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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 ベトナムで碧くたゆたふ 2


今日は登山をしつつ、ベトナム戦争の戦地跡へ行こうと考えています。体力のない私に果たして登山が可能なのか、恐ろし過ぎて前夜ぐっすりとは眠れませんでした。神様、どうか無事に山頂に達して戻って来られますように!!


夜明け


前日のうちにPちゃんが予約しておいてくれ、運転手付きのレンタカーが夜明け前に宿に到着。朝ぼらけの海岸線を北へと進みます。

今日はベトナム戦争関連地をめぐるので、ちょっとその辺の歴史をおさらいしておきましょうか。まだ頭起きてませんが (^^;)

ベトナムの支配と言うと、フランスが思い浮かびますが、ベトナム人にとってはフランスだけでなく日本も想起される対象です。これを知っていないと、自分たちの立ち位置を間違えそうですから、まずはベトナム戦争前の状態から・・・。


ベトナムがフランスの植民地になるまで


ベトナムのグェン(阮)朝は、中国文化を尊崇し、これを国の方針に据えていたため、先祖崇拝を否定するキリスト教に対して好意を持たず、宣教師や信者への迫害を続けていました。昨日お話した通り、この頃の宣教団体はパリ外国宣教会ですね。

フランスは、この迫害を武力侵攻の口実にして戦争を仕掛けました。トンキンでスペイン人宣教師が処刑されたのを機に、1858年スペインと連合してベトナムに侵攻。1500名のフランス兵と850名のスペイン兵からなる仏西連合軍は、9月ダナン港を占領、さらに59年2月現在のサイゴン(現ホーチミン市)地域を占領して根拠地としました。

1862年、第一次サイゴン条約(壬戌条約)で、阮朝政府はベトナム国内におけるキリスト教弘布の自由を認めたほか、コーチシナ東部などをフランスへ割譲しました。更に1867年、フランス軍はコーチシナ西部に突如侵入して占領。コーチシナ全域(南部ベトナム)はベトナムから失われ、フランスの完全な植民地と化しました。

フランスは、1973年にトンキン(北部ベトナム)にも派兵し始め、1880年代に入ると阮朝が弱体化したので、それに乗じて侵攻し、1887年トンキン・アンナン(中部ベトナム)にコーチシナおよび保護国カンボジアの4者を併せて、仏領インドシナ連邦を形成、総督の下に統治する体制を作り出しました。

ベトナムの苦難の歴史はまだ序の口ですが、阮朝がキリスト教徒を迫害したことが、フランスによる武力侵攻の口実となり、結果的に植民地支配を招いたことが浮かび上がってきます。歴史を見るには、政治・経済だけでなく、宗教的な視点も必須ですね。



朝に


7時ともなるとすっかり朝・・・というか、真昼のような太陽サンサン状態。熱中症が心配になってきます。見ていたら、一瞬空に虹がかかりました。幸先良さそう! たちまち元気になりました。

車道には普通に牛。自分たちだけで歩いているんですけど、餌場に向かっているんでしょうか。出勤するみたいに、律義に一列で歩いています (゚Д゚;)

閑話休題。続いては、ベトナムの歴史に今度は日本が絡んでくるところからです。


ベトナムの歴史に日本が


ベトナムはその後約60年間にわたりフランスの支配を受けていましたが、第二次世界大戦中に宗主国フランスがドイツに破れ、フランスに親ナチスのヴィシー政権が誕生すると、ヴィシーと手を結んだ日本が1940年にベトナムへ進駐。ベトナムはフランスと日本の二重支配を受けることになりました。

昨日行ったホアロー収容所の囚人たちは、フランスに対してだけでなく、抗日運動もしていた人たち(中には日本から学び、日本の援助で独立しようとした人たちもいた)でした。あの収容所に日本人が関わってなかっただけで、日本がフランスと一緒になって支配していたことは事実ですから、知っておかなければです。

フランス軍と日本軍に対抗すべくホー・チ・ミンらが結成した ベトナム独立同盟会(略称:ベトミン)は、日本と交戦中の米国や中国から支援を受けつつ、仏日両軍を相手にゲリラ戦を展開しました。タンロン城の司令本部にあった戦略地図に沖縄など日本の地名があったのはそのためです。ホー・チ・ミンはあの会議室で日本に睨みを利かせていたんですね。

1945年3月9日、 日本軍はフランス植民地政府を打倒し、ベトナムを完全な支配下に収めました(仏印処理)。そしてフランスの庇護下で存続していたベトナム王朝の阮朝が日本への協力を約束したので、ベトナム帝国が樹立されました。短期間とはいえ、日本はベトナムを単独で統治していたのです。




太陽



ホンバ山


ニャチャンを立ってから2時間半ほどで、本日登頂予定のダービア(Da Bia)山が見えてきました。頂上にあるあの巨石が目印。

あんな岩、どうやってあの場所にあんな風に立つようになったのか、不思議でなりません。

プレートが押されて地層が隆起して、ぶつかり合って・・・というのは分かるんですが、ビジュアルとして、直観的に「不思議だ」と感じるのです。

さて何だって、こんな朝早くからニャチャンから北上しているかというと、ベトナム戦争の戦場をめぐりたいからです。そこであえて観光地化されていない、当時の戦場の様子をより感じやすい場所、ただし完全に手つかずの地は難しいので、登山道が整備されているダービア山に向かおうとしている訳で。山に着く前に、日本からの独立までを俯瞰しておきますね☆


日本からの独立


1945年の春が過ぎ、日本の敗戦がほぼ決定的となると、ホー・チ・ミンは8月13日、総蜂起の指令を発出。日本の無条件降伏を受け、ハノイ市でベトミン扇動の大衆デモが起こり、武装蜂起へと発展ました。 19日にはベトミンがハノイ市にある政府機関の制圧に成功。これを8月革命と言います。

この人民蜂起はフエ、サイゴン(ホーチミン市)に拡大、8月30日にベトナム最後の皇帝バオダイ(保大帝)が退位しました。そして 日本政府がポツダム宣言に調印した9月2日、ベトナムではホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言。ベトナム民主共和国という、東南アジア初の社会主義国家が誕生しました。

さてホー・チ・ミンが読み上げた独立宣言ですが、文中には「日本」が何度も登場します。「日本のファシストがインドシナを侵略」「フランスは私たちを保護するどころか、5年の間に2回も私たちの国を日本に売った」「私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナムを取り戻した」等。ベトナムの独立宣言は日本からの独立を勝ち取ったことを祝い、宣言するものなのです。

昨日訪れたバーディン広場はその現場だった訳ですね。日本人として、もっと何かを感じなければならなかったように思います。ちなみにホー・チ・ミンが死去したのは1969年の9月2日。独立宣言の日と同じ日付だなんて、これまた不思議な。



ホンバ山



 登るぞ、ホンバ山!


登山口


トラブルもなくダービア山の登山口に到着。駐車スペースに売店を兼ねた民家が一軒。ぼっとんだけどトイレがあるのが有り難いです。

実はダービア山は地元ではちょっと知られた霊山で、スピリチュアルスポットだそう。

伝説も多く残っているのだとか。では暑くなる前に行きますか~!



登山口

駐車スペース

ダービア山登山


ダービア山と書かれた碑の前で記念撮影をして、早速山へ。

先ほどの特徴ある岩が、こっちへおいでと呼んでいるかのよう。

神々しくも感じられます♪

ちょっと力湧いてきたかなー。



登山開始

特徴ある岩

あっという間に山中


登山道は整備されていて、木や石の段、時折コンクリートで固められた箇所も見られます。

登山道以外に行かないようにしてくれてあるので、迷子になる心配はないのですが、あっという間にジャングルめいた山中へ。

朝なんだけど既に暑く、湿気も相当あって、たちまち無言になりました。大丈夫か、私 (;´Д`)!?


 

山中

無言

ムカデ登場


30センチを超えるムカデにも遭遇。誰かが「シャッターチャンス逃したー」と言っていたら、しばらくしてまた現れました。

一回くらいチャンス逃しても、何度でも遭えるので心配無用。しかし毒を持っているので遠巻きに見る方が賢明です。



洞窟も

山中


登る

見晴らしが


小一時間ほど登ると、見晴らしが開けた所に出ました。高度はそれほど違いませんが、途中で植生が変わるようです。

頑張ってひぃひぃ登っておりましたが、私があまりに息絶え絶えだったため、同行者の心配を招き、岩場で休憩を。

まだ3分の1も来てないのに。途中リタイアが脳裏をよぎります;;



祀っている


霊山というから予想はしていましたが、何か祀っている所がありました。上座部仏教系ですかね。岩に逆卍が刻まれています。

ここまで来る人は結構いるようで、登って来る道にはゴミが散乱していて、掃き溜めのようになっている所もありました。

私はそんな余裕なかったですが、Tさんは歌いながらゴミを拾っていました。女性たちも帰りにゴミ拾いを。清掃登山みたいになってしまったのは残念です。

日本でこんな風になっている所あったら恥ずかしいですけどね。外国人に拾ってもらうなんて。そんなことを思いながら、祀ってある所でも一休み。一回座ると、立ち上がれないような気がして恐ろしい。。



拝み所


眺めは良い

あと一息


とうとう巨石の足元まで来ました。12年前はここまで来て、頂上だと思って下山してしまったんですよね。

あの時もかなり辛くて、前から引っ張ってもらい、後ろから押してもらって来たんですけど。

今回は十数年分年も取ってるから、本気で死ぬかもと思うくらいでしたが、ちゃんと生きてここまで来ることができました。ああ、感謝。泣くわー。


山頂!


と、思っていたら、山頂までのラスト20分が最も過酷でした。

登山用ポールを持って来ていたのですが、全てを打ち捨てて、岩にへばりついて登るしかなく。

しかしここまで来てリタイアはないだろうと根性が湧き、皆に助けてもらってようやく到達。汗と涙のダービア山頂ですー(≧◇≦)!

遠く海まで見渡せる眺めは絶景の名にふさわしく、疲れが一気に飛びそう(実際には飛ばない)。山登りする人の気持ち分かるわー(だけど次は無いかな)。次は無いってことは、もう一生この景色を見られないってことですね。貴重なり。心の中にずっと取っておきたくなるような風景です☆彡





山頂より

山々


海まで

聖母の姿?


下から見ても存在感があった巨石は、山頂にあるかと思いきや、実際には山頂より少し下がった所にありました。

なので目線的には、ちょうど山頂に立つ人間と同じ高さ。こんにちは、な感じです。

地元ではこの岩の形が御子を抱いた聖母のようだと言われているのだそう。ちょっと分かる気が。

他にもダービア山には様々な伝説があって、この山から「聖人が来る」「将軍が来る」、その人が「平和を成す」「難しい問題を解決する」など言われているのだとか。聖なる山に登らせてもらったんですね。それにこれ以上ないくらいの好天気ですよ。

誰ともなく歌い始め、皆で賛美歌3曲を熱唱。まだまだ歌いたい気持ちはありましたが、下山することも考えなきゃですね。あー、ハレルヤ。一生レベルの感動をどうもありがとうございます♪




景色

地図

登山靴




巨石

ブタ洗い中


ダービア山登山の標準タイムは、行き2時間半、帰り1時間半だそうですが、私が思いっきり足を引っ張ったため、今回は行き3時間半、帰り1時間ちょいでした。

下山で頑張ったので、膝がガクガク。反対側に曲がりそうなんですけど、大丈夫なのかっ?

登山口に戻ると、駐車スペースでブタをトラックごと洗浄中でした。こんな光景初めてで、笑うしか。ヤギも休憩中。のどかです。



ブタ

ヤギ

ヤギ

海岸線


東南アジアでの登山なんて、体力のない者がやるようなことではなく(それは承知してたんだけど、トライしてしまった)、どうやら軽い熱中症みたいです。

経口補水液1.5リットル持って行ったんですが、足りなくて、皆に補ってもらいました。売店で何本も水を買って落ち着きましたが、飲んでも飲んでも体が欲するという・・・危なかったんだと悟りました。無理してごめんなさい。もうちょっと気を付けるようにします;;

それにしても、海美しいです。白い砂浜のビーチに誰もいないなんて、もったいないと思ってしまうくらい。神様だけが見てらっしゃる素晴らしい景色が、世界中にあるのかも。こんな美しい所が50年前は戦場だったなんて、逆に悲惨さが際立ちます。



ビーチ

海岸線

植物


ホンバ山


先ほどのダービア山や海岸に近いホンバ山、ここから北に向かっていく道沿いには、ベトナム戦争時、韓国軍が駐留し、作戦にあたっていました。

どうやら韓国軍は、先ほどのダービア山とホンバ山周辺の一続きの地域を合わせて「ホンバ山」と呼んでいたようです。

韓国軍は1964年から1973年の8年半の間、ベトナムに派兵していて、アメリカの次に積極的に参戦した国でした。

ただし自国の利益や、南ベトナムを助けようという考えからではなく、アメリカからの対外投資を呼び込み、軍需援助や貿易外特需によって、国の経済を潤そうという目的ででした。そんな政策を実行したのは、軍事クーデターで政権を取った朴正煕大統領。

朝鮮戦争によって疲弊していた韓国経済は、ベトナム戦争参戦を交換条件にアメリカからお金を引き出したことによって回復し、ベトナム特需に群がった三星現代韓進大宇などの財閥が誕生しました。若者の血を売って呼び込んだお金によって、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長を果たしたのですが、これをいい政策だったと言えるのか。

ここにもいたんでしょうね。故郷に二度と戻れないまま死んだ人たちが。しばし瞑目。



チャイ山

チャイ山

チャイ山

周辺

国道1号線


砂ぼこりの立つ国道1号線の沿道が、韓国軍が守備警護していた地域。猛虎、青龍、白馬の三部隊が北ベトナムのゲリラを警戒していました。

ベトナム戦争は最終的に北ベトナムが勝ったので、勝者の論理に従って、「北ベトナムが善」という語られ方をされることが多いですが、実際には北ベトナム軍が自国民であるベトナム人を殺す、あるいは暴行し略奪するなどの行為が行われていました。国内で分かれて戦争をしていたのだから当然ですけれど。

なのでそのようなことが行われないよう、警備するというのも韓国軍の果たした職務の一つだったのです。銃を撃って、ベトコンを殺していたというのとは違う側面もあったということですね。



韓国軍基地跡


こちらが韓国軍の基地跡。野生のサボテンが生い茂る砂地になっています。遺構はわずかに残るコンクリート製の土台のみで、これさえ建物の遺構か不明です。

海側は海老の養殖場になっています。のどかですが、荒涼としています。

韓国軍の兵士たちの給料は、アメリカが支払っていました。その頃アメリカは反戦的な空気が盛り上がっていて、若者があまりベトナムに行こうとしていませんでした。そこで経済の逼迫する韓国に目を付けたんですね。

アメリカ以外の国で最も多い兵士を派遣したのは韓国、次いでオーストラリアです。だけどオーストラリアが最も多く派兵した年でも7千人規模なのに、韓国は5万人。

ベトナム戦争は、北ベトナムを支援するソ連など共産主義国と、南ベトナムを支援するアメリカなど資本主義国との戦いという構造ですが、アメリカ54万に次ぐ31万の兵を送り込んだ韓国は、人口比で考えても相当大きな関与をしていた訳です。

日本人の感覚では、ベトナム戦争⇒アメリカ、反戦運動、ヒッピーのイメージですが、韓国の存在も大きく、及ぼした影響も大きかったということです。それを・・・私自身がよく知らなかったから、何かショックな気がして、こうして訪れてるんでしょうね。



韓国軍基地跡

韓国軍基地跡

海老の養殖場

海老の養殖場

トゥイホワの町


1号線を北上すると、やっと町らしい町が。トゥイホワです。

およそ日本人とか来なさそうな、いえ、外国人がめったに来なさそうな町です。一応お店とかあるんですけど、すごく静かです。

ニャチャンより北に住んでいたら、ここに買い物に来るしかないのかな? すごく不便だと思うけど。。




町へ

トゥイホワ

ご飯~♪


トゥイホワの町で、ようやくご飯にありつけました。しかも美味しいっ♪

屋外に置かれたクーラーボックスから、手づかみで氷をグラスに入れて持って来てくれましたが、それ以外は申し分ないお店でした(そこが問題なのだけど...)。

ベトナム料理特有の味が気に入って、またもやベトナム移住が一瞬頭をもたげました。ベトナム語さえできたらな。いや、ベトナム語難しいし (^^;)



レストラン

ベトナム料理

白身魚

スープ

更に国道1号線を行く


運転手のおじさんが、「以前ロシア人を案内したことがあるんだけど、大きな教会見て喜んでたよ。古い聖書もあって」と言い始め、興味津々になって食いついてしまった私。

Mちゃん「行きたいですか?」私「行きたい!」Tさん(ベトナム版wikiを調べて)「古い聖書よりもすごい物がある」Mちゃん「ということは?」Tさん「行きましょう!」

ということで、若干お金を上乗せして行くことに。おじさんとしてはこれが狙いだったんでしょうけど、大きな教会に古い書物だなんて、背に腹は代えられません!w

道の途中、山の方にカオダイ教の寺院も見えました。カオダイ教はいろんな宗教をミックスして作られたベトナム特有の宗教で、ロシアの小説家トルストイまで聖人として拝んでいるのだとか。混淆してますねぇ。。




沿道



マンラン聖堂


こちらが件のカトリック教会。マンラン聖堂というみたいです。

すんごい田舎の田舎にある割には、大きく立派。

思わず「おー!」と、見上げてしまいました。

フランス人宣教師ヨゼフ・ド・ラ・カシーンが1892年に建てたというので、もう120年超ですか。ハノイ大聖堂と変わらないくらいの古さです。それがこんなど田舎に、なぜ?

120年前にこれを建てるくらいのカトリック・コミュニティがあったということですよね。ここは・・・、どんな歴史を持つ村なんだろう? にわかに興味を引かれて聖堂の中へ。



マンラン聖堂

カトリック教会

聖母

ルルド

聖堂内


聖堂内も伝統的かつ細部まで神経を使った教会建築で、厳かな空気に包まれています。

外は荒い石材で造られていますが、内部は大理石が多用され、床は精緻なモザイクで覆われています。バラ窓のステンドグラスも本格的。これらは恐らく国内産ではないでしょう。

祭壇のキリストは磔刑像なので、これも古い教会の特徴です。伝統を敢えて変えずに、そのまま守ることに注力してきたように見受けられます。

いやいや、そんなこと考えるのは後にして、まずは祈りましょう。こんな畑の中に隠された宝のような教会に来させてもらって感謝ですので。人気(ひとけ)もないので賛美歌も歌っちゃいましょうかね♪ ここで日本語の賛美が歌われるのは、創建以来初めてかも?



祭壇


バラ窓

脇祭壇


ステンドグラス

天井

堂内

わんこ


聖堂の外に出ると、わんこがお出迎え。そっか、雨降ってるもんね。愛されてる感じの犬たちに、コミュニティの温かさがうかがえます。

それにしても、こんな大規模な聖堂があるなんて、どのくらいの信者さんがいるんだろう? 周囲の村って言っても、そんなに人口が多いとは思えないのに。

教会グッズを売る売店などもあって、日曜には多くの人が集まりそう。近隣だけでなく、もっと広い範囲からミサを捧げに来るのかもしれないですね。それはきっと、それだけ信仰深いからではないかと。ベトナム人のカトリック信仰の篤さを実感。これ伊達じゃないわ(当然か)。



建物

売店

立て看板

400年


敷地内に並んでいる解説板に目を引かれ、前に立ってみましたが、オール・ベトナム語で読みさえ分かりません。。

しかーし!数字は分かります。「1618-2018」「400」と。たぶん1618年から何かが始まって、2018年は400年の節目に当たるすごい年なんですよ、と言っているのだと思われます。

これちゃんと読めたら、すごく役に立つと思うんですけど。一文字も読めないって、言語の壁たかっ (;´Д`)!後で誰かに訳して教えてもらおう。



解説板

オール・ベトナム語

400年

解説板

洞窟?


敷地の中に小山のようになっている場所があって、そこに入口めいた石組が。中、洞窟になってるんですかね?

鍵が閉まっていて謎だなと思っていたら、Pちゃんが管理人さんに聞いてくれて、中に入れることに。

わぁ、感謝。自分だけだったら、交渉すらできなかったよ。



中に聖堂が


中に入ると真っ暗で、「どういうこと?」と戸惑いましたが、奥から微かな光が。

進んで行ってみると、なんと聖堂になっていました!!

人工の洞窟礼拝堂でした。大きな聖堂だけでもびっくりなのに、よくぞこんな凝った小聖堂まで造ったものです。マンラン人(びと)、隅に置けません。




この人もしかして


祭壇に立ってらっしゃるこの方は?イエス様じゃなさそう。宣教師でもなさそうな?ちょっと若く見えますね。

像の前に置いてあるカードと解説文も、やっぱし一文字も読めずorz(跪き頭を垂れる図)ですが、数字は読めます!

それから多少のキリスト教的知識も。なになに「1644」ですと・・・。1644年といったら、コーチシナで初の殉教者が出た年ですね。

ふむ、するとこの像はそのアンドレ伝道士ということか。確か19歳で処刑されているので、年齢的にも合います。つまりこの小聖堂は彼に捧げられているみたいですね。なるほど。



ド・ロード神父とアンドレ修道士


ベトナムの殉教史としては、1630年にフランシスコという人が殺害されており、そのあと1644年にアンドレ修道士、1645年にイグナチオ伝道士とビセンテ伝道士が処刑されています。外国人宣教師だけでなく、自国民も殺されているのですね。

「あれ、1644年のアンドレ修道士が最初ではなかった?」と思いますよね。実はこのフランシスコ、殺害の現場に証人がいなかったそうで、本当に信仰ゆえの殺害なのか確認できず、「殉教者」として列福するだけの条件を満たしていないのだそう。

2人が処刑された場所が、北(トンキン)か南(コーチシナ)かの違いのためかと思ったんですが、そうではなかったみたいですね。16~18世紀のベトナムは、実質的に南北2つの国に分かれ、北は「東京国」や「トンキン」、南は「広南国」や「コーチシナ」と呼ばれ、外国の人たちは別の国として扱いました。

南北まとめて呼ぶときは「安南(アンナン)」と呼んでいました。実は「ベトナム(越南)」は、19世紀から正式に使われるようになった国名なんですね。なお、フランスの植民地下では、北部をトンキン、中部をアンナン、南をコーチシナと呼んだので、指しているものが違います。

フーイェン省は、アンドレ修道士の時は「広南国」、「コーチシナ」の一部ですが、植民地時代には「コーチシナ」ではなく「アンナン」の一部です。厄介ですね。というか、Tさんから教えてもらわなければ、私も正しく理解できませんでした...(~_~;)汗




1644年

レリーフ

レリーフ

アンドレ修道士

ド・ロード神父

鍾乳洞みたいに

小聖堂

天井

カテキズム


洞窟内は、真ん中に小聖堂、周りの回廊が資料室という構造になっていて、ぐるっとめぐりながら、ベトナムの歴史と殉教者に思いを馳せることができるようになっています。

こちらはガラスケースに入ったカテキズム。キリスト教の教理を対話形式で説明したもので、要理書とも呼ばれます。

これがTさんが言っていた「古い聖書よりもすごい物」ですね。ド・ロード神父はベトナム語のローマ字表記を考案し、それに付属記号を付けてベトナム語の六声を区別できるようにし、1651年、初めてのベトナム語辞書を作ったことで知られています。これが今日のベトナム文字の元となっているクオックグー。

また1658年にはベトナム初の要理書を刊行(いずれもローマで出版)。それが今、目の前にある訳です。ド・ロード神父は、この要理書を1636~45年にマカオで神学を教えていた時に書いたようです。出版はその後になりますが、コーチシナの殉教者となった人たちは、ここに書かれた教理を元に伝道活動をするカテキスタ(カテキズムを教える人)でした。



ガラスケースの中に

要理書

カテキズム

宣教地図

解説板

貴重な資料

ド・ロード神父

カテキズム

フーイェンのアンレー


壁の展示で知ったのは、アンドレ修道士がここフーイェン省の人だったということ。「フーイェンのアンレー」と書かれています。

そっか、そういうことね!・・・というか、すごいですね。今日は別に殉教者を追いかけていた訳でもないのに、ここに来ただなんて。

しかもアンドレ修道士は、私が知ってる数少ないベトナム人殉教者で、実は結構関心持ってて。まさかここの出身だとも知らず、運転手のおっちゃんの口車に乗ったみたいにして来たというのに、どストライクですよ。マジか。神様の導きをひしと感じます。


フーイェン省とアンドレ修道士


外の解説板も読んだTさんによると、総合的にこういうことが書いてあるらしいです☆
       ↓
ベトナム(この場合コーチシナ)にイエズス会の宣教師が初めて来たのが1615年、宣教拠点が初めてできたのが1618年で、この時から本格的にベトナムの宣教が始まった。ベトナム(やっぱりこの場合もコーチシナ)で最初の殉教者アンドレ修道士の出身・受洗地がフーイェン省のマンラン(Mằng Lăng)。

これって、調べようとしても相当語学力ないと調べられなくて、実際に現地を訪れようとしたらかなりの労力を要しますよね。それを偶然のようにクリアしてここに立っているなんて、感謝以外の何ものでもありません。ダービア山で一日の業を終えたくらいの気分でしたが、続きがあったとは。御心深すぎ。



聖遺物

列聖式

クロス

バチカン

頭蓋骨

フーイェン

小聖堂がある小山

マカオ


雨足が強くなってきたので車に戻り、運転手さんお勧めの海岸へ向かいます。この雨雲が午前中に来なくて良かったよと思いながら。

こんなベトナムの中でもど田舎の村から、ベトナム初の殉教者が出たなんて、何というか、人ほど計り知れないものがないですね。

人をどれだけ偉大にするかは、その人が持つ精神や信条に係っているように思いますし。私は偉大になれるようなタマではないけど、信じた道は最後まで行きたいなぁ。



ダーディア岬


ダーディア岬に到着。インドシナ半島で唯一の柱状溶岩を見られるそうな。柱状節理とも呼ばれるあれですね。日本だといくつかの海岸で見ることができたかと。

せっかく来させてもらったので、しっかり見学していくことにしましょう。


入口

案内地図

オブジェ


海岸


こちらが噂の柱状節理。柱状節理とは岩体に入った柱状の割れ目のこと。

マグマが冷却固結する際、収縮して生じるもので、玄武岩では六角柱ができることが多いそうな。

自然にできたものなのに、キレイな六角形をしているから、ビジュアルとして面白いですね。

海にはおわん型のたらい舟も。観光用でしょうか。




たらい舟

溶岩


柱状節理

溶岩


噴出した溶岩が、海水で冷やされてできたと思しき崖も乙なもの。ゴリゴリの柱状溶岩だけでなく、海との合わせ技で魅力を出しているように思います。

神様の作品と言えそうな。

岬の向かう方向からすると、あの小島の向こうに日本があるはず。日本の皆さん、元気ですか~?


断崖



向こうは日本?

植生


溶岩が固まってできた奇岩というのは、地震大国日本では割合よく見られるもので、柱状節理も観光ついでに見たことがあります。

だけどこちらとは植生や自然の様子が異なっているので、別物みたいな感じがしますね。

自然保護地域となっている範囲も広くて、日本のようにお土産屋さんがズラッと並んでるのでもないので、自然の中で純粋に観察ができる点が良いなと。以上、神様が創られた作品見学でした (^▽^)




奇岩

植生

南国

本降り


本降りになってきた雨に急かされるように、車はニャチャン方面へ。途中カー峠という所につい最近トンネルが完成したおかげで、移動時間がかなり短縮されました。

ダービア山に行くだけなら通らなかっただろうトンネルを通りながら、これもプレゼントではないかと思ったり♪


帰り道


車内

カー・トンネル

夕飯


ニャチャンに戻り、夕飯は地元客で賑わうレストランで。テーブル席が歩道に張り出していて、そこで七輪を熱して海鮮を陶板焼きにして食べるんですが・・・、道交法とか消防法とか大丈夫なんでしょうか??(←日本人的発想)

他店で注文したスイーツなどを店内で食べられるシステムにも驚かされます。配達までしてくれるとか。それならばと食後のジュースとプリンを注文。うう、天国かも♪



歩道まで店

七輪で

ベトナム料理

プリン



容赦ない優しさ


ベトナム人に接しながら、彼ら彼女らの容赦ない優しさに「うっ!」とくることがあります。「うっ!」とは、心にグッときて、泣きたいような気分になること。それくらいベトナム人は純真で、シャイで、人間が優しくできているのです(私調べ)。

この民族性が昔からのものなら、400年前に来た宣教師、日本人キリシタンたちも同じことを感じた可能性があります。どうしてベトナムに来たのか、そこで死ぬまで暮らしたのか、もちろんミッションがあったんでしょうけど、情熱を支える力も作用していたはずです。

本だけでは学べない、そのような側面を身をもって知ることができるのが、旅行の醍醐味なのかもしれません。フィールドワークと言うと言い過ぎでしょうけど、歴史を動かした原動力には、人の心があったと思うので、そこを捉えてみたいです。

だから残り半分の時間も、体験して、心を心で感じたいですね。明日はホーチミンに移動して、また違う世界に接する予定。できればこちらからも、何か容赦ない良さを携えていって、ベトナムとの間に面白い化学反応を起こせたらいいな・・・☆





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