でも言う)。近くにあるようなので明日探してみなくては。



東北大学

東北大学

東北大学

石碑

七夕祭りの前


Mちゃんが私が停まるホテルまで歩きましょうと言うのでテクテク。地下鉄とか乗るより、歩くか自転車の方が早いようです。

七夕祭りを前に、街には吹き流しも。仙台の七夕祭りは有名ですもんね。

すんごく混みそうなので、テレビで見れば十分だと思ってましたが、大きな吹き流しを見ると、心躍るものがあります。



吹き流し

ビル

ビル

東北学院大発祥の地


「ここ来たかったでしょう?」と、Mちゃんが案内してくれたのが東北学院大発祥の地。

ここ来たかったです!前回探し当てられなくて。

地上を歩くと、こんな寄り道もできるから良いですよね。

東北学院大学は元々神学校。1886(明治19)年、「仙台神学校」という名でスタートしました。東北学院の創立者は押川方義とW・E・ホーイ。そこに中興の祖であるD・B・シュネーダーを加えて三校祖と呼んだりもします。

押川方義は松山の出身なのに、宮城で伝道を始めたんですね。古川にも足跡を残し、仙台では神学校を発足させて。どうして仙台だったのか、それは杜の都だったからでしょうね。やっぱり仙台は昔から東北のヘソだったのだなと思いました。



東北学院大発祥の地

記念碑

サテライトステーション

仙台ハリストス正教会


仙台ハリストス正教会の前を通りかかると、「祈祷中。どなたでも聖堂に入れます」との立札が。え、入っちゃっていいんですか。ありがとうございます♪

外観の写真は何枚も撮ったことがあるけれど、中に入るのは初めて。この時間帯に通りかかってラッキーでした。歩いて良かったなー。

声明のような聖歌を輔祭が歌う中、司祭はお香の壺を持って聖堂内を歩き回り、聖画に向けてお香を振りかける動作をくり返します。イコンが描かれたイコノスタシス(聖障。聖所と至聖所区切る壁)を司祭が出たり入ったりするのを見ているうちに、軽い眠気に襲われますが座ることは基本NG。

しかしこのパタンパタンと出入りする司祭と聖歌の無限ループみたいな音階が相まって、次第に違う世界にいるような感覚になってくるから不思議。ちょっとしたトリップ感を味わいました。


宮城のキリスト教先駆けは正教会


あ、そう言えば、明治になってから宮城県で最初にキリスト教を布教したのはロシア正教ですね。戊辰戦争に負けた仙台藩士たちが、再起をかけて北海道に渡ったのですが、そこで宣教師ニコライに出会って感化を受けて、宮城に戻って開拓伝道したのです。

新井奥邃(あらい・おうすい)という人がその代表格で、明治になって間もない1869年12月(明治2年11月)に、新井は仙台で旧友たちにロシア正教の教えを説いています。新井らの活動により県北部に正教のコミュニティが形成され、その中から千葉卓三郎や鈴木文治といった人材が輩出されました。

現在に至るまで宮城県は正教会の中心地の一つです。千葉卓三郎は私擬憲法「日本帝国憲法」(通称:五日市憲法)の起草者ですね。やっぱり自由民権運動などの社会運動はキリスト教と切っても切れない関係です。この際勉強せねば。ええ、しますとも。



正教会

祈祷中

八端十字



考えは消えるけれど


今日訪れた所は、何年も前に行きたいと思って調べていた所ばかり。考えはしたけど、行動に移さないでそのままにしていたので、いつの間にか忘れてしまっていました。だけど今回来てみて良かったと思うし、そこからまた発展するので、やっぱり行動に移すって大事なことなんだなと思います。

考えは消えるけれど、やったことは消えないんですね。一度考えても、その考えが脳から消えると、すっかり思い出さなくなるし。私は忘れっぽいからなぁ・・・。

「あ、これ!」とひらめいたことを、せめてどこかにメモしておいて、必要なときに取り出せるようにしておかなきゃいけませんね。そして行えば消えないから完璧。

後悔がないような立派な人生は、私には無理そうだけど、その回数を少なくできるよう、もうちょっと知恵を、生活の中での知恵を蓄えていきたいです (*´ω`*)






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