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 ベトナムで碧くたゆたふ 4


どんな旅行も終わるもの。最終日の今日は、統一会堂を見て、ゴ・ディン・ジエムが暗殺されたチョロンの方まで行こうと計画しています。うかうかして大切なものを見落としませんように。精神の帯を締めて、行って来ます♪


朝餉


朝ご飯は、近所の食堂でフォー・ボー。お茶の氷と生モヤシが、お腹こわさないか心配ですが、もう食べちゃう(お祈りしてw)。

とりあえず大丈夫そうです。朝7時とかでも30度以上で、日差しもギラギラ。一日健康で歩けたら、それだけでも感謝なことだと思います。


店の前


「慣れてきた頃が危ない」というのが、ハノイに住むTさんの弁。慣れてきた頃に交通事故に遭ったそうです。大事にならなくて良かったですけど。

こっちが気を付けていても、相手があることだから、100%無事はないようで。道を渡るのもまだ怖いですが、それも安全弁の一つなのかも。うまく怖がって行きましょう☆


統一会堂


タクシーに乗って統一会堂に到着。広い前庭には巨大噴水。ここに、1975年4月30日、フェンスを破って戦車が入ってきて、民衆も押し寄せ、サイゴン陥落となったのか・・・。

緑の芝生を見ていると、何か信じられないような気がします。それにしても豪華ですね。ヨーロッパの王侯貴族が暮らす宮殿のよう。中はどうなっているんだろう?



内閣会議室


中に入ると予想以上の豪華さ。完全に宮殿です。大階段の吹き抜けに内閣会議室のシャンデリアはまだ序の口で、バンケットルーム、カンファレンスルームとラグジュアリーな世界が続きます。

統一会堂の歴史をざっくり振り返ってみましょうかね。最初に建てられた建物は、戦時中に爆撃されて無くなって、今あるのは二代目。

一代目の建物は、フランス統治下の1873年に竣工しました。フランスが撤収し、1955年にベトナム共和国(南ベトナム)が成立した後に「独立(ドクラプ)宮殿」と改名。そこに南ベトナムの初代大統領ゴ・ディン・ジエムが住んでいました。

「宮殿」っていうくらいだから、当時の建物も贅を尽くしたものだったのでしょう。しかしその宮殿は1962年のクーデター未遂事件で爆撃を受けて大きく損壊。取り壊さざるを得なくなりました。では昨日から触れているジエムについてももう少し詳しく・・・↓


ゴ・ディン・ジエム政権


当時ジェムがどんな政治をしていたかというと、弟のゴ・ディン・ヌーを大統領顧問に任命し、秘密警察と軍特殊部隊を掌握させ、反政府分子を厳しく弾圧。同じカトリック教徒だったケネディ大統領と近しくなりました。

そして南ベトナム解放民族戦線(NLF。ジエムとアメリカ陣営はこれを蔑んで「ベトコン」と呼んだ)掃討のために、アメリカ軍にクラスター爆弾やナパーム弾による攻撃と枯葉剤散布を許可。南北対立は米国の本格的介入によって、泥沼に突き進んで行くこととなりました。

宗教政策としては、カトリックであったジエムは、カトリック信者の有力者たちを優遇して、仏教徒を弾圧したと、広く言われています。それは南ベトナム全体の人口比の割にカトリックの閣僚が多かったためですが、よく見ると閣僚には仏教徒もそれなりにいます。

また寺院がベトコンの拠点として使われていたことに目を付け、摘発したりしていたのが、宗教弾圧のように伝わってしまい、ジエムは独善的な人物だったと評価されています。しかしいずれも「情報戦」によるバイアスがかかっていることに留意しなければなりません。

確かにヴァチカンとの友好をアピールするため、大統領府にはヴァチカンの国旗が掲げられていましたし、1963年には反対勢力弾圧のために戒厳令を布告、各地の寺院を襲撃して僧たちを逮捕しました。6月に入ると抗議した僧侶が焼身自殺。これに対して弟ヌーの妻マダム・ヌーが「あんなものは単なる人間バーベキューよ」とテレビで語り、世界中から大顰蹙を買いました。

・・・最悪ですよね。この発言に対してはケネディも激怒。これ以上は共に歩めないと判断したと考えられます。しかしそれでも、こういった一つ一つの事実を使って、効果的に世論を味方につけようとした北政府の情報戦略も無視してはいけないと思うのです。


ジエムの末路


そして運命の11月2日、軍事クーデターが発生し、ジエムとヌーは反乱部隊により政権の座から下ろされ、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会で無条件降伏しました。その後教会前に停められた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で、頭部を撃たれて殺害されました。

死の一年前、1962年に起こったクーデター未遂は、一種の予兆だったように思えます。大統領府が破壊されたのは、「あなたの家が壊れようとしている」というメッセージだったのかもしれません。だけどそのメッセージを受け取れなかったジエムは政策を改めず、国民を顧みないことで自らの死を招いたのではないでしょうか。

いくら神様を信じていたって、人間らしく生きなければなりません。それが聖書の教えなのですから。大統領の座に座らせてもらえるところまでは、神様からの祝福があったと思いますが、与えられたものをどう使うかで、その後の運命は左右されるんだなと感じます。




バンケットルーム

グエン・カオ・キ

カンファレンスルーム

アート

廊下


二代目となる現在の建物が建てられたのは1966年。南ベトナムの建築家によって現代建築として再建されました。

建築にあたったのはゴ・ベト・チューという人で、ベトナム人として初めてローマ建築優秀賞を受賞した実力者。

だからこちらの建物は、市内に多いコロニアル建築ではなく、ベトナム人のアイデンティティに即した意匠を多く取り入れています。

1962年2月のクーデター未遂で一代目が損傷し、その年のうちに二代目の再建が始まったので、建築にはジエムの意向が反映されたはずです。しかしジエムはその完成を見ることもなく、次のクーデターで死んだ訳ですね。


二代目「宮殿」の主人


二代目たる現在の建物は、ベトナム戦争終結までベトナム共和国の大統領府及び官邸として使用されていました。解説パネルには、歴史的な会談や会見が行われたことや、要人が訪れた様子などが写真と共に解説されています。

いちいち事細かに解説しているのは、南ベトナムがどんなに贅沢に、堕落して、気を緩ませて暮らしていたかを見せるためでしょう。維持費も相当かかるだろうに、旧大統領官邸をピカピカに残していること自体、作為的だと感じずにはいられません。

さて、ここに住んだ大統領は、以下の3人です。
  • グエン・バン・チュー(完成時-1975年4月21日)
  • チャン・バン・フォン(1975年4月21日-4月28日)
  • ズオン・バン・ミン(1975年4月28日-4月30日)
日付まで載せたのは、下2人がほんの数日間ずつしか大統領をしていないことを示すため。明智光秀もびっくりな短期政権です。ここに大統領として住んでいたのは、実質的にはグエン・バン・チュー1人だったと言っていいでしょう。

ワンオーナーだから、キレイなはずですよ。こんなに豪華なのに10年も使われなかったのだし。誰も主人になり得なかった「宮殿」なのかもしれません。



大階段

バンケットホール

解説板

大統領応接室

国防会議室


こちらが国防会議室。解説によると、ここで大統領とアメリカ軍上級司令官との会議がもたれた・・・と言うけれど、全くやる気が感じられません (~_~;)

さっきまでのコストかかってる感じと、この質素さとでは、比べるのも酷なくらいの差があります。ちょっと倉庫みたいですね。力入れてなかった感がにじんでいます。



解説板

戦略地図

イスと机

大統領執務室


こちらが大統領執務室。事務的な仕事はあまりしてなかったのかな?と思ってしまいますが。。

空虚な感じがするんですよね。バンケットホールや応接室など、人が集ったり、人に見せたりする所は見目良く作って、バックヤードを支える事務的な事には力を入れなかったのでしょうか。

南ベトナムでは、外国の要人と会う外交が政治の大半を占めていたのかもしれませんね。



大統領執務室

大統領執務室

解説板

写真

大統領応接室


大統領応接室だけでなく、副大統領応接室もゴージャスですよ。

地上4階、地下1階の建物に95の部屋・・・、これがヨーロッパの大国の王宮というなら理解できます。

が、南ベトナムは国としての歴史も浅く、戦争中だというのに、設計変更せずゴージャスに建設したことに驚きますし、暮らした人間の精神に呆れます。

負けてましたよね、ここに住んだ時点で既に。ハノイにあった北ベトナム作戦本部との差はショックなほど歴然としています。私が神様だったら、こっちには肩入れしないと思います。清廉さと国を思う熱意という面で、随分と劣るではないですか。そりゃ北ベトナムにも矛盾があったでしょうが・・・。心揺れますね。



グエン・バン・チュー

大統領応接室

じゅうたん

床モザイク

副大統領応接室

副大統領応接室

夫人の写真

大使の部屋

中庭


中庭に出ました。大統領官邸のエリアですね。グエン・バン・チュー大統領宛てに各国から贈られた贈り物が並んでいます。

長い衣装部屋に食堂と寝室。寝室の窓からは芝生の庭とレユアン通りが見えます。これだけ市内が見渡せるなら、国民の怨嗟の声も、聞こうと思えば聞けただろうに。

さて、チューとはどんな人物だったかというと、異色の経歴の持ち主です。なんてったって元ベトミン(つまり北ベトナム側)。だけどベトミンの蛮行を見て、南ベトナム側に渡ってくるようになったのです。

共産主義の矛盾を見て転向してきたチューは、思想的に強く、北ベトナムとの戦いを指揮して頭角を表しました。そしてゴ・ディン・ジエム殺害後の混乱を収めて大統領に就任し、1975年4月まで政権を維持しました。しかしこのチュー時代には汚職や不正が蔓延し、軍の士気は下がってグダグダでした。

実はチューは大統領をやる傍ら、麻薬売買の元締めもしていました。しかもその麻薬は敵である南ベトナム解放戦線(NFL)から手に入れることもしばしばだったとか。ダメじゃん。この人、完全アウトやん...(;´Д`)



贈り物

私的スペース


衣装部屋

私的スペース

寝室

寝室

バスルーム

シアター


3階には、ヘリポート、大統領夫人が使う応接室、遊戯室にシアターが。

シアターって!

遊んでる場合ですか? 国民は血を流して戦っているのに。

北ベトナム作戦本部にあった、猫のポットを急に思い出しました。あそこではあれが唯一のゆるカワポイントで、微笑ましかったのに。ここでは笑いさえ出ません。



遊戯室

グランドピアノ

大統領夫人応接室

解説板

大統領夫人

大統領夫人応接室

絵画

図書室

ヘリポート


ヘリポートにはヘリコプター。誰も乗らないのに実物のヘリが置いてあるのは、南ベトナムがいかに堕落していたかを見せるため。

「いざとなったら、国民を置いて逃げる気だったんですよ、アイツ」と示したいがためです。

そうそう、そういう意図があってわざとヘリが置いてあるってことを、斟酌しながら見なければなりません。・・・と思うものの、自然と南ベトナム批判に傾きますよね、当然。

4階に上がると広いホールがあって、何だろうと思ったらダンスルームって書いてありました。たぶん200~300人は踊れると思いますよ。もっとかな (ToT)アハハハハ~



庭を見下ろせる

ダンスルーム

ダンスルーム

ダンスルーム

地下


地下に下りて行くと、ちょっとやる気を匂わせるような部屋が。緊急用の作戦司令室だそうです。

ふむふむ、一応戦争してるって分かってたんだ。人に会ってしゃべって、ビリヤードしたり映画観たりしてただけじゃないんだねー。

ちょっと安心しました。手書きの戦略地図もあるし、戦力を計算していたものも張ってあります。



作戦司令室

戦力

地図

戦略地図

士官室


士官室もありました。さっきの作戦司令室でも気になったんだけど、ちょっと狭いのが?って感じですけど、あるにはあります。床と壁がオシャレなのはこの際気にしないことに。

通信機器が置かれた部屋もあって、なるほどこれらは当時の最新機器だったんだろうと思いますし、大統領の緊急時の寝室からも本気度を感じます。よしよし、地下にこういう設備を隠していたんですね。見て良かったー。



部屋

廊下

通信機器

部屋

機器

大統領寝室

トンネル

部屋

厨房


・・・と思っていたら、厨房で逆転。厨房がやたら広くてピカピカ。さっきの通信機器より最新の贅沢マシンが取り揃えられておりました。

アイスクリームマシンとか、調理家電の〇〇メーカーとか要ります? 国民は長引く戦争で疲弊して、枯葉剤の散布で奇形児が生まれてるんですよ。早く戦争終わらせなきゃいけないじゃないですか。

ここに来て、何だかとても人間的な面が見えて、応接室とかでは感じられなかった、その人の心根みたいなものが見えました。あの人たちはやっぱり自分以外の人たちのことを考えられなかったんですよ。国民を守る立場なのに。

ジエムがクーデターで死去した後に、南ベトナム政府が変わるなら良かったと思いますが、変わるどころかもっとゴージャス&自分勝手に進んで行って、国民を顧みなかったから、負けるでもしてケリをつけるしかなかったのかもしれないなと思うようになりました。



厨房

アイスクリームマシン

調理器機

ベンツ

射撃場


地上階の一部がギャラリーになっていて、そこに射撃場がありました。向かい側には、記録映像を見せる部屋が。

映像見ても英語だけじゃなぁ・・・と思ったのですが、字幕付きの映像なので、意外と筋が理解できました。

ここまで見学してきたから、流れが分かって見たというのもあるでしょうけど。少しですがアップして載せますね↓




ジープ

土産屋

映像室

記録映像

公園


すっかり毒気に当てられたような感じで、外に出てきました。公園、子供用遊具、落ち着いた暮らし、経済的恩恵・・・。やっぱり平和が来て良かった。

国よりも自分たちの身を案じた人たちは去って、人々が安心して暮らせるようになったのだから、共産主義でも資本主義でも、とにかく戦争が終わったのが良かったのだと思います。そっか、神様も一番大切な平和をくださったんですね☆

きっと、この平和のために誰かが祈ったんだろうと思います。それはどちらか一方が勝てばいいなと考える狭いものではなく、あまねく愛し包容する心でした祈りだったのではないかと。そしてそれがふさわしく叶えられた形が、今ベトナム人が享受している平和なのではないかと思います。小さな自分を超える祈りを、私もしたいです。



公園の木


 ホーチミン作戦について知ろう


ホーチミン作戦博物館


ベトナム戦争を終わらせたホーチミン作戦についても知ろうと、ホーチミン作戦博物館へ。

この博物館の建物は、南ベトナム陸軍の高級将校の宿舎だったのを再利用したもの。「南の奴ら、こんな贅沢してやがったんですよ」というアピール、ここでもしかと受け止めました。

門を入った左右には戦車と戦闘機。戦車は1975年4月30日に統一会堂のフェンスを破って入って行った戦車と同型のもの。ソ連製ですかね。型式の名前がそんな感じです。



戦車

解説板

戦闘機

パンフレット

ホー・チ・ミン


中に入ると、ベトナム国旗と鎌と槌マークが融合した真っ赤なバックとホー・チ・ミン像。

見てみると、恐ろしいことに全ての解説がベトナム語オンリーですね。外国人への配慮0%ってことは、自国民に見せたい内容の博物館なのでしょう。



作戦の様子


面白いのは、ホーチミン作戦をジオラマ上に配されたライトで再現する装置。スタートボタンを押すと、音声と共に作戦が進んで行きます。

どこからどう攻めていったのかが手に取るように分かって、同じようなものを関ケ原で見て感心したことを思い出しました。

考えてみれば、日本では第二次世界大戦でも地上戦が行われたのは沖縄くらいで、それ以外は空爆によるもの。

大規模な地上戦は、関ヶ原の後は数えるほどでしたから、日本人は地上戦に対する認識が不足している可能性がありますね(例えば私なんかだと爆弾落とされたら終わりだというイメージで...)。地上戦は顔の見える相手との戦いだから、爆弾を落とすのとは違う過酷さがあるように思います。想像力が欠如してはいかんなと思ってガン見しましたが、ベトナム語分からずでライトの点滅を追うことしかできませんでした ((+_+))




サイゴン陥落

資料

サイゴン市民

館内

展示室


展示室には、北ベトナム軍が使用したロケットランチャーなどの武器・兵器が。ソ連製が目立ちます。

アメリカは武器も兵力も投入して、アメリカ文化まで南ベトナムに浸透させましたが、ソ連は違った方法でベトナムに関わったようです。

武器などの物資では支援しても、実際に兵を送った訳ではないし、その分内政干渉も少なかったかと。つまり北ベトナム軍は、ベトナム国民が自発的に選び、戦いに参加したものだったということです。

私はベトナム戦争というと、資本主義陣営と共産主義陣営との戦いだったというイメージが強かったのですが、南北それぞれを支持した人たちの動機と両陣営の支援内容は結構異なっているんだなと知りました。イメージで考えていたのと、実際は違うんですね。



展示室

火器


兵器

地図

写真


兵士

無条件降伏を聞く


「ホーチミン作戦」と命名されていますが、ホー・チ・ミンは1969年に死去しているので、後継者たちが作戦を指揮し、勝利に導きました。

こちらの人形で再現されたシーンは、南ベトナムの無条件降伏をラジオで聞いている場面。歴史的瞬間として残しているんでしょうね。

1975年4月30日の午前11時30分、南ベトナム最後の大統領ズオン・バン・ミンがテレビとラジオで無条件降伏の声明を発表し、十数年に及ぶベトナム戦争は北ベトナム軍の勝利で幕を下ろしました。

国民の意志で選んだ政府が勝ち、戦争が終わったことはどちらにとっても良かったのだから、真っ当な終わり方をしたと言えるのではないかと思います。あとは経済活動や市民生活に不都合な点を修正しながら発展していくのでしょう。何となく納得がいきました。個人的な思いとして。



展示

イス

地図

写真


 チョロンへ行こう!


チョロンへ


それではゴ・ディン・ジエムが殺害されたチョロンへ向かいましょうか。チョロンは中華街なのだと聞いています。

ジエムはカトリックのクリスチャン・ファミリーに生まれ、1950年代の初め、アメリカのニュージャージー州にあるカトリック神学校で学んでいたことがあります。

最後に逃げ込んだのもチョロンのカトリック教会。クーデター前のきな臭い匂いが立ち込めていた辺りから、頻繁にワシントンに連絡を取っていたことからも、同じカトリック信徒のケネディ大統領に助けてもらい、アメリカに脱出できる望みを抱いていたことがうかがえます。

ジエムはチョロンへはどんな道を通って行ったんでしょうね。もしかしたら同じ道を通ったのかもなと思ったり。人は権力を追われて行く時、どんな気分で車窓を眺めるものなんだろう。異国から来た観光客の私とは違い・・・、この風景をまたいつか見ることがあるのかと、長嘆息していたかもしれません。



光中堂


途中、私のリクエストで光中堂に寄ってもらいました。ここがたぶんベトナムで最初のプロテスタント教会。当初は違う場所にありましたが。

ベトナムにおけるプロテスタント宣教は、1911年ホーチミン市の華人ジャフレイ牧師に始まるとされます。

中国からベトナムに来たジャフレイら3人の宣教師はアメリカの宣教会に属していました。3人はベトナム中部のダナンに到着し、宣教を開始し、そこに聖書学校が誕生。

次いで1922年、ホーチミン市チョロンの参弁街(現在のタンダー通り)に宣教師と40数名の信徒が集まり、教会の成立を宣言しました。しばらくは借り家でしたたが、1932年に土地を買って教会堂を建設。これが現在の光中堂です。中には入れなさそうですが、外観だけで十分です。共産主義と宗教は微妙なバランス関係にあるからです。


共産主義と宗教


共産主義者にとっては、「宗教はアヘン」というだけでなく、「権力の手先になって、社会主義、共産主義へと移行する歴史発展を妨害する反動勢力」「人民の敵」として、粉砕・打倒しなければならない対象でした。しかし1905年レーニンは、信仰と不信仰の自由を保障。信仰のために差別を受けるようなことがあってもならないとしました。

ところが!ロシア革命後、レーニンは、教会の所有する土地、聖堂、修道院をはじめとして聖職者たちの住む家、教会所属の学校、福祉施設などの土地をすべて政府のものにしました。教会財産も没収し、無神論に徹した理解に基づく法律を作って、聖職者を個人営業の司会者のように扱うこととしました。これが共産主義の宗教に対する基本的スタンスと言えるでしょう。

ベトナムではどうかというと、1941年、光中堂の分堂として生命堂が建てられ、その他の教会へと発展していきましたが、通うのは主に華人であり、広東語や中国語で礼拝が守られている状況。つまり国内のごく少数による、しかも華人の集まりとして認識されているのがプロテスタント教会。

カトリックでは、1975年のサイゴン陥落前、イエズス会は放送局や図書館を運営し、福音宣教に大きな役割を果たしていましたが、現政権下でそれらの施設はすべて没収。現在は辛うじて残されたいくつかの修道院や教会などを拠点にして福音宣教に取り組んでいる状況です。

戦争が終わって平和は来たけれど、カトリックと結びついた南ベトナムが負け、共産主義国家となることで、ベトナムは大きなものを失い、「修正」の範囲内で取り戻そうとしている現状かと思います。未来は良くなっていくと思うけれど、失われたものを取り戻すには時間がかかることでしょう。




チョロンの中華街


チョロン(Chợ Lớn)は中華街の通称で、ホーチミン市西部の5区から6区にかけて広がるエリアをそう呼んでいます。

18世紀後半から華僑が集住して形成された街で、50万人もの人が住んでいるのだとか。どこに行ってもチャイナ・パワーはすごいですね。

狭い道を入って行くほど、雑多な雰囲気と漢字表記の看板が増えていくような。問屋街もありますね☆彡





チョロン

チョロン

漢字

問屋街

チャータム教会


チョロンのチャータム教会に到着。完全に中華街に囲まれています。うーん、飲み込まれていると言った方が適切かな。

敷地と街との境目はなく、バイクに乗った中華系の人々が教会にたむろしています。聖と俗との渾然一体。良くも悪くも。

だけどここが、ジエム終焉の地な訳ですね。教会前に停めた車内で射殺されたのだから、ちょうどこの辺でしょうかね。中華風の屋根が覆うマリア像の前辺り。



チャータム教会

中華風の門

レリーフ

ザビエル像

チャータム教会


こちらの教会の正式名称はフランシスコ・ザビエル教会。

ベトナムにはザビエルは来てないと思うので、ザビエルにちなんでつけられたか、同じ名前の人ゆかりの教会なのでしょう。

1900年創建なので、100年以上の歴史を持っていますが、ハノイ大聖堂やサイゴン大聖堂みたいに黒ずんでいないのは、建材のチョイスによるものかと。修復しているから真新しく見えるんでしょうね。ジエムのことなど、完全に忘れているかのようなハッピーな色合いです。



チャータム教会

教会内

レリーフ

モザイク

神父さん


聖堂入口に神父さんのお墓があったので、殉教者かと思って見てみましたが、そうではなく、この教会と地域に貢献した人のようです。

今回ベトナムのキリスト教史を調べるにあたって、ベトナム語と格闘したのですが、「Các Thánh Tử Đạo」が殉教者。ベトナム語には過去形と未来形がないそうですよ。

世界は、言語という観点でも広いものなんですね。深いと言うべきか。



神父さんのお墓

教会

教会入口

漢字

聖堂内


敷地内は中華街の喧騒がそのままですが、さすがに聖堂内だけは静謐。静けさが有り難く貴重に感じられます。

無条件降伏したジエムはここに佇んでいたんですね。まだ自分がアメリカから見限られているとは思ってなかったかもしれません。降伏したら命だけは助かるのではないかと・・・。

しかし運命というのは、その時ではなく、それよりも前に決していることがよくあります。マダム・ヌーが人間バーベキュー発言をした時か、南ベトナムが戒厳令を布いた時か、ジエムが枯葉剤の散布を許可した時か分からないけれど、どこかの時点でアメリカよりも早く天から見限られていたのかもしれません。ここの祭壇に跪いた時には、既に命運が決していたんでしょう。

ただし、現政府が「こう思わせたい」と画策してくる情報操作によって、私がそう思わされているかもしれないということを分かって、その辺を割り引いて考える必要があります。具体的には、ジエムは本当に自分の身のことだけを考えたかということです。同じクリスチャンとしては、そこは異議を唱えたいところ。

私の勝手な想像、妄想と言われるかもしれませんが、ジエムはやはり祈ったんじゃないですかね。自分のことだけでなく、ベトナムの将来のことを。そのどちらかを選べと言われたら、「ベトナムを」と。何の根拠もないただの意見なんですけど。



聖堂内

天井

祭壇

聖堂内

聖像

聖像

教会内

漢字

ザビエル像


アジア各地で時々出会うザビエル像。慕われていますね。周りに千社札みたいに信仰を表すプレートが張られていますが、こちらの風習でしょうか。

書かれている漢字がチュノムでも簡体字でもなく、日本人にお馴染みの繫体字です。どうやらベトナムに来た華人は、現在の中国が成立する前に流れて来たようですね。

中国とは陸続きで、沿岸を通れば海難事故も少なかったでしょうから、陸海ルートの交流が昔から続いてきたのでしょう。歴史を各国別に捉えるやり方は、段々変わっていくかもしれませんね。私の中でもつながった物語として見えてくるようになりました。



つながっているもの、つながっていくもの


つながった物語としてはもう一つ、後で聞いた話なのですが、ジエム大統領の甥グエン・ヴァン・トゥアン枢機卿は尊者に認められ、今はバチカンで列福調査が進められているそうです。トゥアン枢機卿のことは「アジアから、こんなにも偉大な人物が出てきたか!」と言う人もいるとか。

もしかしたらジエムの祈りを受け継いで、それをアジアや世界という単位で広げていったのかもしれませんね(妄想の続きみたいになってますが^^;)。

今や聖人となったヨハネ・パウロ二世が現役の教皇だったとき、ヨハネ・パウロ二世たっての希望で2000年の大聖年の際、ローマ教皇庁の高位聖職者黙想会の指導を務めたのもトゥアン枢機卿。この人のことを私はよく知らなかったんですが、天が覚えている人ならばすごいことだと思います。

そして、どんなに情報操作をしたとしても、「隠されたもので顕わにならないものはない」という聖書の言葉のように、いずれのときにか明らかになるかもしれません。つながった物語も、つながれた祈りも――。その一端を担えるようになりたいですね (*´ω`)




漢字

プレート

漢字

プレート

下校の子供たち


外に出ると、子供たちで一杯。少しの時間のうちに、下校時間になったようで。何をするともなく、階段に座っている大人も多いですね。夕涼みしているのかな?

日本人からは無為に見える、こういう時間の過ごし方をする国もあるということを、別に非難する必要はないですよね。ライフスタイルなんだから。こういったバッファがあるからこそ、社会の歪みが軽減されたりするのかもしれないし。他国のライフスタイルを見るのも、いとおかし。


ジエムの最期


さて運命が傾いたジエムの身に何が起こったのかだけ、押さえておきましょう。11月1日の午後1時半、クーデター部隊は警察本部、放送局、空港その他の施設を占領し、大統領官邸と特殊部隊の兵舎に攻撃を始めました。

大統領官邸以外は全て制圧され、クーデター部隊の将軍たちはラジオを通じて、ジエム兄弟に辞任を要求。ジエムは援軍到着までクーデターを長引かせようと、話し合いを提案しましたが拒否されました。ジエムはワシントンに電話をかけアメリカの意向を尋ねました。

アメリカ側は「もしあなたが辞任するならば、あなた方ご兄弟が無事に国外へ出られるようにしましょう」と答えたといいます。ジエムは一晩中、将軍たちと電話で連絡をとり続け、将軍たちは降伏するなら南ベトナムを立ち去れるよう保障すると提案。ジエムも午前2時にこれに同意しました。

ジエムと弟ヌーは降伏する意思があることを表明した後、チョロンにあるカトリック教会で待っていました。するとズオン・バン・ミン将軍が、兄弟を連行するためにジープ2台と装甲車兵員輸送車1台を差し向け、兄弟は兵員輸送車の中へ押し込まれ、両手を後ろで縛られました。

一行が統合参謀本部に着き、兵員輸送車のドアが明けられた時、ジエムとヌーは死んでいました。2人は銃で撃たれており、ヌーは更に銃剣で数回刺されていました。11月2日はカトリックの暦で死者の日。カトリック教徒だった兄弟がこの日に死ぬなんて、何か出来過ぎのように思うのは私だけでしょうか。



基督復臨安息日会


チョロンからの帰り道、「基督復臨安息日会」と書かれた教会を発見。やはり華人の通うプロテスタント教会のようです。

中国人はどこの国に行っても食堂を作るとか言われていますが、ベトナムでは教会を建てているようです。

失礼かもしれませんが、ちょっと意外。もっと現世利益的な志向が強いと思っていたから。宗教性に富む民族なのかもしれませんね。



ティ・ゲー教会


こちらは、宿に帰りながら何度も見かけたカトリック教会。ティ・ゲー(Thị Nghè)教会教会。

しかしこんな市中に目立つ形で教会があるのだから、ベトナムでカトリックは認められ、教勢も伸びているようです。

ベトナムでは現在、政府によって公認された宗教は布教活動を自由に行えるのだとか。接収されていたカトリック教会の施設なども返還されたそうで。

ただし政府公認がなければ、宗教活動は基本ダメだそうで、宣教師を名乗る外国人が布教しようとトラクトを配り、何年間か牢に入れられていたという話も聞きました。そんなのを聞くと、やっぱり共産主義国家だなと感じます。正にそれこそ「修正」すべきところだと思いますし。

ゴリゴリでガチガチの史的唯物論を脱して、経済発展をきたしたみたいに、宗教政策も是非オープンに。それを願ってやみません。



ティ・ゲー教会

ティ・ゲー教会

お土産


スーパーでお土産を調達。えびせんべいはお世話になっている人に、お茶と調味料は我が家用。旅行中ヌックマムの魅力に開眼したので、帰っても再現してみたいと思っています。

お土産って、その国の魅力を少しでも持ち帰りたくて探すものかもしれませんね (o^^o)



成田


神奈川から成田まで迎えに来てくれた夫に感謝しつつ、ベトナムで最後に買ったフレーバーティーを飲みながら帰ります。なんと幸せなんでしょうね。

旅は行って喜び、帰って感謝する二段階構造。帰国するたびに日本の良さを改めて感じるようになり、行って来た国と自分の国を好きになる。旅の効用を感じます♪





私は目になりたい


ベトナム語はもちろん、旅行スキルでも役に立てることもなく、そればかりか体力不足で足手まといになるばかりの私。こんな人間をよく誘ってくれたものだと、旅行中何度も思っていました。しかし今――。

旅行記を書きながら、「あ、これだったのかな」と思いました。こうやって記録を残し、書き記す作業をすることが、私の役割、ミッションだったのではないかと。言うなれば、私は目。そして書き記すペン。カッコよく言い過ぎかもしれないけど。

どんな素晴らしい思い出も、記録しておかなければ薄れていってしまいますが、思いと一緒に書き込んでおけば、何度でも温め直して味わえます。もしも普遍的な内容まで書けたなら、同行者だけでなく他の人までチンして食べられるのかも。

それが・・・、私はクリスチャンだから、神様にとってもそうだといいなと思います。目のように見てきて、そこで思ったこと、感じたことを告げ、こんな風になれば良いと思いますと祈りも込めたりして。

「ソウ云ウ者ニ私ハナリタイ」と宮沢賢治が書いたように、私も。神様の目に、そこまでは無理なら、地上を見回る天使のように。神様のペンに、これは全然無理そうだから、書記見習いの丁稚奉公くらいに。「ソウ云ウ者ニ」なれたらいいなぁ (*‘ω‘ *)ナー





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