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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 ベトナムで碧くたゆたふ 1


この夏はベトナムへ! ベトナムには14年前と12年前に行ったことがあるのですが、その頃は歴史とか興味がなくて、異国情緒を楽しんだ感じでした。少しは成長したと思うので、より深く見て感じて来ることができたらいいな。行ってきまーす (*'▽')


ベトナム航空


ベトナム航空の機体は青緑。「碧(あお)」と表現できる色です。そこで今回の旅行記のネーミングも「碧く」に決定。

「たゆたふ」というのは、揺らめくイメージですかね。せっかく日常とは違う世界に行くので、心をその国の色に染めて揺らめかしてみたいです。


ハノイのバス


今回の旅程は、ハノイ⇒ニャチャン⇒ホーチミン。まずは首都ハノイに到着して、現地在住の夫妻と合流してホテルに向かいます。

言葉ができる人が一緒にいてくれるって、ほんと安心ですね。両替して、ハノイ駅に向かうバスにも無事乗れて、ほっ☆


マンゴーホテル


宿泊したのはハノイ駅の近くのマンゴーホテル。付いてくる朝食ビュッフェがエクセレントです。

ベトナム料理をベースに洋食が取り揃えられているのですが、やっぱりここはベトナムで。

中華の影響を受けて、スパイシーさを甘さに変えた感じですかね。美味しくて雰囲気も良く・・・、ええ、ハイ、朝から舞い上がってます (^▽^;)



ビュッフェ

ベトナム料理

マンゴーホテル

街へ


それではホテルに荷物を預けて、街へ。昔行ったホーチミンより埃っぽくない感じ?

雨降ってるからかもしれないですね。雨季は毎日こんな天気だそう。晴れるとめっちゃ暑くて、そこへ時折スコールがどしゃー。

バランス取れているんでしょうね。バイクに注意しながら、街歩き。



電気屋


ハノイ大聖堂


ホテルから歩いて到着、ハノイ大聖堂。

中央手前に建てられているマリア像が優しげです。

二つの塔を持つゴシック様式のこの聖堂は、約120年前に建てられたもの。

長きにわたり、高温多湿の地で風雨にさらされたため、外壁はかなり汚れて黒ずんでいますね。歴史の重さと捉えれば良いでしょうか。中に入ってみましょー♪



ハノイ大聖堂

カテドラル

入口

盆栽

聖堂内


聖堂内は大聖堂の名に恥じぬ荘厳さ。

ハノイ教区には40万人ものカトリック信者がいるそう。

教会を精神的なインフラと言っては語弊があるかもしれないですが、それに近い面があるかと思います。

社会主義国であるこの国で、人々の心に信仰の恵みをもたらす場は限られているかもしれないので。ちょっとベトナムのキリスト教史を振り返っておきましょうか。


ベトナムのキリスト教史


ベトナムにキリスト教が伝わったのは16世紀前半とみられますが、フランシスコ会やアウグスチノ会が個々に伝道を開始したので、誰がいつ最初に伝えたのか詳細は不明です。しかし17世紀に入るとイエズス会が主導してベトナム宣教が行われ、その時から記録が明確になります。

既にベトナムには朱印船貿易などを通して日本人キリシタンが多く移住していたこともあり、1611年イエズス会はベトナム(コーチシナ)を日本管区に編入。新たな日本宣教の一翼を担うようになりました。なんと、キリシタン時代に日本とベトナムはキリスト教でつながっていたのです!

トンキン地方(ハノイなど北部)での宣教を摸索していたマカオのイエズス会が、トンキンの国王 鄭氏に使節を派遣したのは1626年。その時日本人も同行しています。鄭氏の保護を受け、トンキンの首都タンロン(現在のハノイ)では教会建設が認められ、王族17人を含む1200人が初年度に洗礼を受けたんだとか。


しかーし!暗転 (´;ω;`)


そのまま隆盛を迎えられれば良かったのですが、1628年にトンキンで禁教令が発布され、宣教師は国外追放されました。信徒たちは自分たちで信仰を維持するしかなくなったのですが、そこに転機が訪れます。フランスで発足したパリ外国宣教会が1660年に3人、1662年に1人の宣教師をベトナムに派遣したのです。やったー、ラッキー!(いえいえ、神の御心です)

パリ外国宣教会はそれまでイエズス会が築いてきた信徒集団とネットワークを活用することによって宣教を進め、1667年には7000人を超える新規の信徒を得ました。1676年からはドミニコ会が入り、教皇庁の決定を経て、1765年からはベトナムの宣教はドミニコ会に委ねられることになりました。

長くなるので、ここから先の歴史はまた次の所に行ってからお話しすることしますね☆彡





聖堂内

聖堂内

脇祭壇

ステンドグラス

リジューのテレーズ

祭壇

ステンドグラス

バラ窓

アンデレ・ジュン・ラック


むむっ!こちらは1839年ミンマン帝による迫害で殉教したベトナムの聖人アンデレ・ジュン・ラックではないですかっ。

危うく見落とすところでした。アンデレ・ジュン・ラックは、列聖されたベトナムの殉教者の中でも筆頭に挙げられる人物。ベトナム・クリスチャンの鑑です。

アンデレは、1839年ハノイで斬首刑に処せられて殉教したので、こちらにステンドグラスで描かれているんでしょう。

それにしても・・・、ベトナムに来ても日本同様キリシタンや殉教者に関する所をめぐってるって、導きあってのことなんでしょうね。やっぱ感謝だな (*^^*)ハレルヤ




 ホー・チ・ミンに会いに行こう!


バイク爆走


ひっきりなしバイクが爆走していく街中を、おっかなびっくりで移動。次はホー・チ・ミン廟に行こうと思ってて。

信号があって、守ってくれるだけマシですかね(普通のことだが)。ただし右側通行なのは、日本人には危険。注意しているのと反対側から車やバイクが来るから。

ちょうど雨足が強くなってきたところで、市内バスに乗れました。朝からドキドキハラハラ。。



街中

バス

車内

外は雨

ホー・チ・ミンさーん!


ホー・チ・ミン廟に眠るホー・チ・ミン主席は、時間内に行けば会えるということなのですが、いろいろと手間取って時間オーバーしてしまい、見られませんでした。

ホー・チ・ミンは、言わずと知れたベトナム国民の父。「ホーおじさん」と呼ばれています。

遺体が防腐処理されているだなんて、共産主義っぽいですが、「ホーおじさん」ってあたりは庶民的。両方の要素を持ち合わせた社会体制なのかもしれないなと。



ホー・チ・ミン廟


こちらがホー・チ・ミン廟。厳めしい顔つきで衛兵が守っています。

私たちの前を歩いていた韓国人の団体が、廟の前で横断幕を広げ始めたら、警笛を鳴らして衛兵たちが駆けつけてきて、すごく怖かったです。

逮捕連行まではされていませんでしたが、しばらくもめてて、ジロジロ見ているのも憚られる感じ。やはりこういう政治的な所は気を付けていかないとダメなんですね。呑気な気分でいましたが、緊張が走りました。

ホー・チ・ミンが独立宣言を読んだバーディン広場の反対側には、新国会議事堂。ここ政治の中心なんですね。国の礎を築いた場所に立っているんだなと思ったら、ベトナムの歴史がオーバーラップしてきました。ベトナムも他国からの侵略、軍事介入と、複雑で起伏の多い道を歩んできたと思います。そこに日本も関わっているから・・・それは知らなくちゃですよね。



ホー・チ・ミン廟

国旗掲揚塔

新国会議事堂

バーディン広場

ホアンジエウ通り


バーディン広場を通り抜けて、ホアンジエウ通りへ。しばらくすると右手に戦没者慰霊塔が見えてきます。

もう少し進むと左手にタンロン城への入口がありますが、昔の城域はもっと広く、新国会議事堂の辺りまで全部お城。今歩いている所も城内でした。

不思議ですね。いつも思うことですけど、時の流れって、全てを押し流して変えてしまうんですから。




建物

建物

戦没者慰霊塔

城壁


タンロン城内は様々に区切られていたとみえ、いつの時代からあるものかは分かりませんが、左にはずっと城壁が続いています。

この城壁には弾痕など、戦争の爪痕がたくさん残っているのだとか。知らないでいると、「古そうな建造物だなー」くらいで通り過ぎてしまいそうですけどね。

教えてもらえて感謝です。現地在住の人に案内してもらうって、言葉とか便宜的なことより、そういう観点を示してもらえるのが有り難いです。もちろん言葉でもものすごくお世話になってますけど☆



城壁

慰霊塔

世界遺産 タンロン城


それではベトナムで6番目に世界遺産登録されたタンロン城へ。

ユネスコのマークが掲げられたエントランスホールに入って行くと、あまりやる気を感じられない解説板とジオラマが。

まだいろいろと整ってないのかなあと思いながら、とりあえず城域へ。おおぅー、広い。建物がある所まで遠いですねぇ。



解説板

ジオラマ

遠い

広い

端門


昔はこんなんじゃなかったろうなと思いながら、芝生の間の道を歩いて端門へ。

タンロン城は三重の構造になっていました。一番内側が皇帝が住む宮城、二層目は政治を司る皇城、一番外側は商区や庶民の生活圏で京城。

で、皇帝一族の住居があった宮城の南側に、ただ一つ開かれたのがこの端門でした。今「タンロン城」として見学しているのは皇城で、ここから先が宮城ってことですね。I see.

門にある5つの出入口の真ん中のものが皇帝専用だったそう。よし、そこを通りましょう。門を抜けると上の楼閣へ上がる階段が。上がってみましょうかね♪



解説板

解説板

フラッグタワー

出入口

楼閣


楼閣に上がって行くと、緑の庭園が。建設当時からこんな空中庭園が設けられていたんですかね。だったらすごいな。造られたの1000年も前だから。

タンロン城は、1010年ベトナム最初の長期王朝リー()朝の初代皇帝リー・タイトー(李太祖)が、都をタンロン(昇龍。現在のハノイ)に定めて築いた城。

その後歴代王朝により何度も再建されていきました。しかし1802年グエン(阮)朝時代になると、初代ザーロン帝は都をタンロンからフエに遷都。その際主な建物は解体されて、新しい都に運ばれたんだとか。

それでなのか分からないけど、もぬけの殻感が漂っていますね。建物内部にもほぼ何も無いです。



楼閣への階段

ザーロン帝

昔の写真

内部

日本人、しかもキリシタンが来た!


さて、ここで素晴らしい情報が。この城に日本人が、しかもキリシタンが来ています! 名前は古賀ジュリオ・ピアン二。

トンキン地方(今のベトナム北部)での宣教を摸索していたマカオのイエズス会が、国王 鄭氏に使節としてジュリアーノ・バルデノティ神父と日本人イルマンの古賀ジュリオ・ピアン二を派遣したのは1626年のことでした。

日本人女性通訳ウルスラ等の協力を得、翌年からは当地での宣教が開始されました。1626年と言ったら、日本では元和の大殉教の頃ですね。将軍家光が就任して、キリシタンは血の雨の中で生きていました。イエズス会にとっては日本での宣教が行き詰まり、また日本人キリシタンの受け皿になる地を確保するためにも、新しい宣教地を探す必要があったのだと考えられます。

あー、感無量。彼らと時間差でここにいるなんて。おーい、ジュリオ~!(呼んでみたw)



1954年の様子

ベトミン時代

解説板

ホー・チ・ミン

発掘品


宮城エリアの建物は、今はミュージアムに。発掘品を展示しています。

1000年前の都の栄華を物語る様々な品が並んでいるかと思いきや、量も質もそれほどではないような?(私の目が節穴だという可能性はあるけど)

まあまあ楽しめますが、ちょっと物足りないかなと。国立博物館とか別にあって、そちらに収蔵されているのかもしれないですね。



展示品

発掘品


焼き物

焼き物

展示品

発掘品

大砲

自然石


半分野外みたいな所には、自然石が並べられていました。石のギャラリーみたいです。種類が多様で、形も特徴的なので、見ていて楽しいかも。

ベトナムは自然石の産地なんですかね。素人目にもなかなか良い物のように見受けられました☆


自然石

自然石

自然石

自然石


中庭には鐘と太鼓、亀の石像も。日本や韓国で見るのと大体同じで、既視感を覚えるほど。東南アジアとはいえ、ベトナムは中国の影響を受けまくってますね。

今回教えてもらって知ったのだけれど、東南アジアの中で中国の影響を受けているのは、ほぼベトナムのみなのだとか。そこが日本人など東アジアの者にとっては親近感を覚えるポイントになるようです (*´ω`)

話を歴史に戻しますと、 その後グエン朝は衰退し、1884年フランス植民地政府によってタンロン城は部分破壊されてしまいました。

1954年にフランスが撤退した後、1975年まではベトナム人民軍の最高司令部がここに置かれていました。さっき楼閣で見た解説板にホー・チ・ミン主席が写ってたのはそのためです。




鐘の上部

太鼓

デカい亀

盆栽満載


レンガ敷きの庭から素焼きの足台がニョキっとせり出し、その上に据えられた鉢の中には・・・盆栽が。盆栽ですよねぇ?

日本でやったら「邪道」の一言で片付けられそうな形式が、ここでは「いいでしょ?」的になっているところに、文化のバリエーションを感じます。

この種の物を以前からベトナム各地で目にするんですが、何か物申したくなるのは私だけではないかと。。ま、いいんでしょうね。

龍が彫られた石段は、後レー(黎)朝期に最も栄えたレー・タイントン皇帝の時代、1467年に造られたものだとか。どうりで石が磨滅して表情があやふやになっています。これも意匠としてザ・チャイニーズですね。この石段の上に敬天殿という建物がありましたが、今建っているのはフランス占領時の建物です。

敬天殿は皇帝とその家族の生活の場所で、謁見や儀式なども執り行われたというから、使節として訪れた宣教師や日本人イルマン(ジュリオ~!)が来た可能性大。この石段も上ったかもしれないですね。チャイニーズ方式なら真ん中は皇帝しか歩けないから、使節一行は端っこの方でも。ちょいロマン (o^^o)



建物

中庭

龍の石段


博物館


中庭を抜けると、もう一つ博物館がありました。宮殿で使われていた陶器の皿などが展示してあります。

きっと文化的価値の高い物なんでしょうけど、イマイチそれが感じられず、絢爛豪華は宮殿生活はイメージできません。

1000年前から200年前までの約800年間都が置かれ、タンロン城はその中心だったのだから、もうちょっとその頃の栄華を感じたいところですが。



展示


陶器

陶器

建物


十字紋があったので撮りましたが、解説板がないので何の建物か不明。フランス植民地時代のものでしょうかね。

全体的に解説等が遅れている印象です。発掘も並行してやっているから、手が回らないのかもしれないけど。

1000年前の宮城と、フランス植民地時代、北ベトナム軍時代のものが重なりあって同居しているのだから、タンロン城は歴史の宝庫。しっかり整備してアピールしたら、ハノイを代表する観光地になるだろうに☆彡



D67の家


近代的な建物があるなと思って入って行くと、北ベトナム軍の作戦本部でした。

こちらは地下にある会議室。

ベトナム史を一気に駆け上ってるみたいで一瞬眩暈がしました。

テーブルの上のポットにはカワイイ猫が描かれていて、ギャップ萌えを狙ったとしか・・・。


ベトナム統一までの作戦本部


1967年から20044月までベトナム共産党の政治部中央軍事委員会は、抗米戦争の戦略に関する決定を含む重要な会議をここで開催しました。特に19741218日から197518日まで、南部解放に関する議決を行い、1975年のベトナム全土統一を導いたのです。

つまり、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争とも言う)は結局北ベトナムによる南ベトナムの吸収で統一されて、現在のベトナム社会主義共和国が樹立されるのだけど、そこに至るまでの作戦は、すべてここから発せられた司令で行われたということです。考えれば考えるほど・・・すごいなぁ、これ。



会議室

猫のポット

ホー・チ・ミン

戦略地図

地下


作戦本部の置かれた建物内は、鉄の扉で何重にも遮られた構造で、地下に特徴があります。

ソ連の援助で建てられたもので、原子爆弾にも耐えられる設計だったのだとか。

第二次世界大戦で日本に原爆落とされていますからね、核の脅威は具体的、現実的なものだったのでしょう。

作戦本部だけあって、情報収集や伝達のための機器、壁には手書きの戦略地図などがあって、今も緊張感が伝わってきます。



地下

機器

機器

通信機器

機器

手書き地図

戦略地図


地上


地上の会議室もありました。中庭に出られるようになっていて、気分転換に風に当たりに出たんだろうと思われます。

会議室のテーブルの上には、ヴォーグエンザップ将軍やレーズアン書記長などのネームプレートが。

ヴォーグエンザップは抗仏、抗米戦争を勝利に導いたベトナムの伝説的名将で、長寿を全うして(100歳オーバー)、ほんの数年前に亡くなっています。

ベトナム戦争について知ろうとしたら、ここは必見ですね。来るまで知らなかったけど (^_^;)



地上会議室

地上会議室

ネームプレート

地上階の部屋

ジャックフルーツ


敷地内には木々が植えられているのですが、ジャックフルーツが実をつけていました。わぉ南国~。

実に紙袋をかけているものもあって、売ろうとしている?みたいなw。プレミアム付きそうですね。

こんな大らかな国民性の国に、過酷な戦争があっただなんて。特にベトナム戦争は現代史において、象徴的な意味さえある戦争だったと思います。



何か祀ってる


後楼と呼ばれる建物に入って行くと、最上階の3階に何やら祀っている祭壇が。

中国の天后を祀っているようにも見えますが、真ん中にあるのは位牌ですね。先祖を祀っているでしょうか。

後楼は側室や女官達が皇帝のお世話をするために控える場所だったということですが、往時を語る物は一切無し。

各階のスペースも狭く、物も置かれていないので、「ほんとに王宮だったのかな?」と思ってしまいます。タンロン城自体が全体的に王宮感に乏しいのですが、その割には祭壇だけ急に気合い入っているからバランスが悪いです。キューレーターに頑張ってほしいなと思いました。



風が通る

後楼

祭壇

漢字

公園


1000年前の都から40年前のベトナム戦争までの情報が一度入力されたので、脳が軽くシェイクされた感じ。気温34℃の空気と相まって、熱を帯びています。

フラッグタワー方向に少し歩いて道を渡ると公園が見えてきました。誰かの像が建てられていますね。


レーニン公園


よく見たら、レーニンでした。レーニン公園と書かれています(たぶん)。

やっぱ社会主義国なんですね。建てられている像を見ると、その国で尊敬されている人が分かり、国の有り様がうかがえます。

旧ソ連崩壊の折、世界各地にあったレーニン像が次々と引き倒されたにも関わらず、ここのレーニン像は無事だったんですね。



レーニン公園



下町


「社会主義国だ」と感じる瞬間を除けば、街は資本主義国と変わらず、下町にいたっては親しみと懐かしさを覚えるほど。

近しい感じの中に、時折違和感が混じって、それがベトナムというイメージに合一されています。

実体経済としては、社会主義国家と言っても、もはや資本主義国家と何ら変わらないものになってきているので、違和感をガツンと感じるのは、鎌と槌マークと赤を見た時くらいですけども。



ハノイ

ハノイ

食堂

食堂

食事は移住したいレベル


T夫妻が連れていってくれたハノイの食堂は、見た目はsosoでしたが、味は抜群。移住を考えたくなるレベルでした。ベトナムの食事は日本人の口に合いますね。

油と砂糖はやや多めですが、出汁と旨味のコンビネーションがクセになります。同じアジアで米文化だから味の好みが似ているのかも。シャイな国民性も似通っているように感じますね ( ̄▽ ̄)ゴキゲン



メニュー

ブンチャー

揚げ物

小鳥


 ホアロー収容所跡へ


タクシーで


それではタクシーでホアロー収容所へ向かいましょう。予想通りの荒い運転で、想像以上の交通カオス。この危なっかしさは日本人にはキツイなと思いました。。

ぼんやりしてたらあっという間に轢かれそうで、私一人では横断歩道も渡れる気がしません。やっぱり移住は無理か。



ホアロー収容所


小雨の中、ホアロー収容所に到着。フランス植民地時代に、抵抗運動をする人たちを捕えては入れ、拷問や処刑をした所です。

入口に大きく「Maison Centrale(メゾンサントラル)」と書かれていますが、これはフランス語で「刑務所」を表す婉曲的な言い方。

一般にはホアロー収容所と呼ばれていました。ホアローとは竈(かまど)のことで、昔からの村の名前です。

当時ホアロー収容所の敷地はずっと広かったのですが、ハノイタワー建設のためほとんどの部分が取り壊され、東側の一角が史跡・博物館として整備され公開されています。では見学へ。



ホアロー収容所

ホアロー収容所跡

ホアロー収容所跡

ホアロー収容所跡


入ってすぐの所で解説とジオラマを見て、収容所だった棟へ。物言わぬ壁からも重苦しい雰囲気が発散されています。

ホアロー収容所は1899年から使用され、 勤王運動やイエンテー反乱の指導者達、ドンキン義塾学校の創立者や塾長、ドンズー運動の指導者やベトナム国民党を率いた指導者など多くの革命の志士たちが囚われました。

彼らは自由を奪われ、拷問を受けたのはもちろんのこと、処刑されたりもしました。そりゃ重苦しくもなるはずです。



ジオラマ

解説


展示室

監房


実際に使われていた監房内には、当時の様子を表す実物大人形が。

現実世界との境界線が明らかになるようにか、暗いトーンで色づけられているのが、心象風景まで見せる効果を生んでいます。

民族を思う熱情と囚われたわが身、肉体の限界を試みる拷問と理想を捨てることへの誘惑・・・彼らが闘った葛藤が湿った空気の中で熟成されて、今もここにあるように感じます。





監房

実際の写真

抜け穴に使った

監房

独房


独房の中にも人形が。光のない目をこちらに向けていて、ドキッとします。虚空に向けられた、この暗い目こそ、彼らの心そのものだったのかと。

壁のレリーフには拷問の様子が描かれ、抜け穴として使われた下水道も展示されています。


独房

独房

下水道

レリーフ

展示室


展示室にはジオラマも。フランスはこんな風にベトナム人運動家を弾圧していたんだなと知りました。

しかし・・・、ここで一つ疑問が。フランスが撤退しベトナム北部が解放された1954年以降は、ここはベトナム政府によって使用されていたはず。

特に1964年から1973年までは、捕虜となったアメリカ人パイロット等が収容されていましたよね。その時入れられていた人で、代表的かつ有名なのはジョン・マッケイン。2008年のアメリカ大統領選で共和党から立候補し、オバマさんと戦った人です。あの人は捕虜キャンプやここで5年半ほど過ごしていました。

いやいや「過ごした」だなんて生易しいものではなく、瀕死だったのに医療も施されず、ベトナム寄りのプロパガンダに利用され、拷問も受けたと後に語っています。1973年1月にパリ協定が結ばれ、アメリカ軍のベトナム戦争への関与が終わったので、3月に釈放されましたけど。

フランスによる弾圧と拷問を言うのなら、ベトナム人が行った拷問や非人道的行為も同時に表すべきではないでしょうかね。韓国の西大門刑務所でもそうでしたが、他国にやられたことばかりを強調して、自分たちが行ったことには口を閉じる傾向があるように思います。



下水道を通って

囚人服体験

独房

監房

ギロチン


重く冷たい扉の向こうには処刑室。大きなギロチンが据えられていました。

フランス製で、わざわざ向こうから取り寄せたものだそう。

壁には関連展示で斬首された首などの写真もあったのですが、載せるのは控えますね。ここでは言葉を失うしかありませんでした。



ギロチン

首受け

解説板

展示

独房


奥には更に独房が続いています。本当はもっと収容棟があり、房が延々続いていたんでしょうね。

ホアロー収容所には女性も収監されていたので、彼女たちの写真もありました。

しっかりとした職業婦人たちのように見受けられます。植民地支配に従わなかっただけで、立派な市民たちだったのだと分かります。


房の配置

女性たち

独房

独房内

顕彰碑


中庭には彼らの勇気と忍耐を称える記念碑が。処刑された人たちの写真やパネルも並んでいます。

先ほどと同様に、斬首された首が積まれた写真などは掲載を控えますね。

処刑されたのは主に指導者クラスの人たちだったようです。


中庭

パネル

記念碑

パネル

この少女


パネルの中で、この少女だけは見覚えがありました。名前はヴォー・ティ・サウ。

フランス兵に向けて手榴弾を投げるなどゲリラ戦を行って逮捕され、19歳の若さでコンダオ島で銃殺刑に処されました。

処刑の際に跪くことを求めたフランス兵に対して、「私は立つことしか知らない、跪くことなど知らない!」と言い放ち、最期まで故国を目に焼きつけたいと、目隠しを拒否。海を眺めながら革命歌を歌い、「ベトナム万歳!ホー・チ・ミン万歳!」と叫んで死んでいったといいます。19歳で・・・。



パネル

展示

記念碑

解説板

こちらの建物は


中庭から入って行けるこちらの建物は、何だか今までと趣が異なります。

収容者の服もキレイだし、壁には十字架。なんだこれ・・・?

こちらの建物内には、ベトナム戦争時に北ベトナム軍がアメリカ兵捕虜の収容所として利用した際のことが展示されているようです。

なるほど、さっきの監房で私が感じた疑問に応えてくれる施設もちゃんとあったんだんですね。しかし・・・、何でしょうね、すごーくお手盛りです。自分たちはアメリカ兵を大事に大事に扱いましたよという、言い訳めいた展示に終始しています。

ビリヤードやバスケットボールを楽しんでいる写真があり、そんな様子を映したビデオがエンドレス放映中。解説板では、礼拝も守らせてあげたし、クリスマスもちゃんと祝ったんだ、とか書いてあります。拷問してたのに、よく言うわって感じです。これに騙される見学者なんているんですかね?



ビデオ映像

囚人服

十字架

クリスマスも

上階


上の階に上がると、誰かを称えていると思しき金色のプレート群が壁一面に並べられています。

革命の英雄や指導者の事績ですかね。壁の赤さと、彼らが顕彰する人々のパターンを認識できるようになってきたので、大体の想像はつきます。

ホアロー収容所で、ベトナム人の気高い精神を感じましたが、同時に、国の体制が定まってからは思考が固定化されたようにも感じました。固定化された思考の先に、自由は描けるんですかね?



金色のプレート

赤い部屋


 空港へ


ハノイ駅


ハノイ駅に戻って、ホテルに預けてあった荷物をピックアップ。女子たちは売店にスイーツを買いに行きましたが、空港バスの時間が気になる鬼マジメな私は荷物番を。

一本乗り逃がしたら大変だなと思って。立ってても汗が流れるほど暑いです。明日の登山は大丈夫なのかな・・・。

明日行く山には、12年前ホーチミン市にあるサイゴン駅から夜行列車に乗って向かったことを思い出しました。ベトナムは発展しましたね。私はどうなんだろう (´・ω・`)?



ハノイ駅

バス乗り場

発展

車窓から


無事空港バスに乗れ、車窓からハノイ見物。昨日は夜着いたので街の様子が分からなかったのですが、こうして見てみると活気があるなーと感じます。

特に若い世代が台頭してきている感じですね。良いことかと。高齢化の進む日本とは正反対です。

ベトナムの若い世代の活躍が、アジアの希望になるかもしれないなと思ったりして。



車内

車窓

バイク

壁画アート

紅河


ハノイ空港の手前で渡る橋、その下を流れる川は紅河!!!

紅(ホン)河は、数多の殉教者の血が流された川です。

いや、その前に宣教師が着いたのが紅河の河口だったから、この川を小舟で遡上してハノイに来たんでしょうね。昔は港が国の玄関口だったので、川はいわば高速道路だったのです。


紅河の河口で


パリ外国宣教会が1660年と1662年に宣教師をベトナムに向けて派遣したと、ハノイ大聖堂のところで書きましたが、1666年に宣教師デディエが紅河の河口付近に到着すると、ベトナム人のカテキスタ(教理を教える伝道士)で、ド・ロード神父に25年間仕えたラファエルが迎えたと記録にあります。

紅河の河口はイエズス会からパリ外国宣教会へとうまくバトンタッチできた現場だったということですね。意義深いです。ド・ロード神父はトンキン地方(ハノイなどベトナム北部のこと)に38か月滞在して、その間約5000人に洗礼を授けました。その信仰が根付いたから、バトンタッチも可能だったのかと。


聖テオファン・ベルナール


紅河に遺体が投げ込まれた殉教者は、パリ外国宣教会のジャン・テオファン・ベルナール。1854年にトンキンに到着し、主にケチュ(Ke-Tru)で宣教。ちょうど国内で最も迫害が厳しい頃だったため、1861年に捕らえられ、歌いながら連れられて行き、恐らく河の畔で斬首されました。享年32。

彼の首は紅河に投げ込まれましたが、ケチュの人々が捜索し、数日後15キロ下流で発見。今も村の聖堂に保存されているそうです。ケチュでは村民全員がカトリック教徒だとか。今はカトリックが公認されているので、迫害を受けることはありません(今も多少難しいことはあると聞きますが)。

テオファン・ベルナールは、1988年に教皇ヨハネ・パウロ二世によって列聖されました。彼の手紙は、リジューのテレーズ(幼きイエスの聖テレジアとも呼ばれる聖人)に影響を与えたことが知られています。それでハノイ大聖堂には彼女の等身大像があったんですね。人の思いは誰かに届き、ずっとつながっていくもの。この河のように――。



紅河

紅河

紅河

紅河

ハノイ空港


ハノイ空港に到着。ニャチャンまでは1時間ちょっとのフライトです。機内食はかわいらしいサンドイッチ。軽食ですが、これくらいで十分です。

ニャチャン空港からはバスで市内へ。リゾート客が多くて車内は満杯。ちょっとびっくりです。ロシア人と韓国人が多いようですね。それも不思議 ( ゚Д゚)

宿に着いたら洗濯です。今日明日2晩は一人部屋なので、今のうちに洗濯しておかなければ。おっと、それから宿でベトナム人のPちゃんと合流しました。Pちゃんは日本で働いているのですが、今回里帰りを兼ねて一緒に旅行することに。心強いです。こんな機会をくださって感謝です。あーした天気になーれ!



機内食

サンドイッチ

バス

部屋



マザーテレサの言葉


マザーテレサが言っていました。
「できないのではありません。できることが違うだけです」
人はそれぞれ違い、各々にできることがあるんですね。

今回は総勢5人で回ることになったのだけど、それぞれにできることがあるように思います。語学に研究、旅行ノウハウに旅程管理、円滑に運ぶようにするコーディネートなど。ただ、人のことはそれだと分かるのに、自分だけできることが無いように思えたり・・・。

きっかけからして、今回は急に混ぜてもらったような感じなのです。12年前に一緒にベトナムに行ったMちゃんが、Pちゃんと知り合って、また行こうとしている中で、私のことを思い出してくれ、Tさん夫妻に連絡しつつ、私も誘ってくれたという。だから私だけ専門性がないのは当然で。

でも誘ってもらい、自分も行きたいという思いを強くし、実際に来たのだから、信じましょうかね。できることがあるのだと。私の個性という違いを、自分でも見つけてみたいと思うニャチャンの夜なのでした☆






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